2014-06-07

鎮魂の六の日は雨に咽んでいた。

20140606m

お恒例六の日、日程的に自由になった今回、

5月から週3の火、木、金曜日を出勤にしていたが、6日は最初から休みのカレンダーにしていた。

週末ということもあり、開演は20時。お昼頃名古屋発の高速バスでも十分間に合う。帰りは0時30分の夜行バス、久しぶりにゆったりとしたスケジュールとのんびりと朝を迎えていた。

しかし、8時過ぎに携帯の着信を確認、高尾に住む姉からだった。嫌な予感。

すぐさま自宅の電話、体調を崩していた義兄の容態がおもわしくないらしい。

お互い極力負担をかけないようにしている姉が,亡くなってからTELしても驚くだろうからと沈んだ声だった。つまり、緊急を要する状態であることは容易に想像できる。

6の日をあきらめて、予定のバスで高尾に向う選択もあったが、まずは少しでも早く行った方がいいと、まずは新幹線で東京に向う。

名古屋は晴れ間もあったが静岡あたりから雨脚が強くなる。

そして新横浜を過ぎたあたりで,再び携帯が鳴る。

11時34分、義兄が亡くなった。九州にいる長男は向ってはいたが間に合わなかったものの,3人の娘は見とれたとのこと。

しかしである。何故この日に。

ちょうど2年前、30年来の知人は六の日の4日後、息を引き取った。

2年前は渋谷の七面鳥でのライブだった。その日は彼の容態のこともあり,前半だけで後ろ髪を引かれながら会場を後にしたのだが・・・

六の日は、確かにオーメンの日、決して縁起のいい日ではないのだけど、そのお陰で、間に合わなかったとは言え、東京に向うことが出来た。

高尾は雨に煙っていた。

家族の意向でスーツに愛用のメガネ、無精ヒゲも綺麗に整えられていた。

まるで今にも起きそうな姿でベッドに横たわっていた。

肌寒い日であったが、毛布を腰にまいて遺体の側に寄り添う娘達、エアコンがガンガンに効いていた。

葬儀社が訪れ段取りを進めていく。

家族だけで見送りたい、でも現役の大学教授だし、そんな訳にはいかないだろう、娘達の勤務先もあるし、しかし本人の意向ということで、姉達は家族だけの葬儀を選択した。

それを見届け、再び通夜、葬儀に訪れる段取りを終えて、大塚に向った。

こんな時に、と言われることを承知で、でも2年前の知人と義兄と、そして私を結ぶ六の日だから、と自分に言い聞かせ六の日に向った。

とにかく場所が分かりにくグレコだが、途中女性からグレコはどこですかと訪ねられ、あの信号を右に回ったところですと伝えると,彼女は雨の中をかけていった。

結果それを追いかける形でグレコに入る。

じろ吉同様、満員ではあったが、予約が早かったのか、一番前、ゆいさんの目の前に案内された。

多分、過去の六の日の中で最高の席かも知れない。

定刻を少し遅れて皆さんが入ってくる。

小室さんがどうしてもみたらし(少し変ったものらしい)が食べたくなってと、

六の日が始まった。

前半はすべてスパイ物語の中の曲でと説明があり、 いつもの歌、聞き慣れた歌に混じって、劇中歌など12曲が、いつもの小室vsこへさんのやりとり、ゆいさんの介護ネタを織り交ぜて歌われていく。

そしていつか全30数曲あるという劇中歌をすべて披露することをやってみたいとおっしゃっていた。

初演から40数年、小室さんとこへさんを出会わせて六文銭にとっては欠くことができない別役さんの不条理戯曲、台本をあらためて見直すとせつないんだよねと小室さん。

青山円形劇場での再演はCSで見ているが、この楽団六文銭で全曲披露されれば、貴重な文化遺産と思うのだが。

何より40数年前にこの曲を作った小室さんの実力はやはり恐るべきものだと改めて思った。

<第一部のセットリスト、曲名不明,間違っているものがある点ご容赦願いたい>

 お嬢さんの歌/ここ/髭のはえたスパイ/曲名不明/雨が空から降れば/りんごの木/ネコの歌/そこに惚れた/曲名不明/全部買ったちゃった/へのへのもへじのあかちゃん/ある日スパイがやってきた。

圧巻は前回も披露された小室さんの口上付の全部買っちゃった。

何より小室さんの整えられた口ひげは、義兄のそれと同じだったのが何よりの供養だった。

後半は一転?こへさんの曲が続く。

引き潮、こへさんと小室さんの熱唱。と、突然、赤が欲しいなとなり4個のワイングラスがステージに。

アルコールが入ったところで、前半の小室さん的には失敗したねこのうたをもう一度やり直す。

夏二人で、インドの街を象にのって、木の椅子とステキなハーモニーが続く。

戦場はさみしい。ここでいつもの小室さんのこへさんいじり。

小室さん曰く考えられないイントロのコード進行。普通は曲中のコードを使うのだが,全く関係ないコードを使うのがこへさん流。

これに対しこへさん曰く"真似てもいいよ”って。このやりとり小室さんの苦笑で終わる。

街と飛行船。

面影橋。

そしてまたまた突然、小室さんからのビックプレゼント。

いつもは禁止されている演奏中の撮影が次の曲の1番だけOKが出る。

合わせてfacebookやブログ掲載OKも。

当初から私設広報部員としてこのすばらしいユニット、ハーモニーを知らしめたいとコンレポを書いてきたのだけど、

最近は写真が撮れず、熟知たる想いがあったのだが、少しは認めてもらえたのかしら。

撮影OKとなった曲は、12階建てのバス。

小室さんの盟友、イラストレータの小島武さんの詩に小室さんが曲をつけたもの。

このバスは実は死者を乗せて走るものだ。2年前の知人も、そして義兄もこのバスに乗って見送ったのだろうか? 少なくとも今日の私にとっては鎮魂の歌となった。

アンコールの出発の歌、そして最後の曲は無題。

雨が降りしきる中、鎮魂の六の日は幕を閉じた。

予定どおり0時半の夜行バスで長い、長い1日、とにかく帰途についた。

★画像は一番前のため4人一度にはフレームに収まらず、合成の1枚である。

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2014-01-29

色あせぬものと変らぬもの、そして六文銭'09。

まるで六文銭のようにの活動が始まってから今年で15年。
そしてゆいさんが加わった六文銭'09としては6年目になるという。
いずれにしても過去のどの六文銭よりも長く続いていることになる。
その意味では、今はやりのように団塊世代をターゲットしたグループの
再結成、復活とは当然ながら一線を画した存在であるのは言うまでもない。
つまり六文銭'09は懐かしのユニットではなく、今もまだ留まること知らない
現役音楽ユニットなのだと思う。
放っておくと今でもどんどん新しい曲が,ハーモニーが生まれてくる感じがする。
ただそのエネルギーが大きいからこその危うさ、不安定さをユニットとしての
活動を限定的にすることで、バランスを取っているように思う。
今日のライブで中で、いみじくも小室さんがこへさんのことをよく判らないと
いいながら、よく判らないからいいんだと。そしてゆいさんもこへさんの
難解な曲をすっと自分で理解できるとかっこいいと思うとも、
ユニット内でいまだに探り合い、影響を受け合っているユニットがあるだろうか。
小室さんがこへさんの曲作りを揶揄しながらも、今日の後半の曲を
すべてこへさん作曲のセットリストで行なうのもお互いに認め合っているから
こそだと思う。
その意味ではオーディエンス側がそれについて行っていないのでないかと
考えるのは私だけだろうか?
無論、それぞれの価値観があるのだからかまわないが、
知っている曲だけを懐かしむのなら
(多分、その時代の自分自身を懐かしむために)六文銭'09はふさわしくない
と思うのだが。
昔の曲であっても、初めて聴く曲もあり、何より40年前に作られたことが
信じられない鮮度で迫ってくるし、知った曲であっても2014年の六文銭'09の
レパートリーとして、演奏される。そして今のこのユニットだから生まれる素敵な曲に出会うことが、ライブに通う最大の楽しみでもある。
前置きはさておき、2014年最初のライブ”六文銭'09 うたいぞめ"は
高円寺のライブハウス"じろ吉"で行なわれた。
高円寺の駅から数分、5時頃には数人の方が冬としては暖かいその日、
すでに開場を待ってみえた。
何しろ本日の開演は7時半、さすがに早いと思いいくつもある高円寺の
商店街をぶらつくことにする。(これがこの後の悲劇?を生むのだが)
高円寺は地方のシャッター商店街と対極のにぎやかな商店街がいくつもある。
阿波踊りで有名な純情商店街やアーケード沿いのパル商店街があり
時間潰しには苦労しない。
なんだかんだで7時少し前、会場に戻るとすでに場内は満席、
お知り合いを探すにも暗い中と後姿ばかりではそれもかなわず、
結局最後まで立ち見での参加となった。
会場の案内では椅子で40名、スタンディングで100名とあるが、
多分実質50名程のオーディエンスだろうか。
(六文銭’09ならもっと大きな小屋でもいいと思うのだが、このサイズ感をあえて選択されているのかも知れない)。
いずれにしても平均年齢60歳前後のオーディエンスにはスタンディングは
少々きついかな(笑)
定刻どおり、その分オーディエンスと極めて近い距離感でライブがはじまる。
1曲目は、うたいぞめらしく"はじまりの足音”というノリのいい歌で始まった。
40数年前にこへさんの詩に小室さんが曲をつけたものだが、
こへさんご本人には記憶がなかったとのこと。私も初めて聴く曲だが、
今回作ったと言われてもわからないほど、新鮮な印象の曲である。
小室さん曰く前半は,昔の曲、やったことがない曲中心でいくとのことだった。
2曲目は"げりらの歌",70年代のFMで流れたのをエアチェックした音源を
持っているが、女性の声は小室さんの奥様のものである。
ちなみにこの曲は、虫プロのアニメラマ3部作の中の挿入歌として
音楽担当の富田勲さんの依頼で作った曲とのこと。
3曲目は”スナフキンの歌” 初代のアニメ(岸田今日子さんの声)ムーミンの
スナフキンの曲とのこと。
当時ゆいさんは"うちのおとうさん、スナフキンだよ”って言って
いじめられたとのお話も。
続いては"ヒゲの生えたスパイ”これは別役さんの戯曲”スパイ物語”の
下敷きになった曲。
この曲自体も別役さんの詩だが、これは当時"比叡おろし"の
作詞者でもある松岡正剛氏が発行していたハイスクールライフ誌内で、
詩人の詩に無理矢理曲をつけて発表していた中のひとつということで、
私にとっても、茨木のり子さんとか,大岡信さんとか清岡卓行さんの
純粋な詩に何でも曲をつけてしまう小室さんの凄さに気づいたきっかけの
頃の曲である。
そして5曲目にそのスパイ物語の中の挿入歌である"雨が空からふれば"がすっと流れ、
同じく挿入歌で前半のメーンイベント?でもある"全部買っちゃった"。
スパイ物語自体は言うまでもなく、こへさんと小室さんを結びつけたきっかけだから、まるで六文銭の成り立ちを追っていくドキュメンタリーのような構成でもある。
そしてこの曲、歌というより劇中、常田富士男さんの口上を
小室さんがそのまま演じるという力作で、この日朝8時半から永さんの番組に
出演されていた小室さんのエネルギーが最後まで続くか心配になるほどの迫力だった。
7曲目の”街と飛行船"がいつものハーモニーで流れてから
急遽、鳩首会談がステージ上で。次の曲をどうするかのよう。
結局、こへさんの両方やったらで決着。
"12階立てのバス"そして"雨"で前半が終了した。
さてスタンディング位置はセンター正面だが、私の前におひとり
スタンディングオーディエンスがみえるので小室さんは頭を傾けないと
見えない位置。
下手に収まるこへさんはばっちり、小室さんを挟むゆいさんと四角さんも
問題ない位置だが、6時間の高速バスで来た身としては足というより
腰に疲れが溜まってきている。
(でも当然、歌ってみえる皆さんはスタンディングなので弱音ははけないなあ)
後半はすべてこへさんの曲でいくと小室さんが宣言して
"にんじん”でスタート。(こへさんソロの極初期の歌)
ゆいさんと四角さんのユニゾンがさわやかな”木の椅子"
小室さんやゆいさんのこへさんの曲に対する評価なり、感想を交えながら、
こへさん自らの紹介で糸田ともよさんの詩に曲をつけた"春日、まほろば”。
いつもはソロで歌われるこの曲を4人のハーモニーで幻想的に歌い上げる。
重ねるように”戦場はさみしい"そして"大雪の日"
曲に対しては小室さんが絶賛した上で、
でもさこれ最近作った曲だけど"大雪の日,密かに地下室で祭りを企てる”なんて
絶対60年代、70年代学生運動やってた奴の歌だよねと話される。
転調を重ねる曲もどうしたいのかと,揶揄しながらも楽しそうだった。
ありふれた夢"この曲についてはご自身が解説なさっているのでこちらを---
続いて詩人、有働薫さんの曲。
"月の魚” こへさんは"雨が空から”につながるとおっしゃって,
小室さんがどこがと突っ込み、
歌い終わった後、ゆいさんが確かに雨が見えたとしめくくる。
そしてライブラストは同じく有働さんの"白無地方向幕”本日の収穫のひとつ。
六文銭’09として歌われると新しい命が吹き込まれたよう。
因みに白無地方向幕とは昔のバスの行き先を表す表示幕とのことである。
お決まりのアンコールは、いつものサーカスゲームなどではなく、本日、初めて聴く6曲目。今日は色んな曲が聴けて収穫大、というか2014年の六文銭'09の方向性を示してくれたのかも知れない。
こへさん曰くツイストだねって言うノリのいい歌。”グットくるように愛してる”。
続いて出発の歌だったが,個人的にはそのままで余韻に浸りたい感じだった。
さて、私もまもなく2回目の人生が始まる。2回目の人生もまだまだ回転し続ける六文銭'09がそばにいてくれているというのは何とも心強い。
6年目と60年目、やはり六文銭のない人生なんて考えられないな。

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2013-08-31

46年前。変わらない永さんへ

中学生の頃だろうか?
誰かとどこかで。
46年、ラジオとは言え全国ネットで1社提供、桃屋もとにかく凄い。
永さんのスポンサーはどこも肝が座っている。龍角散もやはり凄い。

そんな番組が9月一杯で終了すると言う。
遠藤靖子さんとのコンビ、崎南海子さんの7円の唄、スポンサー同様何もかも
この国がどんどん壊れて行く中、何も変わらないまま続いてきた。
マンネリではなく、何もかわらない,変えないところに信念があるように思った。

そう7円の唄もハガキが7円の時代から変わらない。

幸いなのは時代の流れに番組が押し流されたのではなく(多分)
永さんの体調が最大の理由ということ。
土曜ワイドを続けるためだということ。

パーキンソン病、幾度の骨折、そして80を越えた肉体に
残念ながらそう多くの時間はないかも知れない。

予備校時代、藍染めの作務意姿の永さんに
もらったサインが初めてのサインだった私も来年還暦を迎えるのだから
永さんがそのままの方が不思議なのだけど

少なくとも私も、心は10代のまま、世間で言う大人にならないまま
会社生活を終えようとしている。
何もかわらないこと、賢さはないけれど、流されずに来たのは
永さんの力があったのは間違いない。

