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2008-04-19

左足ブレーキング・・?

なかなかツアーの総括の筆がすすまない。まあ、自叙伝みたいな自分探しの旅みたいなものだから、少し腰を据えて書く事にしょう。と言うことで別ネタで。

小田原のおけいさんのソロでお会いした方が、実は私と同様にCGを中学時代から読まれていたとのこと。2月にはポール・フレールも亡くなったことでもあり久しぶりのクルマネタを書きたくなった。
Gsc_1005
※41年前のCGにはF1のジムクラークとザガートの美しい記事が。クルマ少年の原点がここにある。

CGと言ってもコンピュータグラフィックスの略ではない、通称カーグラは書道などの美術書出版で有名な二玄社が創刊したカー雑誌である。創刊時のメンバーは小林彰太郎さん、高島鎮雄さん、そして当時は東京新聞の写真部にいた三本和彦さんらである(創刊近くから記事を寄稿していたポールフレール氏は2月に亡くなられてしまったけれど、前述の3三方はまだまだ現役かつお元気なのは嬉しい限り。ただ彰太郎さんは酸素吸入器をつけられていて痛々しいが)。そのCGが4月で創刊45周年だそうな。私が初めてCGに出会ったのは中学の頃、恐ろしいことに1967年頃の話であるということは約41年も前ということになる。確か購入した最初が60号前後であったので計算には狂いがない。そう私はフォーク少年の前にクルマ少年であったのだ。

クルマ好きではあったものの、それほど凝った方ではなかった?が、ある事件をきっかけに田舎の本屋でCGに出会ったことで、その後の人生にも大きな影響を受けることになる。高度成長期のカー雑誌と言えば大半がメーカーのPR誌のようなものの中、今やカリスマの初代編集長、小林彰太郎さんはクルマ版”暮らしの手帳”をめざしたとおっしゃるように他誌とを一線を画す編集方針は新鮮で、所謂商品とは似ても似つかぬ広報チューン車でメーカー寄りの記事を乱造するのが(=当然雑誌にとってメーカーは大スポンサーでもあるし)当然の当時の雑誌の中で、自ら対象となるクルマを購入し、ロードテスト&ロードインプレッションなる概念を持ち込んだのもCGが最初だった。何しろ、ロードテストの為に、自動車メーカーに先駆けて5輪の計測器を小野測器と共同開発したくらい徹底していた。

勿論、こうした優れたバイヤーズガイドの側面(当然ながら当時の私はクルマの購入なんてまだまだ先の年齢だし)だけでなく、カーデザイン(ピニンファリーナやベルトーネ、ザガードなどのカロッツェリアの紹介など)やクラシックカー、F1などのモータースポーツなどをすばらしいカメラ&グラフィックスで魅せてくれたことが、その後の私にどれほど影響を与えたことか。(何しろ当時のCGは編集部員と同数くらいのエディトリアルデザイナーが誌面作りをしていた。その中には羽原肅郎さんというこの分野の第一人者もいたのだから)

余談だけど、CGのすごいところは、その後のカージャーナリズムの世界に幅広く人材を提供したことだろう。大川悠、熊倉重治、吉田匠、下野康史はいずれもCG,NAVI出身者だし、カメラマンの畑野進や内山勇、小林稔もCG出身である。(敬称略)こんなCGだからポールフレールをはじめ世界の著名なジャーナリストも貴重な記事を寄せていたのだと思う。大げさでなく、この雑誌のお陰で日本車のレベルが数段上がったし、その進歩の歩みも早まったのも事実だと思う。今や常識のディスクブレーキやハロゲンヘッド、ABSなどの効用を先進のヨーロッパ車との比較において日本車に檄を与え続けたのはCGだと言える。今や常識のボディ剛性などという単語もCGが最初に使ったと記憶している。少なくともアメ車でなく、ベンツに代表されるヨーロッパ車を手本にすべきといい続けた功績には、トヨタを初め日本のメーカーは感謝すべきだろう。

