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2007-04-21

歌の鮮度 宝物の歌

Guest言うまでもなく大好きなことと言えば、まる六、おけいさんのこととなる。何故ファンなのかを語り出すとそれだけで一冊の本が出来上がってしまいそうなので、これまでの色んな所で書いてきた歌の鮮度を中心にまとめてみよう。

信じられないが六文銭が解散したのは、今から35年前の1972年である。どれくらい前かと言えば、私が高校生だったと言ってもイメージがわかな いので、あの沖縄がアメリカから返還された直後、すでに他界されたがグァム島で横井昭一さんが見つかったころと言えばどれくらい前か判って頂けるだろう か?六文銭に関して言えば、いまや教科書にも載っている?出発の歌が世界歌謡祭という(今思えば結構うさん臭そうな番組だが)イベントでグランプリを取っ た翌年でもある。音楽的に言えば、今やメジャーレーベルになったフォーライフレコードの誕生は3年後の1975年であった。

つまり相当昔ということである。当時はまたフォークソングブームの中心というか、フォークソングという名称より意味不明のニューミュージックというジャンルが大きくなり出した頃でもあった。

客観的に見れば六文銭というグループが解散する理由はおけいさんの結婚以外は見当たらないくらい順調な活動具合だったし、もっともっと素敵なメロ ディがどんどん生まれてきそうな感覚があった。しかし、もともと六文銭というグループ自体がグループでないと活動できないというより、メンバーは個々で活 動しながら、必要な時に集まれば個では表現できない別の個性が発揮できるという希有なグループだったので、解散という表現が不似合いだし、グループとして の活動をしばらく休止したという表現の方が正しかったと思う。

だからだろうか28年後、こへさんのコンサートにゲストとして集まった小室さんとおけいさんが一緒になって当時の歌を歌ってもなんの違和感もなく自然に歌えたのだと思う。見る側に違和感がない以上に多分,歌われたご本人達が最も違和感を感じなかったのだと思う。

もちろん、小室さんとこへさんはその間も歌い続けてこられたのだけど、おけいさんは28年間は全く歌い手としての活動はして見えなかった。つまり、六文銭としての歌は(中にはソロで歌われるものもあったけど)永い間、レコード、CD以外では封印されていたことになる。

少し話が逸れるけれど、歌って結局のところ人間が認識できる音の順列組み合わせにテンポを加えて構成されているものだと言えるが、その組み合わせ 方やテンポの加減によって人にとって心地よいというかスイートスポット自体は無限ではないように思う。そしてこの組み合わせ自体にジャンルは存在しないわ けだから、クラシックから民族音楽までの中で、基本となる組み合わせ及びテンポ等に関しては出尽くしているのかな?とも思う。昔のように海外のヒット曲を 誰もが瞬時に情報をえることができなかった時代には、高名な作曲家先生があたかも自分のオリジナルのような顔をしてコード進行やメロディをつまみ食いして 自分のヒット曲にしていたのは有名な話だし、今でも意識的かどうかは知らないけれどミスチルの曲の多くはビートルズのコード進行に類似している。

昔と異なり、すべての情報がアーカイブ化され誰でも簡単に検索できるようになると新たな曲を作る場合にも、目的に合った良いと思われるコード進行 なり、メロディラインなどの情報を打ち込みあたかもオリジナルのごとく状況で商品として大量生産されるようになると、ましてやタイアップやCMのように一 定の箇所だけを繰り返し聞かされるようになると曲、歌としての鮮度は急速に落ちていくように感じられる。但し、これは歌に限定したものではなく、例えば映 画のシナリオ作りなども同様にヒットする条件として、核となる設定を打ち込めばなんとなくストーリーが出来上がってくるという時代である。リメークと正直 にうたっているのはまだ良心的なほうで、おいしいところのつまみ食いみたいな映画が増えたことが、ある面ハリウッドの衰退にも繋がっていると言える。

少しと言いながらいつもの癖で長くなってしまったが、この時代、真のオリジナル曲っていうのが生まれにくい環境であることは確かだと思う。意識、 無意識に関わらず生まれた頃から多くの音楽に接している訳だし、音楽を目指すのであれば尚更である。その中で曲作りをするにあたり、聞いた曲,好きな曲に 似たものが生まれるのは当然と言えば当然である。そのせいか、一瞬いい曲だと思っても、そして大抵がタイアップやCMのようにおいしい所だけを繰り返し使 用されるわけだから、あきが早いというか、同じように作られた曲の中に埋没してしまうような気がする。更に言えば使用されるサビの部分と全体の曲とがとて も同じ人が作った曲とは思えないバランスの悪い曲も多い。まあ、こんなことばかりしてきたためか最近のCMはオリジナル回帰というか、"聴いたような気が する曲"よりその元の曲を使った方がいいという発想に変わってきたのかも知れない。

そしてそのオリジナルと言われるものの多くが70年代のフォーク/ニューミュージック系に多いというのも、単純に団塊の世代向けというだけではな いと思う。その時代の歌の多くは、それまでの一部のプロの作曲家からシンガーソングライターという感じで非常に幅広く,多くの作者が所謂”おいしい旋律" を消費した時代だったのかも知れない。(う〜ん、大分近づいて来たぞ!?)

そこで六文銭である。六文銭にスポットライトが当たったのは実質71〜72年の約1年である。勿論それ以前にも多くの名曲があるのだが、多くは小 室さんの個人の歌だったり、劇中歌だったりしたし、贔屓目でなくてもグループとしてのバランスが一番良かった(言い方を替えれば小室さんが突出していな い) のはこの時代の六文銭だと思う。本当にこへさんと小室さんの組み合わせで紬出されるこの時代の曲は何か魔法のようにすばらしい曲が溢れ出てくるような感じ だった。幸か不幸かそのすばらしい曲の多くがグループとしてより輝きを増す曲だったし、名曲であるにも関わらず活動期間が短かったために露出そのものが少 なかった。つまり72年の時点で多くの名曲が事実上封印されていたことになる。

だからこそ2001年にまる六として復活した時は、まるで28年振りに埋蔵金を掘り返したように新鮮な歌として蘇ったと思う。35年前の歌なのに鮮度が全く落ちていないというか、前述のような時代だった故に懐かしいけれど新しい歌として蘇ったと思う。

更に奇跡的なのは、小室さん、こへさん、そしておけいさんのハーモニーはその歌われる宝物の歌同様に全く色あせることなく、それどころか洗練さを 増して復活した。さすがにおけいさんの声が二十歳の頃と同じという訳ではないけれど、その癒しの魅力と透明感を増した歌声はかけ値なしに魅力を増大させた と思う。 

歌の鮮度 何者にも代え難いオリジナルの響きをもった六文銭、まる六の歌は、こんな時代だからこそ、より魅力を増しているのだと思う。これら宝物 の歌、そして新しく生まれる歌達を35年前と同じように、無理することなく、大切にそして楽しく歌われていくことを願うばかりである。

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