これからは毎週土曜の4時間半だけだけど
変わらない永さんを変わらずウォッチしていこう。

私自身が変わらないためにも。

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2013-06-25

41年目の"出発の歌"の功罪

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このサイトにお出でになる方はすでのご存知のことと思うけれど、
あくまで六文銭フリークとして、決してフォークを懐メロという視点では語らない者の
戯言であることをお断りしておく。・・でないとただでさえ敵の多い私でも、ことさら敵の数を増やすことが目的ではないので。
さて、呑気なファンサイトに7月4日のテレ東京系でジョーさんと六文銭が出演して"出発の歌”を歌う(正確には録画なので歌った)のだそうだ。正直なところ六文銭フリークにとってのこの歌は決してその代表曲ではない。勿論、上條さんもステキだし、こへさん作詞、小室さん作曲の歌自体に罪はないのだけど、あくまでこの曲はジョーさんのために、世界歌謡祭のために創られた曲で、六文銭のレパートリーとしてではない。まさにこのことが、不幸のはじまりで、知る人ぞ知る六文銭の代表曲がこの歌と定義されることで、この歌は時代のひだに囚われて懐メロになってしまったのだと思う。さすが懐メロの雄?の東テレが選ぶことはある。判りやすく言えば六文銭を出発の歌で認識している者の大半は、六文銭の本当のすばらしさを知らない連中と言い切っても間違いはないと思う。
そのことは、六文銭唯一のオリジナルアルバムたる傑作"キングサーモンのいる島"には、当然のように出発の歌は収められていない。それだけこの歌が六文銭にとっては異質な歌であるし、当時の六文銭にとってこの歌がいかに特殊な存在であったかは、彼らを1年追いかけたラジオドキュメンタリー(芸術祭大賞も受賞した)、フォーシーズンを聴くと良く判る。それは六文銭の解散を急がした理由のひとつであり、ある面TY氏と同罪なのかも。
2000年にまる六として活動を再開した時も、この歌が歌われることはなかった。
記憶違いでなければ、まる六としてこの歌が歌われたのは、実に8年後、私がまる六の追っかけをした2008年の道東ツアーの初日である釧路が最初だったと思う。この間にまる六としてこの歌をどう昇華したのかは、ご本人達にお聞きしないと判らないが、少なくとも36年後に聞いた出発の歌は、1972年のそれとは明らかに違い、ジョーさんの歌ではなく、まる六の歌になっていたことは目の前で聴いた本人として断言できる。
その意味でも、今回ジョーさんと組んで歌われた"出発の歌"は六文銭フリークとしては、素直に聴く事はできないのだけれど・・・
やはり12月の六の日は、生の六文銭に触れなくてはと思った次第。

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takumi's eye vol.1 デザイン時評 新型クラウン

新型クラウンの売れ行きがいいそうである。
要因のひとつにCMでのらしからぬピンククラウンと
大胆なフロントデザインにあると言う。

これから,時々クルマのデザインについての考えを書いてみることにした。
インダストリアルデザインとしてのクルマと芸術としてのカーデザインの融合の観点から、と言っても所詮は個人の考えだけど。

さてコンサバの代名詞のようなクラウンだが、今回の変身はあくまでクラウンにしてはのレベルで少なくともシルエットとして見れば、極めて全うなセダンスタイリングである。

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確かに獅子頭のようなフロントグリルに目を奪われるが,最初の写真を見て頂くとわかるが、全うなボディラインに沿って大きめの開口部を開けたらこんな形になりましたという様なグリルである。それを強調するようなクラウンマーク(何故トヨタマークなのか判らないが)のデカさがそんな印象を与えられているのかも知れない。

問題と言えばこのデカいクラウンマークで、それ自体はスタイリングに関係はないものの、デカさより品質感のなさが気になる。前述のようにシルエットに沿って湾曲したグリルに更に合わせるためにクラウンマーク自体もカーブしており、更に風切音のためかそのマークに透明なプラスチックのカバーがかかっている。この処理はいかがなものか。少し疑問が残る。
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実はこのクラウンのコンサバでない点は、HV車にカムリ用の4気筒エンジンを選択したこと、そしてスタイリングで言えば写真2にあるように極端なエッジスタイルから一歩進化したところにある。
最近のクルマはセダンタイプであってもCD値削減のために、そしてCAD設計の影響なのかサイドからのシルエットは極端なエッジスタイルのものが多い。結果リアスタイルが腰高の印象を与えるケースが多い。特にボディ一体バンパー故にまるでおむつを背負っているようなものが多かった。その点今回のクラウンはリアエンドをそれほど高くせず、その分Cピラーを大きく寝かすことでハイデッキと同等の効果を得ているのだろう。
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とは言え、クラウンのスタイリングがいいかどうかと言われれば、極普通というか、レクサスとベンツのいいとこ取りのようなもので、トヨタブランドの最高峰としてトヨタ全体のスタイリングをイメージさせるものではないのも厳然たる事実である。

まあ,クラウンを欲しがる層にはよくフィットしているのかも知れないが。

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2013-02-16

深夜放送

多分、初期の深夜放送世代だと思う。
無論、それは深夜放送の定義にもよるのだろうけど。
深夜が特別な時間であるようになってから、そうパックが”もうひとつの別の広場”と宣言した時代なのかも。
ネットもFAXもない時代、アナログながら現実に双方向放送を実現していた。
いまだに大本営発表のような一方的な操作された情報が真実かのように思っている世代が存在しているが、確かにあの時代、新しい世界がスタートしていたように思う。
フォークも、そしてユーミンも多分深夜放送無しでは今のポジションはなかったと思う。
大本営には乗れない、否乗らない彼らの存在と魅力の多くを同じ価値観を共有したパーソナリティ達がもうひとつ別の広場、そう大本営の連中が取るに足りないと思って無視した時間帯で発信し続けた結果だと思う。
特にミドリブタこと林美雄はパック内でユーミンだけでなくタモリ、おすぎとピーコ、石川セリ、ミスタースリムカンパニー等々を出演,紹介していたし、日活ロマンポルノの芸術性にもいち早く言及し、私のような田舎者にも都会の文化の香りを届けてくれていた。多分、今の私の成り立ちに間違いなく多くの影響を与えている。
そんな深夜放送の時代、
その中でも、1時~3時のメイン深夜よりも3時~5時、パックで言えば2部の方がよりディープな時間だった。
ミドリブタも最初はナチチャコパックの後の2部だった。この時間帯、文化放送はセイヤングが3時まで、そしてパック2部の時間帯は、今でも続く”走れ歌謡曲”、そう別の広場ではなく表の世界を裏で支える長距離トラックドライバーに向けた番組だった。パックが当初日産の単独スポンサーだったのに対し、この番組は日野自動車の1社提供。1974年にパックの第2部が終了し、ミドリブタパックも終了する。
因みにユーミンがその最終回に向けて創ったのがMISSLIMに収められた"旅立つ秋"、偶然なのかその後彼女自身がビックになっていく。
そしてそのパック2部が終了した後番組が、走れ歌謡曲に対抗するいすゞ自動車が提供する”歌うヘッドライト”だった。
この経緯だけみてもわかるように、82年のパック終了へつながるもうひとつの別の広場の崩壊への序章だったような気がする。深夜が特別な時間帯でなくなった証拠でもあった。
その後、私の中ではもうひとつの別の広場がネットの世界の一部に繋がっているように思うのだけど・・
そして、面白いことに行き過ぎた表の世界の先にあるのが、今のラジオのような気がする
何より双方向の先輩として、ネットとの親和性が最も高いメディアなのだと思うから。
※パック2部が終了する際の攻撃標的でもあったいすず自動車だけど、
  ラジオやテレビで流れるこのCMソングに涙腺が刺激されるのは何故だろうか
 いすゞのトラックhttp://www.isuzu.co.jp/movie/museum/song/mp3/cm_music.mp3

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2012-10-06

希望の国

園子温監督の最新作である。
あのフクシマの悲劇をテーマにしている。
その悲劇から僅か1年半で出来上がったこの映画を時期尚早と思うのは
この現実を早く忘れたい、否できることならなかったことにしたい
政治屋や官僚、そして金が命より大事な企業屋だけだろう。
園子温監督は、大竹まことのインタビューで、
何故、今フクシマの映画を撮るのかと聞くのは日本のメディアだけだという。
欧米のメディアは、それは当然のことだからと聞く事はない。
嗚呼
この監督の代表作と言えば4時間の大作"愛のむきだし"、"愛の罪"
そして昨年の映画賞を総なめにした"冷たい熱帯魚”
いずれも実際に起きた事件を題材にしているのだが、
その意味ではこの映画を作ったことは必然といえる。
いや、彼曰く、映画人なら
何故、今、フクシマを題材に映画を撮らないのだろうと言う。
哲学のある映画人なのだろう。
冷たい熱帯魚のヒットで次回作になんでも金を出すと言っていた連中が、
題材がフクシマと聞くとどんどん去っていったそうである。
結局、台湾とイギリスのお金でようやく完成させた。
これがこの国の現実なのか?
哲学のない政治屋、否政治スピーカーたるどじょうは、
財務省とアメリカと財界のスポークスマンでしかない。
目先の利益、得に走るのも何のための政治か答を持っていないからだ。
今日の電力が大事か、国民の未来が大事なのか
そこに哲学があるから選択は生まれる。
問題なのはどんな選択をしたかではなく、
その選択の意味、結果に責任を持つ覚悟と
判断基準となる哲学があるか、どうかである。
権力を握ることが最終目的の輩達に
悲しいことに松下政経塾の落ちこぼれ集団と腹の弱いエセ右翼と
所詮、軽薄さだけが売りの第3局、みんな同じ穴の狢であることは
なんたることだろう・・・
そんな奴らしかいないのがこの国の最大の悲劇なのかも知れない。
因みにこの映画の舞台は長島県、そう広島と長崎とそしてフクシマの悲劇をテーマにしている(監督のインタビューより)
希望の国 http://www.kibounokuni.jp
これ以上の皮肉とそれでも希望を持って生きていく市民の映画である。

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2012-06-17

六の日から4日後。 六文銭は無形文化財に。

六の日から4日後の日曜日。
時の記念日の午後2時34分、彼の娘さんから息が弱くなったと泣きながらの電話が入った。
実は土曜日の午前にも、奥様から同様の電話をもらったのだが、それは痰を取る際、神経を触ってしまって発作を起こしてしまったもので駆けつけた時にはすでに収まっていて、集まった家族もそれぞれ戻っていた後だった。
緊急入院から3週間、休み明けから人工呼吸器をはずして出来なかった心臓と肺の治療に取りかかるという、ほんの少し光明が見え始めた矢先だった。

だから今度も同じなのかなあと微かな期待を持って訪れた病室は、
家族が7人が声も出さず、異様な沈黙の中、すでに呼吸器もはずされた彼が横たわっていた。
一瞬、事態が理解できなかったがすべての補機類がはずされていることで状況を把握するしかなかった。
享年74歳。私とは17歳も違うけれどかれこれ30数年来の知人というか,友人というか、ご家族まで含めた腐れ縁の恩人である。(彼自身は対外的にはいつもマイナス10歳で通していたが)
実は、この場で家族以外は私だけなのだが、この一族の居候のように過ごしてきたので何の違和感もなくその場に立ち尽くしていた。

もはや意味もなく,痛みを押さえるために鎮痛剤によって意志を明確に伝えることさえできなくなってもはずすことがなかった腕時計が、入院直前まで仕事にクルマで走り回って彼らしさの象徴でもあるのだが・・。時の記念日に人生を終えるなんて出来過ぎだけど。

六の日、前半だけでどうしてもその日の内に戻っていたかったのは、
翌日から別の出張があり、ひょっとして何かあった時には駆けつけなければと言う想いがあったからなのだけど。

彼は出張の間だけは頑張ってくれたのかも知れない。
しかし、土曜日、せっかくリハーサルをしたのにあまりの急変に立ち会えたのは付き添っていた奥様と長女だけで娘夫婦、孫達は間に合わなかった。
せっかちすぎるよ。早とちりなんだから。いつもの口癖が思わず出てしまった。

しかし、マグロのような彼は動けなくなったら死んじゃうよね。仕事しながら死ねたら本望だからと家族も含めて思っていたから,らしいと言えばらしい。
ただ同時に人並み以上の恐がりで,寂しがり屋でもあるのでせめてみんなが集まるまで待ってくれてもいいのにと少しだけ口惜しさがこみ上げる。
いつもは1日でも早く退院したいと思っていたのが、もはや退院はままならぬと理解した時点で、生き続けるのが嫌になってしまったのか?
鎮痛剤を打つ前に家族ひとりひとりに抱きついたのが彼にとってはお別れのセレモニーだったのかも知れない。

さて、すっかり遅くなってしまったけれど、六の日、前半のレポート。
渋谷の七面鳥という名のライブハウス。久しぶりの都内での六の日だ。
皆さんにはある面、申し訳ないが、六文銭09'のステージは最早伝統芸能の域に入ってきたと思う。その分、それを体感するには、オーディエンス側にもそれなりの覚悟が必要な気がする。つまり、団塊の世代をビジネスの核とする所謂フォークソングブームとは一線を画すし、今の六文銭を懐かしさ、ノスタルジィで捉えることはできないと考える。
強いて言えば、歌舞伎やシェースクピア劇と同じで、今の時代のひとつと断面として存在しているから聞く事ができるのだと思う。
確かに出発の歌は、あまたある他の懐かしフォークと同じなのかも知れないが,同時に出発の歌が六文銭09を代表する曲かと言えば、それもまた決してそうではないのは明らかだ。
そしてこの日、渋谷に集ったオーディエンスの期待も違うものである。

この日のテーマは別役特集。
ただスタートは、個人的には六文銭を代表する曲だと思う、キングサーモンのいる島と夏、二人でだった。曲や詞は言うまでもないがアコースティックだけで表現される演奏、ハーモニーは誰にも真似のできないものだ。まさの芸、至芸だと思う。

そしてスパイ物語以前にこへさんが座付音楽家として創ったネコのうたや海賊のうたなどの劇中歌にはじまり、雨が空から降ればを含んだスパイ物語内でうたわれる楽団六文銭としての歌のメロディが続いていった。

小室さんによる常田さんの台詞廻しを含めて、別役劇が音楽だけで繰り広げられていった。
これをフォークソングなどと呼んでは失礼すぎるだろう。
まさに六文銭音楽と呼ぶにふさわしい世界だ。

できることなら、この至極のハーモニー、そして世界観を
もっと、もっと多く体験できるようになれば・・・

とにかくそれは無形文化財と呼んでもおかしくない、類い稀な存在なのだから。

個々の活動が充実するのはそれはそれですばらしいことだけど、
できることなら六文銭としてしか表現できない世界観を知る、体感できる機会がもっと増えることを願いながら、個人的な六の日を胸に刻んだ。

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2012-03-11

3.11 変わったもの。変わらないもの。

3.11 朝から震災1周年関連の番組が続いている。
しかし,問題なのは明日からの姿勢。
結局、幕引きのためのセレモニーに見えてしまうのは、私だけか?
実は1年経っても被災地の悲しみや苦しみは何も変わっていないのだから。

震災とは表裏一体ながら、別軸で考えなくてはならない原発問題。
やたらと震災とセットで同列に片付けようとする風潮が気になる。
相変わらず、爆笑の太田はその路線を変えようとしない。
まあ、こいつの限界だけどスポンサー獲得には実に有効なスタンスだろうな。
津波の悲劇と原発の問題は、まさに次元の違う問題であるということを、
こいつに認識させないと、ますます暴走が続く。

原発は震災によって起きた事故ではなく、
震災によって、その問題、危険性、矛盾があぶり出されたと認識しなくては
この問題の解決にはならない。
コストの比較で、電気料金の値上げの口実にする国賊達が何と多いことよ。
それを言うなら、口封じのための寄付金や今後40~50年の廃炉費用、及び今回の補償費用すべてを入れて比較しろといいたい。
とにかく、東電や政治屋などすべて震災のせいにして逃げ切ろうという輩が多すぎるのは最早,人としての資質が欠けているとしか言えない。
こいつらも何も変わらない連中である。

ようやく原子力村の呪縛から,人として目覚めた班目が、原発の再稼働のハードルを上げる発言をした途端、あろうことか再稼働の必要性を急に言い出した枝野。
こいつはカメレオンよろしく、今回明らかになった事故直後の対応で,国民に噓を言い続けた張本人であることを忘れたか?
自国民には噓の安全を吹聴しながら、アメリカにはスピーディ情報を開示していたのが明らかになっている(騙された一人として、当時過度の危険性を歌うのは危険と言ってしまった反省も含めて、奴は絶対に許すことはできない)
当時、東京からアメリカ人やフランス人が消えたのは、自国民の安全を最優先する各国政府の当たり前の対応だったことが今では明らかになっている。
そんなこんなの議事録だから、なかったことにした方がいいのだろう。

そんな奴があろうことか原発再稼働を主幹する経産大臣だと思うと、自分で言った僅かな反省さえもすぐ忘れるどじょう首相らしい選択だ。
政治屋と政治家の違いは、その姿勢に哲学があるかどうかで、何事も損得判断でしか決められない松下政経塾出身者の政治屋は誰も信用できない。
しかもそんな奴らを支えるのが自己弁護しか才能を発揮しない枝野や仙石の悪徳弁護士あがりばかりだとすれば、一番変わらなくてはならないのに,変わらないのは政治屋どもと言える。

そして、こんな政治屋と御用メディアが育てたバカ市民達にも呆れる。
被災地で出た震災ゴミの処分を放射能を理由に反対し続ける奴らがいることが信じられない。
仮に放射能汚染物質の処理をと言うのならわかるけれど、岩手や宮城の震災がれきをそれと同等の理由で、処分を拒否するのは、まるでこの国の古くから根付く差別思想の典型のように思えて気色悪い。

1万歩ゆずって、その震災ゴミが危険だとしたら、そのゴミを処分できない被災地は危険なままでいいのか?そんな輩に限って、福島県出身だというだけで、危険視したり、イジメに加担したりする昔からこの国にはびこる差別思想が染み付いた連中だと思う。
山本太郎もこうした時こそ、原発と震災ゴミとの問題を明確に区分した発言をすべきだと思う、こうしたバカな奴らにはそれが一番きくのだから。

こうしてみると、悪い奴らこそ変りたくないのかも知れない。

視点を変えて、津波に耐えた1本松が話題になったけれど、
江戸時代から景観優先で防風林なり防砂林を松に変えてしまったこの国の歴史が
実は極めてもろい海岸線にしてしまったのは、あまり知られていない事実だ。
今回の震災でも、根を地中深く張らない松並木があっけなく津波にさらわれていた。
こうした津波にも地中深く根をはって堤防を補強することができるたぶの木は、日本古来の常緑樹で所謂鎮守の森には欠かせない高木だった。元々日本中の海岸線にあったタブの木を松並木に変えていったのも、やはり人間である。

植物学者の宮脇昭さんによれば、震災ゴミを海岸線に置いてこのタブの木を植林すれば10年ほどで、緑の生い茂る緑の大堤防が出来上がるとおっしゃっている。このゴミは何が混じっていてもいいそうで、まさに災い転じて福となるすばらしい発想なのだけど、この震災で一儲けを企むコンクリートが大好きな土建屋連中にとっては金儲けにならないのも事実である。
※この試みは一部だけで採用されているそうだけど。
震災ゴミの搬入を反対する理由が、こうした理由なら少しは支持するけどね。

しかし、こうしてみると変われないのは人間の性なのだろうか。

震災1周年。
1日でも早く、悲しみや辛さが少なくなりますように。

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2012-03-04

拝啓、そして最後の小島慶子様。

いよいよラジオの世界から小島慶子が消える日のカウントダウンが始まった。
どうして、この話題に拘るのか、正直判らないが、
結局、彼女の言動のひとつひとつが、ラジオの世界を裏切ることがラジオファンとしては許せないのだと思う。

彼女に初めてスポットライトが当ったのは、
キラキラの初代プロデゥーサーにして、彼女をキャスティングした村沢Pが
当時担当していたバトルトークラジオ”アクセス”のパーソナリティに小島慶子を起用したのがスタートである。
バトルトークそのものに聴取者とゲスト&コメンテーターとテーマに添って議論をすすめるプログラムの中で、小島慶子は進行役にてっすることなく,自らのその議論のテーブルに乗っていくことで評価を得たのだ。そしてその後の彼女のラジオにおける代名詞となったギャラクシー賞を受賞することになる。
無論、彼女の個性が番組内で際立っていたのは事実だけれど、テレビ&ラジオ総合局であるTBSにおいてどっちつかずの(彼女自ら言う中途半端な美人であるという容姿そのもののように)存在として燻っていた彼女の特性を見抜いて起用した村沢Pの手腕があってこそだった。
その後、結婚&出産を経る中で再び露出が減少する中、ラジオに戻った久米宏の初代アシスタントとして再び脚光を浴び、そして人気番組のストリームの突然の打ち切りを受けてスタートすることになったキラキラで,再び村沢Pが彼女に白羽の矢をたてたことが,今の彼女の存在を不動にしたのである。

何せ、局アナ(当時)でありながら,番組名に自らの名を冠するのは、TBSには安住紳一郎の日曜天国以外はなかったのだから、その期待度というか,評価の高さを裏付けていたと思う。

結果ある面、期待以上に番組は成功を収め、同時に彼女の評価も急上昇することになる。とは言ってもそれはあくまでラジオの世界でのことであり、局アナとしての脚光で言えば安住君に比べれば数段というか段違いに劣るのは言うまでもない。

しかし、想定以上の脚光を浴びた者の宿命なのか、自らを振り返る度量の違いなのか、突然のフリー宣言で,局アナを辞めることになる。
しかし局アナを辞めることを非難するつもりは全くないが、出演する番組に何も手を加えることなく、そのままの形で立場だけ変わるというのは異例と言えば異例だった。(キラキラの人気に局側が怯えたのあろうが)
無論、彼女自身にしてみれば”辞めろと言えば辞めたわよ”と嘯くかも知れないが、そこは言われたから辞めるのではなく、フリーになる正当性を明らかにするためにも、自らの判断で辞するかどうか、そうもっと違う世界へ羽ばたきたいから辞めますと言った上で、他メディアへの露出を加速して行ったのなら、それはそれですばらしいこととラジオファンは拍手を持って送り出したことだろう。

ところが彼女は”私はタレントではなくラジオパーソナリティ”と宣ったのである。ところがどう見てもその後の彼女は世間の注目と他メディアへ露出が増加するのと反比例する形でラジオ番組に対する情熱が薄れていきかつ手抜き具合が目立つようになっていったのは、長年聴き続けてきたリスナーなら誰もが判るのである。

まあ,彼女自身がTBS入社時、本当は日本テレビへの入社を希望していたことからも判るように,決してラジオ命ではなかったのは明らかで、何よりテレビに出たくても出してもらえなかったことでラジオに活路を求めていたのは疑いようもない。
それなのに"ラジオパーソナリティ宣言"はないでしょうにと、当時思ったリスナーは多かったはずである。
余談だか、彼女の同期は堀井美香と小川知子で二人とも現役のTBS局アナだ。それぞれが自らのポジションを確保して現在も活躍しており、アナウンス技術においても,テレビ主体の小川アナはともかく、堀井美香さんの方がはるかに優れていると思う。

そして彼女のラジオに対する情熱が薄れていくのに比例して、キラキラの聴取率も一度は追い越した文化放送の大竹まことのゴールデンラジオの後塵を廃することが多くなってきた。そのことに危機感を感じたTBSラジオ側が、聴取率調査を分析した結果、この時間帯の40~50代男性の結果が悪かったことを受けて、そんなリクエストを出したとしても不思議ではないと思う。
彼女のすべきことは、そんな対象を意識した番組なんかできないと言うのではなく、どうしたらそんなターゲットにもより満足してもらえるラジオ番組にできるのかを考えることではないのか?あるいは自分の好きなようにできないのなら番組を降りますと言えばいい訳で、それをラジオの先にいるリスナーが云々なんていう屁理屈であたかも自らを正当化するよう態度を取ったところで、もはやそれにシンパシーを感じるリスナーはいないと思うのだけれど。

ラジオを捨てるのなら、堂々と決別宣言すればいいのに。
ある面、その方が余程彼女らしいし、被害者面をしてラジオの代表みたいな顔でテレビでバカバカしさを曝されても嫌悪感だけが湧いてくる。

そんなことを思っていたらさすが伊集院光が言ってくれた。
彼は言葉を選びながらも、結局キラキラを辞めたかっただけなんでしょ。
って言い切っていた。
彼自身は20代に有楽町の局で超人気者だった時、局側をもめたあげく、番組を降りるどころか,それ以降有楽町のラジオには一切出ていない。
それを彼は、自分も20代だったから、でも彼女はもういい歳でしょ、とまで言い放っていた。しかもラジオを愛する伊集院らしい表現で。さすがである。

正直、伊集院はみんなが思っていても言えないことを代表して言ってくれたと思う。後は安住君が何か言ってくれればラジオファンはもう少しスッキリするけどね。
何しろ、彼はTBSラジオを愛する余り、局側から処分(!)を受けたくらいだから・・・。

拝啓、小島慶子様 ラジオからのご卒業、心からお祝い申し上げます。

サヨウナラ♪

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2012-01-29

ちょっと違うんだよなあ〜小島慶子さん

この話題、関心のない人にはどうでもいいのだけど、ラジオを愛する者としてはね、なかなかスルーできないんだよな。

小島慶子が新聞記事に対して反論というか、説明という形で木曜日のキラキラオープニングで話していた。関心のある方は水曜日までポッドキャストで聞く事ができる。
曰く、40~50代を意識した放送にして欲しいという局側の要望に対し、聞いているリスナーそのものを大切にしたいからそんなことできないから降板するなんてことを話していたと思う。なんという思い上がりか?じゃ、40~50代をターゲットにした放送をしろと言われたならできるのかしら?話だけでそんなセグメントされた放送ができるほど小島慶子は天才なのか?

局側の肩を持つつもりは全くないが、スタートダッシュで一躍時間帯トップに躍り出て、いつのまにかラジオの救世主のような存在に祭り上げられた小島慶子だが、最近は聴取率調査においても、大竹まことゴールデンラジオの後塵をはいすることも多くなってきた状況の中で、局なりに分析したらこの40~50代男性層が弱いという結果が出ていたのだと思う。それを受けての要望をしたというのが実情だろう。
しかし、両番組をスタート時から聞いている者(私!)からすれば、そんなターゲット云々の問題ではなく、番組としての質がどんどん落ちているのが一番の原因だ。とにかく小島慶子の他メディアへの露出増加に比例して番組そのものへの手抜き具合が目に(この場合は耳か?)ついてきた。本来個性的なパートナー達も、小島慶子というブランドが増大する中でいつしかそのおざなり感、手抜きに合わせるだけの存在になり下がってきていた。
そんな実情を今の腑抜けプロデューサーやディレクター連中では、正面切って小島慶子には言えなかったのだろう。

そして小島慶子自身も、この状況下で今一度キラキラを盛り上げる情熱も無くなっていたのだと思う。その意味で、局側の話は渡りに舟という形で降板を申し入れたのだろうと思う。

少なくともアクセスの最終回に当って、ラジオはその瞬間、瞬間が大事であり,今聞いていてくれる誰かのために話せればいいと言っていた本人が、自ら降板を切り出すことは矛盾しないのか?聴いてくれる誰かがいる限り、放送させてくれる限り話続けることがラジオパーソナリティの本質ではないのか?

更に言えば、そんな話を自己弁護のように放送で話すこと自体、少なくとも局アナ時代の小島慶子なら一番否定することではないのか・・と思うが如何に。

その意味では今回、ピエール滝が”よくわかんない”と否定したことが唯一救いだった。さすがロッカーだ。

まあ、少なくとも今の小島慶子にはラジオを愛する心が無くなっているのだろう。その意味では降板してくれてよかったと思う。ラジオにはラジオ愛があるパーソナリティが今こそ必要だから。
同じTBSに永さんや久米さん、大沢さん、伊集院光、そして安住君とラジオ愛に溢れるお手本があるのに,結局何も学習しなかったのかなあ。

その意味では今の彼女には"行列”テレビの方が似合っているように思う。

余談ながら、このドタバタ劇の翌日のライバル番組、大竹まことのゴールデンラジオのオープニングで、何やら気を使いながらもこの話題に触れながら嬉しそうだったのがのが面白かった。
TBS-Rの皆さんにお知らせすると、最近キラキラのヘビーリスナー(ほぼ毎日投稿が読まれるような)がゴールデンラジオに寝返っているのが目立ってきた。これもキラキラのマンネリ感のあらわれなのか?

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2012-01-26

小島慶子の限界、太田光の本質。

小島慶子がラジオを降板するそうだ。
彼女自身の言い訳は、局側から40、50代男性向に放送をして欲しいと言われ、自分の考えとは合わず降板することにしたそうである。
実は、震災以降、最も身近なメディアとしてのラジオが、主に東日本で見直されている。同時にテレビが結局は大スポンサーと権力の広報機関でしかないことが明らかになったことも大きい。
そんな状況の中で、"中途半端な"毒のある小島慶子が注目を集めたのは、タレント的には運が良かったのかも知れない。
因みに"中途半端な”というのは,彼女自身が自分のことを"中途半端な”美人ということに由来する(笑)

しかし彼女の毒は、局アナであることで輝く毒であったことを理解していなかったようだ。"局アナなのに"他局の番組に乗り込んだり、自局の看板番組に毒づいたり、CMを飛ばしてまで自分の考えをぶつけたりすることに、リスナーはシンパシーを感じたのであって、そう局アナ故にいつ降板させられるかも知れないというハラハラドキドキ感が実は彼女の魅力の大半だったはずだ。
局アナとして決して恵まれていたと言えない彼女がラジオの中で輝くことに、いい意味で局アナのくせに凄いという評価を得ていたと思うのだが。

そんな彼女が局アナという鎧を脱ぎ捨てフリー宣言をして、自らをラジオパーソナリティと宣った時、何とも言えない違和感を感じたリスナーは多かったと思う。
確かに局アナというのは鎧ではあるものの、ラジオパーソナリティという立場で言えば、最も毒をはきにくい危うい存在であるのも確かである。(そうタレント以上に局側の都合だけで降板させるのはたやすいのだから)

そんな彼女がフリーになったことで最早吐き出される毒は毒ではなくなっていた。
ちょっとやっかいそうなタレント、でも数字が取れる間は利用するというのがこの世界である。(その毒の本質なんて関係ない、旬かどうかがタレントとしての判断基準である)
だから政府公報からでも声がかかる。そんな毒っぽいタレントを使うということであたかも自ら(権力側)が真摯であることをアピールできる、まさに利用されただけなのに、正に期待どおりのリアクションでそれに対応していた。
果たして、その毒のお陰でテレビからも数々の声がかかり、水着撮影まで受ける彼女にキラキラを始めた頃の想いは残っていたのだろうか?

実はこの時間帯で聴取率を争う大竹まことのゴールデンラジオとの比較で言えば、特に震災以降、キラキラは全く輝きを失っていた。(これについては以前の記事でも書いている)
その理由はいろんな要素があるのだけれど、皮肉にも大竹まことが震災以降ラジオの力に改めて気づいたのに対し、小島慶子がそのラジオに対する情熱を失いつつあったことが一番大きいと思う。
正直、最近のキラキラは小島慶子のおざなり感、惰性だけが伝わってきていた。
彼女自身、自らのパワーをラジオに傾ける意欲がないことに一番気づいていたのかも知れない。
だから,今回の降板のニュースを聞いても驚くことはなかった。
まあ、肩肘張らず局アナあがりのタレントとして、その賞味期間がある限り、頑張ってもらえばいいと思う。
それがラジオにおける彼女の限界だったのだろう。

そして太田光である。
実は彼の毒もまた小島慶子のそれに類似したものである。
ただ彼はもともと局アナという鎧は持ってはいない。
その分、数倍したたかに自らの存在感を計算し尽くしている気がする。
同じくTBSの深夜放送でタレントらしからぬ政治的な発言や文化論を語ることで異彩を放ち、テレビの世界でその存在感を確たるものにしていった。

ところが彼もまた震災以後、策に溺れるようになっていった。
小説家先生ともて囃されるのはご愛嬌としても、こと原発に関する発言については看過できないものが続いている。
彼的には、反原発一色に靡く風潮の中で、またまた異彩を放つ手段を計算しているのだろうが、曰く、これまで電気を使い続けてきた奴が、あたかもそんなことを忘れたかのように反原発を言うのは許せないと。だから自分自身としては原発の有無について判断しかねていると。確かに原発CMに出ていながら、事件があった途端にそんなことに触れようともしないタレントを揶揄したいのは理解できる。しかしそのことと原発に対する姿勢とはまったく次元の違う話である。しかも今となっては大半がでっち上げで作為的に作られた安全神話だったことが白日の下になったのだから。
彼の論理が成り立つのは、日本の電力の大半が原発で発電されたものである場合だけだろう。現に大半の原発が止まっても日本の電力は基本的に受給関係を維持しており、電気=原発でないことは明らかである。
そんな状況下で、電気を使う人間と原発を同義に扱うのは論理が破綻しているとしか言えない。
結局、彼は反原発という論理の本質を無視して、反原発に靡く風潮の中で自らの存在感だけを計算したとしか思えない。
言うまでもなく、大事なのはその本質であり、それに真摯に向き合わないのが彼の本質、これもまた限界なのだろう。

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2012-01-02

2012年、年のはじめに。

最近すっかり日記のペースが落ちている。
焦燥感というか、切なさというか、比例するかのように結局昨年のLIVEは1回きりだった。こちらについては明確な理由があるけど、遠いところで前述の焦燥感とリンクしている。
新しい年のはじめに、この焦燥感の元になっている言いようのない未来に向けての漠然とした不安感をどうしたら払拭できるのか、人の営みの根本から見直すことで微かな光明をみつけたいという想いから、自らの頭の中を整理してみたい。

実は昨年、次々とこの国、世界を襲った自然現象の多くはやはり新世紀を迎えながらもその営みの過ちに気ずこうとしない人類への最後の警告のように思えてならない。特にこの国においては、その自然の警告から人的に不幸を更に増幅させる愚を明確にさせてきたように思う。

少なくとも真っ当な感受性、人間性を持つ者達にとってこの大きな不幸は、人間としての価値観を大きく転換するきっかけになっている。2012年以降、この警告により価値観を転換させたものとこれまでの価値観にしがみつこうとする者に大別されるように思えてならない。

原子力村の住人同様に経済学者の多くは価値観を転換できない代表だと思う。原子力村の住人の科学者のみならずその利権に人生を委ねてきた者も、実は経済学者が抱かせた幻想、矛盾がその後ろ盾になっている。
つまりソ連の崩壊以後、アメリカに代表される資本主義、特に金融資本主義が唯一世界に通用する経済原則のようにされてしまったが、実は資本主義こそこの世界で最大の矛盾を抱えた思想である。資本主義の根幹は言うまでもなく拡大再生産である。確かに富の再分配を加速するためには配分する富が大きければ大きい程容易であることは確かだ。そして20世紀にその恩恵を多くの世界が享受したのは事実だけれど、最大の問題は地球という有限の上での思想であることである。言い換えれば未開地=富の分配を受けていない地域、が存在するからこそ、そしてその未開の地が新しい市場かつ資源保有であるという前提があってからこそ成立するロジックであるということである。

21世紀に入り、当然のこととして資源は有限であるという現実が大きくのしかかってくる。ここで資本主義のフロントランナー達はどうしたのか?リアルな生産物としての再生産ではなく、それが生み出す価値=金のみで再生産を維持しようとした。金(物質としてのゴールドではなく)というのはバーチャルな価値故、資源という有限さは必要でなく、金が金を生むというバーチャルな世界の中で永遠に拡大再生産=資本主義の根源が維持できる。丁度、物づくり現場の流出が続いていたアメリカの資本家達にとっては誠に都合のよい思想であった。そして価値の拡大再生産という金融工学という投機システムが主流となる中で、有限な資源さえも価値を再生産する投機と対象となっていった。

しかし、投機の対象だとしてもそれを必要とする生産物が存在してこその価値である。リアルな生産物が成立する価値を越えた価格になって時点でその価値は崩壊する。つまりバブルがはじける訳である。

更にはリアルな生産物を伴わない価値の拡大は、本来生産拡大を担当することによって得た富の再配分を受けるべき中間層=中産階級を必要としない。そうバーチャルな価値の再生産は一部の金融資本家への富の集中を加速化させる。その結果として崩壊した中間層の多くが貧困層へなだれていくことになる。これが昨年から起きている99%デモの根源である。

更にこうした金融工学に毒された生産現場の資本家も、物作り・生産の現場での富の再分配を受けるべき中産階級の存在を無視して、物作りで得たリアルな富さえも金融資本主義が生み出すバーチャルな金と同義語化していく。つまり資本家=この場合は会社と同義かも知れないが、は生産による富の再分配というテーゼを無視して自ら手にする金の最大化を計り、そうそこには中間層=労働者は生産物の市場=消費者でもあることも忘れ、労働力さえもコスト化していく。その結果、より安価なコストを求めて安価な労働力の為だけに生産現場を国外へ移転していく。つまり金融資本主義化ではあたかも正義のように思われるこうしたコストの追求は富の再分配という目的を失い、金を生むための手段化していった。

こうした傾向は資本主義が早期に定着していった所謂先進国の多くでより顕著に富の分配の極端な歪化に陥っていく。無論、日本もそのひとつだが。
ホリエモンがいみじくも言った"金で何でも手にすることができる"思想が蔓延することになる。つまり金儲けが目的で、得た金で何をするかが見えなくなっていくのである。目的と手段の転換、正にここに価値観の転換が必要になる根拠である。

実は原子力村の発想も、目的と手段を取り違えた結果と言える。
電力確保を目的化し、そもそもその結果と言える豊かさを得る市民の姿がイメージできていない。多少のリスクはそれによって得られる一部の金=利権のための犠牲になってもかまわないということではなかったか?
そのくせそのリスクを認識するからこそ、自らは決してそのリスクを負わぬように過疎地への立地を促進する。真に安全であるのなら送電コストを低減できるように工業地帯に隣接した原発にするだろうに、そのくせ建設にあたってはこうしたリスクを最小限に試算してコスト低減を計っていく矛盾を正当化していく。
これがが今回の原発事件の本質だと思う。

無論、人は過ちを犯す存在だから、その結果を真摯に受け止めることで転換はできたはずなのに,事故後の対応を含め、すでに利権化した構造の中で悲劇を更に拡大していった。
本来の政治家はまさにこうした事態を受けて価値観そのものを転換できるはずなのだが、もはやこうした利権構造に取り込まれた政治屋には、悲劇を拡大する片棒しか担げなくなっていた。

仮に100歩譲って、堅牢で事故自体起こりえない原子力発電所が可能だとしても、その廃棄物であるプルトニウムについては無毒化できる処理方法について人知はその答えを持っておらず、わずか1gで1億人の致死量に当るこの廃棄物をトン単位で増やすことについて何の解決策を有していない。これを安全と言い切るセンスはもはや政治屋以下の鬼畜であると思うがいかに。

更には、すべてを少子高齢化を要因として責任放棄している年金、財政問題にしても実はそれがすべてではないことは明らかで、正には前述した金融資本主義により再分配を受けることができなくなった中間層、本来資本主義ではメジャーとなるべき中産階級が貧困化することによる税収不足~消費力の縮小が最大の要因であることは明らかで(ただ金融資本主義下の資本家=経団連に代表される利権構造企業にとってはそれを認めることは自らの矛盾が露呈することになるので決して認めることはないどろうが)、こうした構造的矛盾を放置したまま、消費税率をアップすることは(消費が縮小している中での税率アップが税収増に本当につながると思っているのかしら)負の連鎖を拡大することにしかならないことは余程の馬鹿でも判ると思うのだが。

そう、新しい年が、被災地が少しでも前を向くためにはこうした構造的矛盾を解消させる価値観の大転換が必須で、何より目的と手段を正しく認識する知恵が何より必要だと思う。
死にかけの病人に対処療法のような小手先の手段を繰り出すのではなく。価値観の転換、それはバーチャルではないリアルな経済の拡大であり、富の再配分の正常化、そう日本が豊かさを実感したのは一億総中流意識の時ではなかったのか?、雇用の確保、それに伴う消費力へ転換できるだけの利益配分を果たすことが,真の経済力がアップするのだと確信する。
そして、人としての尊厳を維持するためのコストであれば懸命なる市民は間違いなくそれを負担することを厭わないだろう。
これまで何ら選択肢を示さずみかけの低コストをあたかも正義のように突き進んできたこの国に、人が人として憲法が保証する生存権に伴うコストを算入した上での選択肢を早急に示す時代になっていると思う。

それに気ずかない、否、利権構造維持のために避けている既得権力者達の一掃が第一だと考えるが如何に。

2012年、年のはじめに考えてみた。

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2011-11-03

輝きを失ったキラ☆キラへ

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何となく感じていた違和感が確信に変わった今回のスペシャルウィークだった。
ストリームから代わった直後、TBSは局アナを使って安定路線に舵をきったと揶揄される中、村沢Pと小島慶子はそんな風評をいい意味で裏切り、およそ局アナらしからぬ物言いと個性あふれるパートナーの組合せ、実はこのパートナーの選定こそがこの番組の成功の肝とも言える、有り体に言えば小島の毒を前提として日替りで中和させたり、はたまた毒をミックスしたり、重ねたりして曜日毎のメリハリをつくり、更にはサウンドパテェスリーというコーナー(今はコラコラ)ではある面カルトチックな話題までも上杉隆や町山智裕など既存メディアでは決して伝えない情報を加味することで、ラジオというメディアの特性を最大限活かしたプログラムとなった。その結果として僅か半年で時間トップの聴取率を獲得し小島慶子も一気に時代の寵児となったのも十分に納得できる。

以来、この手の番組にはめずらしく(まあ,高聴取率ということでテコ入の必要もないからだが)5人のパートナーは不変で、変更されたのはサウンドパテェスリーのコラムニスト3人が変わったのみである。この内、半年だけの岡野、1年の小林はともかく誕生以来2年勤めた上杉隆の交代についてはかなりきな臭い噂があった。記者クラブ批判の急先鋒である上杉にコーナーを与え、彼に発言の場を提供し続けたことは、彼の批判する既存メディアの一部であるTBSにとっては,ある面諸刃の刃であったのだが、ラジオという媒体、番組自体のスタンスから言えば、それがあることでプログラム全体を引き締める一部であったことは確かだし、多くの聴取者にとっても彼に発言させるTBSに、その懐の深さと相対的にそんなTBSに対する信頼感を与えていたのも事実だと思う。

案の定と言うか、明らかに上杉隆降板後から政治的話題を取り上げることは極端に少なくなった。同時にフリーに転身した小島慶子も当初のエネルギーは消え、局アナらしからぬという所で存在感のあったその毒が、フリータレントとしてのそれは毒とも言えぬつまみ程度になってしまったと言うのは言い過ぎだろうか?
彼女の勘違いなのか、まだ見せぬ戦略なのかは定かではないけれど、番組の輝きが色褪せていくのとは正反対に小島慶子の他メディアへの露出が(まあ、写真集まではどうかと思うが)加速していく。そう、小島慶子という"適当”な毒っぽさはフリータレントとしての世界では都合のいいレベルでありちょうどいい旬さがあるのだと思う。正直なところ、その姿には痛々しさを感じるのは、それは小島慶子そのものというより小島慶子という商品をどんどん消費しているようにしか見えないからか?

とにかく、最近のキラキラでは1週間を通じても政治はおろか,震災も放射能の話題にも一言も触れることなく過ぎていくのが珍しくなくなっている。無論、これみよがしにその話題を取り上げることはないのだが、何やら意図的に避けているとしか思えないのは私だけか?1週間通じてアメトークのような楽屋ネタ、他愛のない身内トークばかり聴かされても仕方ないだろう。
因みに直近のスペシャルウィーク、ライバルの文化放送”大竹まことゴールデンラジオ”はオープニングでは大竹自身の言葉でニュースをテーマに積極的に政治、震災、原発の話題を語るだけでなく、レギャラーで震災以後実施している被災各局との共同番組もずっと継続中だし、その1週間のメインコーナー(メインディッシュ)のゲストは、月曜の乙武洋匡に続き火曜はあの上杉隆、水曜は山本太郎!、芸人枠の木曜はロッチで金曜は大橋巨泉というラインナップだった。

やはり,ラジオという媒体で何をするのか?何をしたいのか、そんな当たり前の指針さえ無くしてしまったキラキラに再び輝きが戻るのか、もうしばらくは注視したい。

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2011-10-16

茶番

99%デモの続き。

アメリカ在住の映画評論家、町山さんのレポはいつも思わぬ発見がある。
プロの記者達は、一体何をやっているんだろう。
記者クラブみたいな護送船団のぬるま湯に浸かっているとまともな感覚もなくなってしまうのだろう。悲劇なのはそんな連中がまことしやかに伝える情報がいつか,事実として一人歩きを始めるこの国のメディア、それに引きずられていく民意とやらである。

そもそもこの99%デモを無視し続けるメディアは論外だけど、町山解説は実に明快である。
曰く、彼らは何に怒り、何が問題なのか?
デモの参加者の多くはサブプライムローンを発端とした景気後退による失業者である。
曰く、そのサブプライムを仕掛けたゴールドマンサックスなど金融業者は、右手で住宅バブルをあおりながら、逆の手でその破綻を想定して逆ばりをして破綻自体でも利益を上げる仕組みを作り上げた張本人であるにも関わらず、誰一人として逮捕されることもなく、いわんや財政支援を受けてますますその体制を盤石していっている。その本尊がウォール街だから,それに対しデモを行っている。
曰く、アメリカの税制は、就労に対する所得税率が30~35%なのに対し、株や投機によって得た利益には一律15%しか課税されない。つまり投資資金のない低所得者からは30%以上の税金を取りながら、金持ちのマネーゲームには15%しか課税しないことで、貧富の差、格差がどんどん拡大している。
これが1%の金持ちが40%以上の資産を保有しているという根源であること。
曰く、金持ち課税を強化すると言って大統領になったオバマは2年経過しながら、提案した課税法案を何ひとつ実現できていない(確かに議会は金持ち課税に反対する共和党が優勢だが、本気で通すことを考えるのなら大統領特権で突破できるにもかかわらずだ)ことへの絶望感があること。

この話を聞けば、このデモの本質なり。問題点がよくわかるのに、日本のメディアでこれ以上分かりやすい解説を聞いたことがない。

そして、この思想の根源が資本主義の究極の形、新自由主義で、今や世界中に蔓延している思想である。これを否定するような内容を報道するのは、彼らにとっては自己否定なのだろう。伝える姿勢が鈍るのも致し方ないというところか?

早晩、というか最早小泉改革とやらでその中にあるのがこの国の現状といえる。
福島の例を上げるまでもなく、理由はともあれ一旦不幸になると、どんなに頑張ってもそこから這い上がることはできない。わずかに引き上げるために使われるのはそれより少しだけ不幸でない敗者である市民から巻き上げる税金で、金持ちや企業家達はそれから逃れるために資産をどんどん国外に移転していく。それもこれもやったもん勝ちという自由を最重視するのが新自由主義であることに市民はそろそろ鉄槌を下す時がきていると思うが・・・

佐賀県知事、九電、政府の茶番を見ていると
実はこんな茶番劇が、この国ではこれまで気づかないままどんどん行われてきたのであろうことは容易に想像がつく。
今回は余に茶番すぎて、わかりやすかっただけで、本来は霞ヶ関がもっとまともなシナリオで展開するのだろう。奴らの居直りを見る限り、この茶番の愚かさに一番気づいていないのは彼ら自身に思えるのだから。
そして九電社長や佐賀県知事の鼻を木でくくったような会見にまともにつっこめないメディアもやはりこれまで茶番劇の広報担当にしかすぎなかったことが明らかになってしまった。何しろあの会見が成立してしまうのだから・・。
通産大臣の判断の前に、あんな会見を否定する役目こそがジャーナリストの役割ではないのか。

そして、国家による茶番が再び
無駄な金使いや記録自体のいい加減さは何も解決していないのに厚生年金の支給開始を再び遅くしようと画策しはじめた。
30年も40年も支払い続け(正確には先輩の為に資金を注入し続け)ようやくゴールが近づいた時に突然、後トラック3,4周しないとゴールじゃないと言うのだ。
これが民間の生命保険なら、とりつけ騒ぎが起きるぐらいの大事なのに、官僚の犬とかした今の民主党政権は、支給開始を遅らせるのが遅過ぎたと嘯く。
国民との正規契約である年金制度を一方的に改訂しようとすることが如何に大きな問題なのかを何もわかっちゃいない。
これじゃ納付率がどんどん下がるのは目に見えている。今68歳といいながら再び伸ばすことに何のためらいもないのだから、永遠に支給されないと思う方が道理に叶っている。
それくらいの覚悟があって言っているのか、それとも本音は公務員年金だけ税金でまかなって,厚生年金自体を解体したいのか・・・
いずれにしても信頼を失った国家がどんな末路を辿るのか、やはり共産主義国家の崩壊の次は資本主義国家の崩壊なのだろうか?

最後に 柳ジョージが亡くなった。
彼の唯一の好きな曲を 最近カラオケで歌ってないな~結構いけるんだけど

青い瞳のステラ、1962年 夏・・・

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2011-10-10

99%デモそしてジョブスの死

最近、気になる事。

アメリカで始まった99%市民革命。
何故か日本でのメディアの扱いが中途半端に感じる。
あれだけ大騒ぎしたアラブの春と同次元、否それ以上のインパクトがある動きなのに、日本の原発反対デモのようにことさら矮小化して広がらないようにしているとしか思えないのは私だけだろうか?

何しろ、自分達が起こした金融資本主義をその聖地?でもあるウォール街で否定するデモなのだから。しかもそれは動員されたものではなく、多くの市民の心に奥底にあった"シアワセ”と余に乖離したこの時代への不安=不満が初めて力になろうとするものだから。
しかし,正直なところようやくその過ちに気がついたのかとも思うけれど。

そもそも新自由主義=小泉が猿真似したものだが、とは最後のひとりになるまで勝者とその他すべての敗者を生み出すシステムであり、その過程でも格差がどんどん広がることを意味する。それを自己責任という名で葬りそろうとするのがアメリカが世界中にバラまいた思想である。
その根底には永遠に市場拡大と資源があることを前提とした資本主義の矛盾に目を向けることをことさら避けてきた現実がある。

市場があるからと世界中の自動車メーカーが中国やインドへガソリン車を売りまくろうとすることも、資本の論理でしかなく、そこには消費される資源なり、悪化する環境については1%の勝者だけが保護されればよいという選民思想が見え隠れしている。

原発の問題も、拡大再生産を思考する資本主義下での電力不安であり、足下を見据えた世界を考えれば、原発無の世界は十分に現実的である。あくまで効率論での代替エネルギー論議でその進展を阻害しているにすぎないし、何より核廃棄物の処理を後世に先送りにして(何しろ無害化までには10万年以上とも言われる)まで推進するほどの意味があるとは到底思えない。無論、1%の論理ではそれにより得る利益が大事なのだろうが・・。
一旦事故が起きれば自らの家にすら戻れない、コミュニティを崩壊させ、その上、バラバラに避難した生徒で学校自体が機能しなくなった現実を目の当たりにして、それでも原発をという発想の方がはるかに非現実的だし、それをうたう者は最早政治家どころか,人としての神経を持ち合わせていないと思うが如何に。
たかが!?10兆円の復興資金を後世にツケを残さない為とミエをはるどじょう首相には旧自民党内の派閥抗争のような低次元の国会論議(どう見ても同じ穴の狢にしか思えない)で,本当にその痛みを理解しているとは思えない。

そして金で金を増やすことが産業になってしまったアメリカで、物づくり=生産物を世界中に供給している希有な存在のアップル。世界で一番多くのコンピュータを作っているメーカーである(無論生産しているのはアメリカ国内ではないけれど)。いやいやウィンドウズだろうと思われるが、OSとしてはそうだけどハードとしてのPCは世界中のメーカーが別々に作っている。しかしアップルはマックOSを使うPCはすべて自社製であり、ましてやiphoneやiPodもPCみたいなものだとすれば、誰が何といってもアップルが世界一のPCメーカーだといえる。
そんなアップルの創始者であり、かつ精神的な支柱であったスティーブジョブスが長年の闘病生活についに負けてしまった。膵臓がんはやはり不治の病だったのか?
アップルの製品は、それぞれがジョブスそのものだったが、そのジョブス亡き後もアップルであり続けることは可能なのだろうか?

99%市民革命とアップル=ジョブスの死は
効率的であることがすべてに優先するこの世界において蔑ろにされてきたもの、あるいは手段が目的よりも優先されてしまっているこの時代が忘れてしまっていたものを考え直すきっかけにしなくてはならないと思う。

PCは人間らしく生活するための道具であり,手段であるべきだと作られているのがマックなら、ウィンドウズPCは如何に仕事を効率的に行うかしか考えられていない。PCに合わせて使う人間が慣れることを強制するウィンドウズPCには1%の利益のために単なる駒として働かされているようにしか思えない。

市民革命的としての99%デモそしてジョブスの死が
そんなきっかけになれば、まだまだこの世界にも未来があるのかも知れないが。

<99%の意味について 10/7付西日本新聞より>
ウォール街デモ 市場主義の暴走への抗議

 ニューヨークのウォール街と言えば、米国の銀行や証券会社などが立ち並ぶ世界経済の中心地である。そこで9月中旬、若者らが「ウォール街を占拠せよ」というスローガンを掲げるデモと集会が始まり、現在も勢いを増す一方だ。

 デモ参加者が訴えるのは、米国で広がる貧富の格差と高い失業率への不満だ。金融機関を「富の不当な集中の象徴」と位置付け、抗議の的にしている。

 参加者は近くの公園を拠点として、金融街に向けて行進したり、ゾンビに扮装(ふんそう)して金融機関の強欲さを表現するなど、多彩な抗議活動を繰り広げている。

 米国はリーマン・ショック後の不況から脱することができず、失業率が高止まりするなかで、貧困人口が増大して全米で約4600万人に達する。レーガン政権以降に進んだ各種の公的負担削減で、中・低所得者層に教育費や医療費の負担が重くのしかかり、就職難が追い打ちをかける。世界一の経済大国でありながら「貧困大国」に陥っているのだ。

 米国のノーベル賞経済学者のジョセフ・スティグリッツ氏は今春発表した論文で「米国人の1%が国全体の所得の20%を受け取り、富の40%を保有している」と指摘し、米国の現状を「1%の1%による1%のための政治」と表現した。

 こうした主張を受け、学費ローンの返済にあえぐ若者、苦しい生活を送る失業者らデモ参加者は「1%の金持ち。99%の貧乏」「われわれは99%だ」などのプラカードを掲げ、怒りをあらわにする。

 抗議の相手は無論、金融機関だけではない。その矛先は、行きすぎた市場原理主義や、弱者を切り捨てる資本主義の暴走に向けられているといっていい。

 デモを最初に呼び掛けたのは、環境など社会問題を主に扱う雑誌の編集長だ。中東でツイッターやフェイスブックによって集まった民衆が社会を変革した「アラブの春」に触発されたという。

 独裁国家で起きた民主化運動が、民主主義の最先進国である米国に飛び火するとは皮肉な現象だ。米国の若者がデモに集まる背景には、オバマ政権も含めた既存の政治勢力への不信もありそうだ。

 このデモは全米の各都市に広がりつつある。統一の目標がないままの拡大に危うさも感じるが、英国で発生した暴動のような無秩序な暴力に走らず、政府や政党との建設的な対話で、状況を改善させる方向に進むことを望みたい。

 日本でも小泉政権時代、米国流の新自由主義に基づいた各種の規制緩和を進めた経緯がある。その後、日本の相対的貧困率は2009年に16%に達し、1985年以降で最悪の水準となった。若者の失業率が悪化し、非正規労働などの苦境に置かれている点も似ている。

 米国の若者らの異議申し立ては、日本にとっても人ごとではない。セーフティーネットの充実はもちろん、格差を解消し矛盾を是正するには何が必要か。社会が真剣に考えるべき重たい課題である。
=2011/10/07付 西日本新聞朝刊

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2011-07-21

リンゴ追分 原田芳雄さんが亡くなるなんて。

◆私の原田さんへの導火線でもある林美雄さん(ミドリブタ)の偲ぶ会で芳雄さんが弾き語りでリンゴ追分を歌ってみえる。林さんの誕生日8月25日をサマークリスマスとして遊んでいた。因みに最初のサマークリスマスは今日のような台風がやってきてそれでも集まった人達が最後はTBSホールで、同じく林さんのパックで弾き語りをしていた無名時代のユーミンが、せっかくだからと演奏したのが逸話になっています。因みにこの録音のMCは小島一慶さんです。
◆原田芳雄さんのリンゴ追分
そうか!?林さんも芳雄さんを呼んじゃったんだ・・・
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確かに『大鹿村騒動記』のプレミア試写会の時の姿は尋常ではなかった。
でも、以前患った大腸がんではなく,肺炎という説明であったのでそれを信じていたのだけど、やはり第六感の方が正解だったようで、行結腸がんから併発した肺炎とのことだった享年71歳。余に若すぎる。

結局、原田さんの最後の勇姿は芸術祭ドラマの"火の魚”の偏屈な老作家役だった。鈴木清順監督のツゴイネルワイゼンや敏八さんの”八月の濡れた砂”(こちらは石川セリの同名の曲があまりに有名)そして"赤い鳥逃げた”(こちらは伝説のシンガー、安田南が主題歌を歌っていた。因みに主演は桃井かおり、大門政明)所謂日活系の映画は随分見たけど、一番記憶にあるのは黒木和男監督の"龍馬暗殺"、中川梨絵さんの怪演とモノクロの味わいが何とも言えないものだった。
http://takumi21.cocolog-nifty.com/blog/tv/index.html


それらはすべてミドリブタこと林美雄さんに感化されたことが大きいが、とにかくまず声にやられてしまう役者さんだった。同時にとにかく歌が上手い。彼のリンゴ追分は絶品で、美空ひばりのそれをしのぐというのは言い過ぎにならないくらい味わい深い。
※あの松田優作のあこがれが原田さんだった。実はあの優作風といわれる台詞回しも原田さんの模倣からはじまったのは有名な話。ついにはあこがれが講じて原田さんの近くに引越し、恒例の餅つき大会も自分のところで始めて、原田さん宅へ集う人達を横取りしたというのも知る人ぞ知る事実だった。

林さんはじめ、松田優作あたりが早くおいでよってよんでしまったのかな。

とにかく残念でならない。
最後の映画が盟友の阪本順治監督作品、これも盟友の石橋蓮司さんが最後のコメントを代読したのも芳雄さんにとってはよかったのかも。とにかくあちらでも無理しないでください。合掌。

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2011-07-15

総理の脱原発宣言。

どこまで信念があるのかが一番の問題だが、
菅直人がお得意のアドバルーン"脱原発宣言"をぶち上げた。
同じ日、孫社長は35道府県と自然エネルギー協議会結成した。
このニュースの取り扱い方でメディアの噓が透けてみえる。

まあ,一番無難なのは政局と結びつけての菅直人批判。
同じく実効力を第三者的に批判するもの、さすが読売、あまりにらしい。
しかし、こうしたメディア以前に枝野の会見には口あんぐり以上にこいつは所詮、
悪徳弁護士くずれかと思ってしまう。

何が”総理の個人的な未来の希望"だ。記者会見は個人会見じゃなくて
"総理会見"である。時期とか行程について発言するのならともかく、会見の骨子まで否定するのなら即刻官房長官を辞めるべきだろう。少なくとも発言者が資質はともかく総理の発言としての重みは、国家として大切にできないのなら、もはやその体をなしていない。

正直、菅直人はどうでもいいが、少なくとも日本の最高権力者が
脱原発宣言したことをもっと真摯に伝えることはできないのか?

少なくとも次の総理はこの宣言に対しどう考えるかを明確にしなくてはならない。

菅直人が原発解散はしないと言ったのも
電気労連たよりの民主党主流も原発村の自民党も原発を止める気など
さらさらないので争点にならないからだ。

いっそのこと河野太郎をつれて新党でも結成した方がいいかも知れない。

昨夜の報道ステーション。
次期東電社長が余った電力を関西に融通したいとしゃーしゃーと言っていた。
実は電力危機でもなんでもなく、ただただ原発必要だとプロパガンダを
繰り返す御用メディアの噓にもう気づいてもいいと思うのに。

更には今でも使用されていない原発以外の埋蔵電力が原発14、5器分眠っていることを忘れてはならない。

今なら大転換ができるのに。それが菅直人頼みというのが一番の悲劇なのかも知れない。

※15日の文化放送で佐藤優が”脱原発”は帝国主義の発想だと批判していた。その前に今の日本の状況がヒトラー以前のドイツの状況に酷似していると発言しているが,そのこと自体には異論はなく衆愚政治の行き尽く先はアジテーターの独裁や軍国主義であることの懸念は同じだが、ドイツやイタリアの例を引き合いに自国から原発を周辺弱小国に移管して収益のみを独占しようとする帝国主義と同等だというのには大きな視点が欠落しているように思える。その発想の前提は、まさに資本主義的な拡大再生産を必然とするもので、その資本主義自体の行き詰まり感(もはや資本主義が成立しているのは中国やインドなどだけだろう)を理解していない。また帝国主義の資本の定義はもはや国境を越えた存在であり、国体国の発想の中で判断する時代ではないことを忘れてはならないが。賢明な佐藤氏のこと、何らかの思惑の中であえての発言かも知れないが・・・。

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2011-07-12

復興。小室さんの50年

今年初めてのLIVE。
最近ではめずらしい大きな箱。
新宿のスペース・ゼロ、正直大きな会場の割には判りにくい場所にある。
ついつい文化服装学院前まで行ってしまった。
さすがに違うとわかり駅方面に歩き出すと”あ~あのビルだ”と目的の会場に向って歩き出すと、見慣れた顔が・・
Wさんが会場とは別方向に視線を向けて歩いてきた。お声を掛けて、Wさんも少しほっとした表情が。"よく判らないんだ。会えてよかった、知らずに歩いて行くところだった"
100m程戻ったところが会場だった。もう大勢の方が入場中だった。ここでKさんにもお会いできて今日の予定の半分は終了。今日のライブの様子に想いを巡らす。このメンバーだから長く、長~くなる予感はあるが、まもなく、こちらの愚かな予想は一気に裏切られることに(無論、いい意味で)
Ishot1

今日の構成というか音楽監督は谷川賢作さんとのこと。
あくまで小室さんの50年ということで会場で配布された今日のセットリストは六文銭ではなく、あくまでソロとしての小室さんのヒストリーをピックアップしたものだ。そして谷川さんもだけど、その師匠でもある佐藤充彦さん、そして坂田明さん、坂田さんと同じサックス奏者の梅津和時さんとジャズ、それもフリージャズの重鎮が揃い、多くの詩は谷川さんの父君でもある詩人、谷川俊太郎さんの曲がラインナップされている。
更には林英哲さん、ドラムの渡嘉敷祐一さん、アコースティックベースの吉野弘志さん、もうひとりのサックス田中邦和さん、ヴォイオリンの太田惠資さん、ギターの 鬼怒無月さん、鈴木大介さん、ブルースハープの八木のぶおさんと淙々たるメンバーが控える。そして小室さんフィールドからも李政美さん、さがゆきさん、竹田裕美子さん、佐久間順平さん,田代耕一郎さん、六文銭'09のメンバーが揃う。更には俊太郎さんの朗読もあるとなると、これはもう豪華というより誰をどんな組み合わせで登場させるか、何をしてもらうかと2時間余りのステージにどう完結させるかなんてプロデューサーなら逃げ出したくなるようなものだと思う。

という意味でお祭り騒ぎとしては成立するものの、多くの場合、ゲストの顔見せ興行的になってしまう恐れがあるのだが・・果たして、

結論から言えば、それはまったくの杞憂だった。
それは佐藤充彦さん以外は小室さんより若いというのもあるのだろうけど、全曲小室さんが歌い、音楽監督の賢作さんがそれをサポート(小室さんは介護と呼んでいたけど)するメンバーを効果的に配置するという手法で、次から次へとセッションが進んでいく。舞台設営はその都度マイクや譜面台の配置を変えなくてはならないけれど、決して顔見せでなくその曲、曲に合わせて豪華なユニットが転換していくのは見事というしかなかった。何しろピアニストだけでも充彦さん、賢作さん、竹田さんとさがさん(当日はヴォーカルで徹してみえたが)、サックスも坂田さんに梅津さん,田中さんと贅沢なメンバーが揃っているのだから。
何より謙遜もあるのだろうけど、ある意味だからこそと思うのは、小室さん曰く”リハーサルをせずにぶっつけ本番の楽しさを狙った”とおっしゃるように、それぞれの方がお互いを探るように、そしてひとたび自分の世界も一気に演じ切るそれは緊張感にも溢れ、オーディエンスをわくわくドキドキさせるに十分なものだった。
それらもすべて小室さんお得意?の鵜飼の鵜匠のごとく、まとまりがないように見せながら実は、それがひとつのまとまりになっていく世界を中心にいて展開されているからだと思う。

後半のサプライズゲストの2曲と、延々と続くアンコール曲合わせて全20曲。それぞれを紹介する時間はとてもないけれど、とにかく汗だくで歌い切り、何より一番楽しそうだった小室さんの姿は、やはり50周年にふさわしいものだ。幸いこの日のLIVE盤はCDとして発売されるそうだから、内容についてはそちらで確認して頂ければと思う。
Ishot2
※小室さんのディスコグラフィ一覧

あらためて一覧を見てみると、六文銭関係のすべてとラニヤップは当然として、初めてのLPは2枚目の小室さんのファーストアルバム、谷川さんとのLPもすべて、東京、明日、時のパスポートは手元にある。それ以外の曲も大半はFMのエアチェックデータとして保存してある。私の尊敬する3賢人のおひとりだから当たり前といえば当たり前だけど、50年の内の40年以上ファンであることは,私にとっても同じ月日が流れていた訳で、自分自身の振り返りのようでもあった。

最後のホンの贅沢を言えば、アリスさん作詞の東京からの曲、そしてラジオ番組でアクセスの先駆けのような番組(番組名失念)の主題歌だったアコースティック版の明日、慶一さんとの掛け合いでの"立ち話”が聴けたら、もっともっと最高の夜だった。

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2011-07-02

うたのちから CMのちから

2011年3月12日

そう震災の次の日

九州にとってはとても大切な日だった

九州新幹線全線開通

それまで盛んに九州地区で流されていたCMが

震災自粛ということでお蔵入りになってしまった

しかし

このCMこそ、まるで震災を予期していたかのよう

この国に失われて久しいモノを見事に表現していると思う

九州がひとつに、実は日本中のこころをひとつにするためのように

マイアヒラサワの歌は

意味が判らなくても十二分にこころ揺さぶるのだけれど

歌詞の意味を知ると

まさに震災以後を見据えていたかのような錯覚を覚える


マイア・ヒラサワ BOOM
♪あなたのそばへ行きたい そう寒すぎない遠すぎないところ
帰りたい 家に 家に 家に
 世界がだんだん小さくなっていくその間に
 行こう 行こう 行こうよ
 私たち仲間なの 歌だけじゃない
 でも歌うのが好き
 本当はね、歌っているばかりじゃないのよ
 歌い続けたフレディみたいに
 この人、私に似てる
 ワクワクしている間 BOOM BOOM BOOM もう最高!

 世界を見てみたい
 遠くからでもなく 上からでもなく
 そこに加わりたいの
 私そんなにに強くないの、あなたはどう?
 だから一緒にいこうよ 夢心地なの
 さあ行こう 行こうよ
 私たち仲間なの,歌だけじゃない
 でも歌うのが好き
 本当はね、歌っているばかりじゃないのよ
 歌い続けたフレディみたいに
 この人、私に似てる
 もうすぐ貴方に逢える
 BOOM BOOM BOOM もう最高!


後付けされたあまたの震災CMよりも、ACよりもこのCMには力があると思う

マイア・ヒラサワ BOOM+九州新幹線開業予告CM

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2011-06-25

こうなると河野太郎総理待ちなのか・・・

どうやら菅直人は辞める気はさらさらないらしい。
その理由については上杉さんのコラムに詳しいのでそちらをご覧頂くとして、
延命のためには敵であろうが何でもする菅直人なら、それに振り回されるのではなく、そんな菅を利用して既成勢力の一掃と原発に頼らない日本を創る方が得策ではないか?

しかし、確かに例の民主党代議士会で、不信任案阻止の猿芝居は見事だったが、その猿芝居にまんまと乗って(鳩君が騙されるのはともかく)NHKや大新聞(記者クラブメディア)が菅直人の辞任を速報で打ったのは何故だろう?
昔ながらの腹芸では、あの場面、あの物言いは首相を辞めるというのと同義語なのは判らないではないが、やはりそれは記者クラブメディアでだけ通用する辞書だったのではないか?

結局辞めない菅直人に対する与野党の連中の対応は、もはや猿芝居を越えて意味不明の不条理劇のようだった。
何故、辞める時期と国会の会期延長期間が関係あるのか?岡田、枝野、仙谷の民主3馬鹿トリオは、菅直人と何を話しているのだろう。菅直人がダメなら、何がダメで、誰がそれに代わると今より良くなるのか、そんな説明なり、話があって退任を迫るべきだろうに。まさか自民や公明が言っているから辞めろなんて言うのは、小学生のクラス委員より程度の低い話だ。
何も展望もなく、辞めさせることが目的化した政局なんて、国会なんて無くても同じだと自ら認めているようなものだと思うけど。

少なくとも自民党は、偉そうな事言う前に、これまで噓に噓を重ね、金まみれになって原発推進してきた愚を真摯にお詫びするのが先だろう。しかもそれどころか、あわよくば再び原発利権に預かろうなんて魂胆がミエミエの政党に復権させるわけにはいかない。その点で言えば公明もそれに加担してきたわけだから同罪である。それができない連中に復興や原発事故を語る資格はない。

そんな中で、原発に昔から反対し、かつ意味のない50日、70日という話を詭弁だと断じた河野太郎は、今最も判りやすい政治家だと思う。
少なくとも原発ヒステリーなんてしたり顔でいう馬鹿幹事長とは,同じ2世でも出来が違う感じだ。そりゃそうだろうな、石原は元日テレ社員、正力松太郎は日本原発の推進役だった訳だから。

もうこうなったら菅直人の手練手管をいい意味で活用して原発解散でも何でもやらせてガラガラポンで、孫さんあたりに菅直人を名誉職に追いやってもらって、河野太郎総理をめざす方がこの国の為になるかもしれないな。

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2011-06-20

トップセールス 崩壊する販売店ビジネスモデル part2(余談)

Paet3の前に前回この記事をアップした翌日の日経にスズキが13年度に安価なHV車を発売するとの記事が掲載された。それによると電気として30Km走り、他はエンジンで走るとの内容だった。
WebCGが日経傘下に入ってかなりの月日が経つというのに本体の日経にはホントに技術的なことが判る記者がいないようだ。確かにスイフトベースで安価なHVには違いないが、このクルマこそ前回現状最も理想的なクルマとして紹介したレンジエクステンダーEVで、しかもいつの間にか18kmの航続距離が30kmまで伸びておりますます理想に近づいているのだ。正直なところ、この記者氏はプリウスよりも安価なPHVが出るということを強調したかったと思うが残念ながらその本質については全く理解できていないと思う。

つまりこのクルマをHVとして表現してしまうと本質を見失ってしまうことはここでも記したとおり。
実は400万程度が想定されるプラグインHVのプリウスも実は電気だけでは20数キロしか走らないのだ。繰り返しになるが、プリウスのようなHVは電気モーターでガソリンエンジンを補助するだけであくまで既存の自動車の亜流にすぎない。それは発売が予定されているPHVでも同様である。確かに20数キロだけ走るのであれば電気モ-ターのみで走るらしいが、あくまで充電方式が走りながらでなく家庭用の(ただし200V)電灯線から充電できるというだけで本質は変わらない。これに対しスズキのレンジエクステンダー式EVは基本がEVで、その電気を現行の軽自動車のエンジンをチューンして発電しているだけなのだ。だから極端なことを言えばプラグインでありながら家庭で充電設備がなくても走り続けることができるEVなのだ。

更に言えばEVの本質的な弱点は高価な電池と空調である。この弱点のひとつが1回の充電での走行を30Km度と割り切ることで小型化=低価格化さらに省スペース化できるようになっている。(無論、発電機を持っているので1回あたりの充電というのは余り意味がないのだが)つまりより小型のボディでもEV化が可能ということだ。
そしてもうひとつの弱点が空調で、特に暖房が一番の弱みである。
何故なら通常のエンジンだとエンジンを冷却するためのラジエーター(熱交換機)があり、その熱を暖房に使用するので実質エネルギーロス無で暖房ができることになる。これに対しEVではわざわざ電気で暖める必要があり、エネルギーを無駄使いすることになってしまう。ところがスズキのEVは発電用にエンジンを積んでいるわけだから暖房のためには無駄なエネルギーは使用しない。つまり、現行のEVの弱点をすべて払拭する上にしかもそれを安価に実現できるという意味で極めて先進的だと言えるのだ。

更に言えば、先日発売されたマツダの省燃費エンジン、リッター当り30数キロとHV並の燃費を実現しているがこれだけ技術が発展してもガソリンエンジンの効率は約30%で他は熱として逃げているのである。
しかし、仮に発電用+空調だけに限った場合、等回転で効率的に一番無駄のないチューニングが可能なわけでこうすると現在30%の熱効率がもっとアップする可能性は極めて高い。何しろアイドリングストップだの余計なアクセルの踏み込みが燃費に多大に影響すると言われるくらいだから、そうした必要のない発電等に特化したエンジンなら効率アップは疑いのないところだと思う。
※因みに同方式のEVを予定しているアウディは発電用のエンジンにマツダが実用化したロータリーを使用するとのこと(ところが基本特許はアウディの前身企業が保有するという先祖返りみたいだが)

ということでEVで舵を大きく切った日産だが、このまま純粋EVで突っ走るのか、はたまた超高効率の太陽発電電池をリーフに搭載することで航続距離のデメリットを払拭するのか、あるいは低コストかつ超効率なリチウムイオンを超えた電池技術の開発にかけるのか・・・こうしてみるともはや自動車メーカーの存在感などどうでもよくてっていくと思うのは私だけだろうか?とにかく、近未来戦略からスズキを見逃すかことはできないことだけは確かなようだ。

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2011-06-13

効率と無常の間 村上春樹のスピーチが意味するもの

村上春樹がスペインで行ったスピーチ
自分自身を「非現実的な夢想家として」として原発を原爆と同義に捉え、日本人固有の世界観の危うさを論理的に分析している。

何故、被爆国でありながら55機もの原発の存在を是としているのか?
日本人固有の無常観からすれば、天災を含め自然なりあるがままに受け入れるべきなのに"現実"という名の"効率"の前には、受け入れるものを"便宜"に置き換えてしまうらしい。この場合に受け入れるべきものはやせ我慢と言われながらも原発に手を出す事無く、電力不足からくる"不便"だったと思うが・・(無論、原発が使えないという状況下では日本人の知己としてもっとスピーディに他の再生可能エネルギーへの転換スムーズに図られたであろうことは間違いない)

にもかかわらず核アレルギーがある日本が原発推進を図った理由について、冷戦構造が無縁でないことは悲しい限りで、日本の権力者のどこかに原子爆弾研究を何らかの形で温存するためにも平和目的という誠に耳障りのいい言葉にすりかえて推進を図った歴史がある。何しろ1954年の最初の原発予算を提案したのは中曽根康弘、稲葉修、川崎秀二らであり、1955年に成立した原子力基本法を受けて1956年に設立された原子力委員会の初代委員長は当時の読売新聞社主正力松太郎である。もうこのころからメディアと原子力はズブズブの関係だったわけだ。

そしてこうした人類にとって2度に渡る悲惨な被爆国となった日本がそれでも原発を止められない一番の理由が、電力開発やエネルギー問題よりも佐藤優氏が言うように(多分、これだけなら他の方向性も十分あるだろうが)原爆を含めた核開発技術、技術者の温存であるとしたら、広島、長崎だけでなく福島の人々にとってもこれ以上の裏切りはないと思うのだが・・(少なくとも廃棄物処理まで含めたコストを考える限り、原発が低コストであるというマヤカシを信じるものは余程の馬鹿でない限りいないだろう)。

その意味では果たして本当の「非現実的な夢想家」はどちらなのだろうか?

悲劇に悲劇を重ねていく現実の事態に市民の悲しみが安らぐ日が訪れるはいつになるのだろうか?
少なくとも無能な首相が居座ることで少しでも遅れることは許されないのだが。

無常観に通じながらも、そこから立ち上がる勇気を感じさせてくれる歌。
それにしても吉田美和の歌唱力は歌の力を確信させてくれる。
何度でもLOVELOVELOVE

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2011-06-10

あれから3年。トップセールス 崩壊する販売店ビジネスモデル part2

前回は・・こちらで。

しかし、随分と時間の流れは早いもので、このテーマでパート1を書いてからもう3年も経ってしまった。しかもこの3年間に起きたことは、三菱、日産による商品としてのEVの発売、未曾有のエコカー減税による販売増そしてそれを嘲るような需要の落ち込み(当たり前と言えば当たり前だが)そして3.11である。瑣末なことで言えばこの記事のきっかけでもあった林文子さんは東京日産の社長を1期でやめ、いまや横浜市長である・・・。
はたしてこれらの事態は販売店のビジネスモデルにいかなる影響を与えたのか?(林さんの件はある意味予想どおりで何の影響もなかったが)
まずは順を追って検証していこう。

第1章 EVに賭けた日産の戦略
三菱のi-mievはその生産販売規模から考えてひとまず置いておくとして、日産がなぜHVを飛び越してEV戦略に舵を切ったのか。この辺りの分析には諸説あると思うが、すでにHVで大幅なアドバンテージを持つトヨタ、それに遅れまいとついていくホンダを前に、追随することの勝算は誰が考えても低いと言わざるを得なかった。

また(少なくとも)見かけ上の業績回復を図った日産ではあったが経営原資をHVをはじめ多方面に展開するほどの余裕があるわけでなく、限られた原資を成功に(少なくとも先駆者利益につながるだけの)結びつく先としてEVを定めたことは決して不思議ではなかった。

しかもピラミッド型産業といわれる自動車産業にとって頂点であるクルマの成り立ちが大転換するということは多大な影響がその傘下の企業に波及するのだが、ゴーン改革の過程で所謂“ケーレツ“の大半を崩壊させた日産にとってEV化を図ることに対する社外の抵抗も少ないという要因もあったのは言うまでもない。

つまり、EV化とは自動車産業そのものを根底からひっくり返す可能性があることを考えなくてはならない。その意味でケーレツ化を更にすすめたトヨタがEV化に舵を大きく切ることは考えられない、トヨタができないことだから余計日産は原資を集中しやすかったとも言える。

では、そもそも19~20世紀の寵児となった“自動車”とはいかなるものか?
つまるところ化石燃料を燃焼させることによってエネルギーを得る内燃機関を動力として動くものと定義できる。つまりエンジンこそ及びそのエンジンを動力として制御する変速機こそ自動車そのものといえなくはない。その意味ではエンジンもトランスミッションももたないEVはもはや自動車とは呼べない。否、だったらHVも同じだろうって思われるかも知れないが、今トヨタやホンダが展開するHVは電池式補助動力付自動車であり、あくまで自動車の亜流である。

また年末に発売が予想されるPHV(プラグインHV)も通常電源で充電できるという点はEVに近いが純粋にEVとして走ることができるのはせいぜい数10Kで基本的にはガソリンエンジンが主役であることに違いないし、VOLTのようにレンジエクステンダー式 を歌うPHV(後にエンジン動力を駆動用にも利用しているとのことで通常のHVと認定されたようだが)は大分類ではEVともいえるが、プリウスのそれは基本的にはHV=電池を積んだ自動車である。

しかし、このEVとPHVとの違いが判らないとこの後の展開がわかりにくいので、少し紙面を割いてその分類を説明しよう。

誤解を恐れず言えば、EVよりPHV、HVの方が遥かに複雑な機構であり、常識的に考えればコストも高くつく。いやEVの方が遥かに高価だと言われそうだが、それはEVが高いのではなく電池(リチウムイオン電池)が高いのだ。因みに補助金抜きで約400万のリーフの車両価格の内、約200万が電池代といわれる。つまりEVは電池が走っているともいえるし、電池が量産化され価格が下がればコストが大幅に下がることは断言できる。

ではHVがなぜ高コストなのかと言えば、それは出力コントロールの複雑さにある。EVはモーターの回転制御で出力コントロールは一元管理できるが、HVは若干の方式の違いがあるとは言えエンジン→トランスミッションとつたわる動力の間にモーターがありその出力の出し入れ制御が必要になってくる。つまり通常の自動車に電池+モーターの機構がアドオンされたことにより、それを制御する機構も新たに必要になるという点で高コストにならざるを得ない。

これに対しEVはエンジン→トランスミッションを電池+モーターに置き換えることになるので当然のようにコストは相殺され低下できるということだ。 

その意味でもEVは自動車とは違うということを少しはご理解いただけただろうか?

因みに余談ながら個人的な考えで言えば、若干上記の記述と矛盾するが、将来圧倒的なエネルギー密度の電池及びソーラー等走行中でも十分な充電機能が図れる技術、更には誘導充電ということで非接触(たとえば充電式歯ブラシのように)道路内充電装置が埋め込まれて走行中でも充電できる機構ができれば(いずれも夢物語でなく技術的には可能なものが多いが)話は別だが、現状リーフでもエアコン無で航続200kmというのは今すぐに“自動車”に置き換わるというのは現実的ではない。

その意味での近々の切札はレンジエクステンダー式 EVだと思う。具体的には発電機を搭載したEVで発電機があるので高価な電池を沢山積む必要はない=軽量化+低価格化が可能、システム自体はEVなのでシンプル=低コスト、問題なのは発電機で現実的にはガソリンエンジン式の発電機を使うのであれば今すぐ対応可能だ。

ちょっと待て、それじゃEVにする意味がないじゃないかと言われそうだが、確かにそれは否定しないが発電機自体はディーゼル発電機でもよく、何ならアルコール燃料でもいい。駆動力としてエンジンを使うわけではないので、走行状態に関係なく発電に適した一定の負荷での回転でいいと言う意味では、燃費自体も大幅に向上する可能性もある。何よりEVの弱点である暖房用のエアコンとかヘッドライト等動力以外の電力を発電機側に担当させることができればトータルとしてのエネルギーコントロールの質が大幅に向上することは間違いない。
所謂チョイ乗圏内20Km程度走れる電池容量であれば、排ガスが出るエンジンを使用する走行は週に1,2度に出来るはずだ。しかも日本には軽自動車という世界に類を見ない高効率の小型エンジンを開発する技術があるではないか? 
例えば日本中のクラウンが660ccの軽のエンジンに置き換わるだけでどれだけエネルギーコスト+排出ガスが低下するのか。しかも3.11のような大震災があった時は街中に小型発電機が溢れていると言うのはクライシス管理上も極めて有効ではないかと考えるが如何に。

因みに前回2009年の東京モーターショーでスズキはこのレンジエクステンダー式 EVをさりげなく発表している。数年以内の発売を目指したものでスイフトベース(1300cc車)に軽自動車用のエンジンを搭載して約140万ほどで発売したいと歌っていた。
詳しくはこちらで。

さて話を戻して、EVはある意味クルマではない訳で、EV化が推進されるとピラミッド型の産業構造が大幅に影響を受ける=自動車の重要部品であるエンジン+トランスミッションはピラミッド型の中心構造でもある。その意味でトヨタやホンダはEVに大きく舵を切ることは許されない状況に、少なくとも日産より、あると言える。

その意味でも日産がEVの先駆者になろうとするのは理解しやすいのではないか?
現に世界的にも今後EVのインフラ整備についてはEVを最初に実用化した日産の方式が採用される可能性が極めて高い。例えば日産はリーフの発売に合わせ全国の日産ディーラーに200Vの通常充電機を整備、一部拠点には急速充電装置を設置した。今後他社から発売されるEVについても充電方式についてはこの方式が踏襲されるだろうし、駐車場等への設置に当たってもリーフに充電できるか否かが設置基準になるのは当然だろう。

少し説明すれば充電が必須のリーフにとってどこで充電できるか、今充電可能か否かは死活問題である。こうした情報はスマートフォン等を介して走行中の車両でも入手できる必要があり、こうしたITインフラもまた、今後のEVは相互乗り入れのためにシステムを踏襲することになると思われる。

さて、この日産のEV戦略が販売店にもたらす影響だが、一義的には全国の販売店ネットワークが同時に充電ネットワークとなった時点でそのスケールメリットが活かされたことになる。今後の修理点検についても、EVが一般化されるまでは街の修理専業者との差別化が図れるという意味でメリットは高い。意外かも知れないが自動車販売店の高収益を支えているのはサービス部門であるのだ。
基本的には自社製品であれば専業社よりも安価に部品も入り、修理情報についても確実に入手できる。その分他社物へのアドバンテージはないが、シンプルになるであろうEVの機構について日産方式が基本になれば、その分野に限れば他社製品に対してもアドバンテージは維持できるかも知れない。
しかし何より、自動車販売店の修理における高収益はメーカーの品質保証における保証整備、リコールとなれば、イメージ的には大打撃だが確実に入庫しかつ費用はメーカー持ちなので販売店にとってはありがたい限りではある。

う~ん、書きはじめるとどうも3年分の思いが溜まっていたようで、ついつい横道にそれてしまった。
何やらEV編になってしまったが、本質的な続きは近い機会にエコカー減税の功罪と3.11が明らかにしたものとして2章、3章と一気にお届けしたいと思う。
こちらは夏までには必ずということで、次回に。

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2011-06-03

にてもやいても喰えない政治屋

2日のスケジュールはほぼ予定通りの展開だった。
と1日のDigを聴いたリスナーは思ったに違いない。
TBS-Rの国会王子こと武田記者が久しぶりに吠えた筋書きにことは運んだが・・
武田さん曰く、でも菅さんだから1%の確率で反対する閣僚がいても全員罷免してでも解散するかも知れないがと危惧していた。さすがに解散までには至らなかったが、こいつらの頭の中はそれ以上に腐っていたということか?
その場しのぎの退陣表明はクラス委員のそれとは違い重い意味があることすらわからないようで呆れるしかないが・・

武田さんは菅直人が総理になったらとんでもないことになると予言していたが、果たして、さすが国会王子、この男の政治家としての資質のなさをとっくに見切っていたのだが、肝心の民主党の連中にはそれが見えなかったのか?
否、少なくと震災が起きるまで総理なんてだれでもいいという感覚だったのだという。それは民主に限らず面白ければと小泉を総理大臣にしたことから始まっているとも。

しかし,震災後、やはりリーダーがいい加減だととんでもないことになることに国民の多くが気づいてしまった。
ところが理念も信念もない市民運動家がそのまま総理になってしまった。あろうことか絶体絶命の時期に震災が起きてしまった。震災まで食い物にして、更に輪をかけた混乱をこの国の市民に押し付けて権力にしがみつづける。
所詮、独りよがりで自分以外を信じない、そのくせ責任の取り方さえ知らない裸の王様をリーダーに担いだ時点で今日の混乱はすでに予定されていたとも言える。

結局、300人以上の議員を要しながら、実は数人の思惑だけでこの国を動かそうとした菅直人の罪は重い。更には2代続けて弁護士崩れを官房長官にする愚、そう武田記者曰く、弁護士を官房長官にしたのは菅直人だけで、そもそも弁護士とはクライアントの為には白い物でも黒と言いくるめる人種である。本来のクライアントは国民、国家であるはずなのに枝野にしろ、仙谷にしろ総理大臣をクライアントと勘違いしている連中だ。こんなやつらが真実を語るはずもなく、言った、言わないだの,知らない、聞いてないと噓に噓を重ね、あげくに"ただちに影響がある云々"と誰の為の物言いなのかわからない言葉遊びで真実を隠し続けてきたのが現状である。

菅、岡田、仙谷の3人(枝野は所詮仙谷の傀儡)ですべてを取り仕切ろうとすることが限界であることは明らかなのに、(更に見事にこいつらは自らの責任には無神経なほど無頓着だ)またまたまんまと騙される鳩山しかいないのが、この民主党の悲劇だろう。

この3人にとっては、今日を乗り切ったことで、限りなく退陣時期を引き延ばすしか頭にないことは明らかだ。

こいつらに最後通牒をつきつけることができる者が出てこない限り、きっちりまとめて追いつめる知恵が民主党に出てこないと民主党は終わりだし、何よりこの国の国民は救われない。

最後に昨日の武田さんの言葉。
オバマが菅直人の9月の訪米を促したのは、どうせ9月まで持たないと思ったから。それを逆手にどんな形でも訪米するという菅直人の感性がこの男の限界だった。

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2011-06-01

生きているということ。生物としての一生

ホーキング博士は限りなく深く未知である宇宙の探求者でありながら、継続中のビックバンのサイズさえも計測できないにも関わらず(未確認であることで、微かな未知の世界を心のよりどころにすることで生きていることの不安との均衡を計っているのも事実だけれど)、明確に天国も地獄もないと断言している。

【5月17日 AFP】英国の宇宙物理学者スティーブン・ホーキング(Stephen Hawking)博士は、16日の英紙ガーディアン(Guardian)のインタビューで、天国について「暗闇が怖い人間のための架空の世界」と述べ、宗教の根幹を成す概念を改めて否定した。

 ホーキング博士は、世界各地でベストセラーとなった『ホーキング、宇宙を語る(A Brief History of Time)』(1988)では「神というアイデアは宇宙に対する科学理解と必ずしも相いれないものではない」と記していたが、その後四半世紀で宗教に対する態度は著しく厳しいものになった。

 2010年の『ホーキング、宇宙と人間を語る(The Grand Design)』では、「宇宙創造の理論において、もはや神の居場所はない」と述べている。物理学における一連の進展により、そう確信するに至ったという。

 博士は今回のインタビューで、自分の考えは21歳の時に発症した運動ニューロン疾患との闘いにも影響されていると語った。

「わたしはこの49年間、死と隣り合わせに生きてきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。やりたいことがまだたくさんあるからね」

「脳はコンピューターのようなもの。部品が壊れれば動作しなくなる。壊れたコンピューターには天国も来世もない。天国は、暗闇を恐れる人間のための架空の世界だよ」(c)AFP

正確には引用の記事のように天国を『暗闇が怖い人間のための架空の世界』と断定した。あまたの宗教家にとってはまことに都合に悪い話ではある。現世と来世があることで成立する彼らの論理にとっては、そえを架空と言われた時点ですべてが破綻してしまう。

無論、宇宙の絶対神以外は信じない(神という表現は適切でないかも知れないけれど、無の世界からビックバンが起きた理由まで考えれば一種霊的なものを仮置しないと何も始まらないので、何せこの世の物質、原子の大半までもビックバン以前はないとなると、論理的な存在は定義できない)私も、それでも死後の世界、霊的世界が存在すると信じた方が昔より死期が確実に近づいているこの歳になると,死の恐怖との兼ね合いにおいて心の安定は図れるけれどね。
だから,ホーキング博士のこの話は当然のこととして受け止めるしかない。

つまり、どうあがいても生きるという実感は長くても100年程度のもので、無限ではないわけで、あたかも来世があるからと疎かに過ごすわけには行かない。
その意味でも人生をどう生きるかは、生きているということはとても重いものである。だからその大半を会社人として生きるなんてことはできっこない。会社人として生きるのは目的ではなく手段にすぎないことをここでもくどいくらいに書いてきたけれど、何が楽しくて会社にしがみつくのか、無論、大好きなことをするために会社人としている人まで否定はしないけれど、何に意味もない所詮会社内でしか通用しないヒエラルキーに汲々としている連中を見ると哀れに思えてくる。
無論、もっと悲惨なのはそのヒエラルキーに反り返っている実もない連中だけど。
経営陣なり,上司と言われる連中は少なくとも、会社人ではなく社会人として尊敬を得る存在でなくては単なるひな壇でしかないわけだから。まあ,得てして程度の低い会社ほど、社会人として存在すると出世とは無縁になるのがこの世の常ではあるけれど。

それでも考えようによっては、そんなはかない人生だから、人としてより物質的な幸福が得られやすい会社人として生きる方が得策という論理はまだある。
これの否定はなかなか難儀だけれど、多くの宗教人達にヒントを与えるようで少し気がひけるけれど、人の一生を”私”のものとすると確かにはかないが、そんな基準は多分文明人以外にはないわけで、例えばカマキリは自らの身体を餌とすることで子孫のDNAを伝えていく。つまり一生の定義を自らのDNAの連鎖と見れば、"私"には確かに来世は存在している。この連鎖の中では、生物としてのその人なりは間違いなくDNAを通じて伝わっていく。所詮伝わらないものがあるとすれば、脳細胞内のシナブスに瞬間蓄えられた"私"の記憶だけであり、命としての"私"は確実に繋がっていくわけだから(当然そこには会社人なんていうDNAはない)、こうして繋がっていく命に対して人としての尊厳を大事にしていくことには確実に意味があると思う。その意味での来世、あるいは精神的天国は確実に存在することになると思うが如何に。

唯一、今回の震災のように天災等でその命の連鎖が途切れることが本当の意味での悲劇ではないだろうか?

それを考えると原発事故発生以降、会社人の立場として明らかな噓や、理不尽な発表を繰り返す東電本店の記者会見を担当させられている彼らの心情はどんなものだろう?本音は"こんなことやってられねえや"じゃないのかしら。もはや企業としては実質的に破綻している東電だから、もはや会社人として振る舞っても意味がないと思うのだけど・・それでも会社人として噓やいい加減な情報しか発表できない彼らの増えた白髪がなぜか悲しい。
 
確かに会社人を捨てるのは結構大変だけど、仕事は会社がなくてもできるから、そろそろ衣を脱いでもいいのではと思う今日このごろ。

そして私は幸いにも来世となる存在があるのは幸せだけど、"私"として自分の来世達との関係はそれほど平坦ではないのは、・・これも絶対神が与えた試練なのかしら、生きているということ、私なりの人生を。

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2011-05-24

この国のメルトダウン

喉元過ぎれば、
この国の市民レベルを見透かしたように重要な情報が小出しされてきた。
曰く、福島原発1号機の燃料ペレットの大半が溶融、メルトダウンのしていること。
2号機、3号機も同様の状況であること。つまり稼働していた福島原発のすべて(4号機は定期点検中)がメルトダウンしていたということになる。

震災直後にメルトダウンに言及したNHKの解説委員、保安員の担当者を慌てて隠避しておきながらのこの実体は、如何にメルトダウンということが政府、電力会社にとって不都合だったかということがわかる。そもそもセシウムは炉心溶融=メルトダウンが起きないと発生しない物質なのに,片方でセシウムの存在を明らかにしながらメルトダウンを明確に認めないという矛盾を何のためらいもなく続けてきた政府=東電と、それをそのまま垂れ流す護送船団メディア、これこそ情報操作以外の何物でもない。本来のメディアの役割はこうした矛盾を追求し、真実を明らかにするためにあるのに・・・

更に重要な事実は、東電、政府が想定外、未曾有という言葉をつかって言い訳に利用した津波被害だが、今回のメルトダウンにおいて津波がその被害を拡大したのは事実だけれど,実は津波以前に地震そのもので原発の非常発電装置が損傷を受けていたことが明らかになったことだ。
それを誤摩化すために,突然2ケ月前の津波の写真=如何にも津波が原因であることを印象づけようとするものを公開した。この小手先の手法が、そのまま紹介されるというのも、あまりにレベルが低い。

つまり、少なくとも福島原発は今回の地震の揺れに対応する耐震性能でなかったことが明らかになったことだ。津波が襲う前にすでに非常電源装置が損傷を受けていたことは、他の原発の耐震機能への信頼が大きく揺らぐことになる。地震+津波の危険性を理由に稼働停止を依頼した浜岡原発以外も同様の危険性があることが明らかになるというのをどうしても押さえたい政府、電力会社側の思惑がミエミエの展開で、それを何のためらいもなく,出す方も出す方なら、それを伝える方も伝えるほうだと思う。
これって結局、それを受ける市民側のレベルをその程度と見透かしているとしか思えない。まあ、これまでの状況からすれば仕方ないけれど、やはり市民の意識レベルを上げる事がもともな政治、報道を取り戻す唯一の手段なのか・・

しかし、政府=民主党の愚かさは程度を越えているが(菅直人は論評するレベルにすらないし)、輪をかけてこれまで電力会社、利権の渦にまみれて原発推進をしてきた自民党は何の反省もなく、政府批判する節操のなさを見るにつけ、この国の市民レベルよりも遥かに程度の低い政治のレベルにあきれ果てる。やはり、これも市民意識待ちなのか。
この国自体がメルトダウンする前に何とかしなくては・・

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2011-05-14

まだ続く情報操作。中日新聞の英断"電力不足は本当か?”

昔から銀行は雨の日には傘を貸さないという。
つまり必要な時には貸し渋り、必要もないのに担保があるとやたら貸したがる例えだけれど。

今、政府、大マスコミ、財界を巻き込んで大キャンペーンが展開されているのが、この夏の電力不足キャンペーンだ。表向きは福島原発に加え、浜岡の原発稼働停止を受けてのものだが、果たして本質はどこにあるのだろうか。
銀行の例えではないが、その真意が果たして真に電力需給の危険性を考慮して国民のために言っているのかは正直疑わしいと言わざるをえない。

合い言葉のように節電、節電と叫んでいるが、ついこの前までオール電化だと叫んでいた電力会社が一切言わなくなったのも不思議なことだし、少なくともその方が究極的にはエコだという要素もあったはずなのに・・・。
そして政府、民主党は民主党で原発比率を50%まで引き上げるとマニュフェストで歌っていながら、その経緯や説明を一切無しに危険だから原発を停止しろというのは余りに一貫性がない。
恥も何も無い野党の自民党に至ってはこれまで原発利権を享受した上に補助金漬けにして地方を懐柔して僻地に原発を作り続けた張本人であることに何の反省もなく、あろうことか東電の元副社長で参議院議員であった現東電顧問・元参議院議員加納を参与として迎えた「原子力守る」政策会議とやらを立ち上げて、原発推進を今後も計ろうとしている。
何せこの加納という輩は"低レベルの放射能は体にいい"とまで言っている奴だ。
まあいくら言論の自由とは言え,少なくとも現職の東電顧問としての立場を判っているのなら頭がおかしいと言われても仕方あるまい。
最後に言うまでもなく大マスコミにとって、各地の電力会社は大スポンサーでもあり、かつこれまでもご都合守護キャンペーンを展開してきた盟友みたいなものである。

そんな輩が言う節電とか、原発がないから大停電が起きるというキャンペーンは、眉唾以上に極めて意図的なものであることは明らかだ。

何より、その根拠としている電力の受給バランスの数値そのものは、すべて原発を推進してきた通商産業省と電力会社が発表しているものであり、その数値自体の信憑性は今回の事故を見る限りあるとはとても言えない。
どうみても彼らにとっての優先課題は大停電回避ではなく、何とか原子力発電所がないことでの危機を煽って原発の全面停止の回避であることは明らかだ。
でなければ、海江田が中電に対し2年後の再開を保証するような発言はありえないし菅も他の原発には停止要請をしないということをことさら宣言する必要もないだろう。少なくとも今の段階で言うべき事は、”国民の安全を確認できない場合はいずれの原発についても今後停止要請をする用意がある”くらいのことを言わなければならないと思うが・・。

そんな折、5月12日に大マスコミの末席のひとつである中日新聞が大胆な特集記事を掲載した。曰く"電力不足は本当か?”と極めてセンセーショナルなもの。

内容は東電/政府のいう受給状況が仮に真実だとしても、この夏、東電管内であっても電力不足は起こらない。しかもその根拠となる広野火力発電所の7月復旧や揚水発電実績を意図的に公表せず、ことさら電力不足をアピールしていると言うのだ。記事ではこうした"国民を欺くような『情報操作』の裏には、なおも原発に固執する政府や電力会社の姿勢が垣間みえる"と佐藤圭氏の署名記事ではっきりと断罪している。
ついでに言えば40%も原発に頼っているという関電であっても問題ないと記載している。
少なくとも都合のいい数値しか示さない電力会社や政府よりは,遥かにこの記事の方が信憑性は高いと言える。

勿論、原発以前の問題として節電をすることはいいことだ。
しかし、どうも単細胞的発想しかできない日本人の性をこの震災を機に変えていかないと、またぞろだから原発が必要だと丸め込まれることは目に見えているし、自ら考える市民に変化する転換点としなければならないと思うのだが。

そして、大マスコミの端くれとは言え、こうした記事を掲載した中日新聞には素直にエールを送っておこう。これからもこの姿勢を是非忘れないでと。
20110512

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2011-04-01

今日はエイプリルフール。

ステキな嘘ならいいけれど、東日本大震災をきっかけにこの国の政治家、官僚、産業界、そして何より今や最大の利権構造の大メディアが、よってたかって嘘を流し続けてきたことの綻びが一般の方にもわかる形で見えてきた。

とは言ってもまだまだ大本営発表こそ真実と思う(多分、村社会意識で違うことを考えていることへの恐れなのか)人が多いのだけど。

そんな中、大本営発表の記者クラブに対抗して自由報道協会を立ち上げた上杉隆さんや岩上安身さんが4月以降にそれぞれのラジオ、テレビのレギュラーから閉め出されることになった。岩上さんは何と言ってもフジサンケイGのトクダネだから、よくぞ今までとは思うけれど、上杉さんの場合は魂をとっくに売ったテレビと違って何とか踏みとどまっていたTBS-Rからの閉め出しだから、記者クラブ勢力の最後のあがきのような暴挙である。これでなんとかレギュラーを維持するのはTBS-RのDigの神保哲生さんぐらいになるのか?

そんな上杉さんが最後のキラキラで話していた。相変わらず、まとまりのない(そう彼の発言そのものは決して面白いと思えない、かろうじて活字になると納得できるのだが)話だったけど,彼自身もいつも話しているが、決して記者クラブが悪で自分達が正と言っているのではない。記者クラブであろうがなんであろうがジャーナリストとして権力に対峙して真実を伝えようとするのであればいいのであって、そうであれば当然メディア毎に視点や内容が異なって当たり前、読者はその多様な意見を自分自身の判断で取捨選択すればいいのだが、金太郎飴のように同じ内容、しかも時の権力に擦り寄って権力のチェック機能を果たさない護送船団に成り下がっているから批判しているだが。

今回の東電原発事件(あえてこう言おう)でもそれが余に露骨なのだ。
今、わかっているだけでも以下の嘘とそれを追求さえできない記者クラブメディアの実体がある。
実は東電は東電本店で断続的に記者会見を行っている。そのほとんどは岩上安身さんのユーストリームでLIVE中継されているのだが、この会見はさすがに記者クラブ以外のメディアにも解放されているのだが、そこで質問する内容を見ていると如何に記者クラブの記者達が幼稚で勉強不足かが明らかになる。ここでは肝になる質問は上杉さんをはじめ、海外メディアなどの通常の会見には参加できないところからのものばかりだ。

たとえば,プルトニウムの話。
当初東電の発表する放射性物質の項目にプルトニウムはなかった。
これを何故ないのかと質問すると,東電は津波に流されて計測機器がないと答える!
それを追求すると翌日、検査をしたが分析には1週間かかるという。
ところが計測機器の会社は検査は1日あればできると書いてあるとさらに追求すると、やっとプルトニウムが検出されたことを明らかにした。つまり機器がないと答え、検査に1週間かかるという、逃げられないとわかると舌の根が乾かぬ内に計測結果を発表する。嘘をつきまわって最後に居直るという姑息さだ。しかし,ホントに政府が関与しているのであれば東電は政府にも嘘を言っていたことになるし、そうでなければ政府もそろって嘘をついてきたことになるのに、こんなことを記事にしたメディアはどこにもない。

それどころか、プルトニウムがあることがバレると、御用学者総動員で,やれα線は障子紙1枚で遮断できるとか、重いから飛散することはないとか安全噓のオンパレードで火消しに躍起になる。その片棒を御用メディアが担いでいるのだから。
そんなに安全なら、日本以外の国はみんな噓を言っているのかな?

そして、会見に出てこない東電社長の件を追求したのも上杉さんだった。これに対しても本部にいると当初噓を突き通し、あげくの果てに逃げ切れないとわかると緊急入院ということでここでも居直る。それさえも既存メディアは知らん顔だ。

なぜここまで既存メディアが体たらくなのか?
第一には東電が彼らの大スポンサーであることなのだが、追求できない一番の理由が思わぬ形で明らかになった。これもフリーランス記者からの追求で明らかになったのだが、3月30日、事件後初めて記者会見に応じた勝俣会長は震災当日にマスコミ幹部を引き連れて(東電側の完全おごりで)慰安旅行に出かけていたのだ。当初プライベートなことと逃げていたが、ついにその事実を認めていたのだ。これだけズブズブの関係ではまともな質問などできるはずもない。

そして当然?ことだが、東電会長の会見のニュースでこのこと(慰安旅行)に関して報じた新聞、テレビはどこにもなかった。会見を中継していたNHKもこの下りになると何故か中継を打ち切ってしまったのだが。

4月1日。すべての会見を記者クラブから解放して自由に参加できるようになった。
そんな噓が本当になるのはいつのことだろう。

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2011-03-26

響かない言葉 こころのない姿

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何故だろう、第二次世界大戦の戦後以上の国難だというのに、この国のリーダーの言葉が心に響かない。
菅直人という一政治家の資質の問題もあるのだろうが、ではそれ以外の政治家でこの時期にうちひしがれた被災者に希望を与えられる者がいるのかと言えば皆無であることも同じように悲しい事実である。

同じように霞ヶ関や東京に陣取るメディアから発せられる情報についても、さすがの日本人の多くも真実を語っていないことにようやく気づき始めている。

震災より原発、それらの直接被害より、自らが被る停電や僅かな放射能汚染が大事な首都圏の住人が多いのも事実である。
本当に人体に影響ないのなら、被災者の復興に直接寄与するであろう被災エリア発の農作物や元乳をなぜ拒否するのだろう。菅直人よ、こんな時こそ野菜を食べ牛乳を飲むパフォーマンスを見せる時だろう。
本当に物資を必要としているエリアに入るのを拒否する物流って何なのだろう。
コンビニと言いながら風評エリア内で1店も営業しない(オーナーが被災しているのならそんな時こそ支援するのがフランチャズ本部の責任なのに)コンビニエンスチェーンって存在価値があるのだろうか?
被災者の悲劇を摘んで視聴率稼ぎや偽善者ぶる番組を作ろうとするテレビ局は東北地方が真に復興するまで支援する覚悟が本当にあるのか?
今必要なのは今日の涙を拭うハンカチだけではなく、10年単位で未来を見据える支援システムの構築ではないのか?
金の価値でしか復興が語れない経済界や義援金をシステム不調の原因に語る金融家、戦後この国を創ってきたのはこんな奴らだったのだろうか?
否、そんな奴らのためとは思わず家族のため、地域のためと汗を流したひとりひとりの市民がいたからではないのか?(復興のためと言われ高濃度の放射線被爆をするのもこうした下請,孫請の社員達のように)

原発さえも、安全を経済性との天秤に掛けられた結果でしかない。想定外の地震を免罪符にする前に安全性の評価が本当に経済性より優先されていたのか?その上での想定外なら,初めて許されるのだけど・・・

3/11後、この国に溢れる響かない言葉とこころのない姿。

それに反比例する形で、世界から伝えられる賞賛と驚嘆の多くが震災にも怯まない市民としての日本人の姿であることが、真の復興への力となるように思う。

東北エイド。少なくとも今後10年は生きるためのキーワードにしたい。

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