さて、前置?がいつものように長くなってしまったけれど、そんなCGから多くの影響を受けた私は、その後の30年のサラリーマン人生も結局のところその影響を受けたものをなぞるようなものだった。なんだかんだと言って直接、間接的にクルマ関係の仕事を続けてきたことになる。しかもその大半がクルマの販促に関することだったので、門前の小僧ではないけれどCGによって養われた目というか批判精神、文体や美的審美眼的なものは知らず知らずのうちに役立っていたのだと思う。(無論、ある面それが碌を食んでいた会社側にとって都合のよくない面も多く、場合によっては相容れないものが多かったのも事実だけれど、幸運にも当初は上司に恵まれトップにも知己を得て若い頃には随分自由に羽ばたくことができた。しかし上司なり会社側がまともである方が少ないのは世の常なので、合併や転職による環境の変化に連れては尊敬すべき人に出会うことのない恵まれない?会社人生ではあったけれど・・)

さて、4月に新しい歳を重ねる前、従って道東ツアーに出かける前になるが、免許の更新に出かけた。幸い過去3年間は官憲に見つかることなく過ごしたので、晴れてゴールド免許を取得することができた。自称国際G級ライセンス(Gとは自己)の私は、それなりに運転には自信がある(笑)。ポールフレール先生の著書にもある"ハイスピードドライビング"を実践してきた(暴走という意ではなく、安全に速くの意味)。ぶつけられたことは数度あるが、自損以外で他車にぶつかったことは皆無である。クルマの運転ってある面予測&想像力が大きな要素だと思っている。
 Gsc_1004※ブガッティを知ったころ
例えば対向車を見る時もクルマだけでなく運転者の表情を見る。四つ角も漫然と通るだけでなく建物のガラスを使って死角方向に注意を払う、あるいは万一の飛び出しに備え、その際はやや中央寄りに進路を変えるなんてことを無意識に行うことで事故を防ぐことができるのだと思う。こうして書くと私があたかも冷静沈着だと誤解を受けそうだけど、そこが私の駄目なところで,自損事故の大半は駐車場でのバック時、ちゃんとクルマなり柱なりがあることを確認しているのに、よそ事を考えててガチャ〜ンなんですよね(泣)

仕事からみで追浜や栃木のテストコースを走ったこともあるけど、道路が広すぎたりすると結局自分が今どこにいるかがわからなくなっちゃうし、バンクなどはハンドルを切らなくても曲がれるけれど、その為には設計上のスピードを維持しなくちゃならないという意味で、全く一般道路の走行には繋がらなかったと思う。それより走りだす前のハンドルの持ち方,ハンドルの切り方、何よりドライビングポジションの取り方なんかは、確かに役立ったとは思うけど。

そしてもうひとつ、彰太郎さんから紙面を通じて得たテクニックとして"左足プレーキング"がある。そう、クルマのブレーキを左足で踏む事である。今や90%以上の乗用車がAT化された中、元々クラッチを踏むためにあった左足は手持ち、否足持ち不足?でフットレストに置かれたままになっている。そこで空いた左足でブレーキを踏んだ方が合理的っていうことだけではない。そもそもはヒール&トウなど高速ドライビングテクニックにおいて、右足の踏み替えによるブレーキングのタイムロスを防ぐための有効な手法として活用されていたものだ。

私もかれこれ20年近く、この左足ブレーキングを実践しているが、慣れるまではついついカックンブレーキになって、つんのめって止まることがよくあった。左足で微妙なブレーキを操作するのには少し時間はかかるが、慣れるとこれほど便利なものはないと思った。何よりそれだけで、運転がうまくなった感じがするから不思議だ。そして何より運転そのものより両足をうまくコントロール(ついつい利き足ばかり使うと万一の脳卒中になってから苦労しますよ!?)することが心地いい。無理にとは言わないけれど、AT車しか乗られない方にはおすすめしたい。

左足ブレーキング。人間の体ってホントに不思議だと思う。使ってないとどんどん退化するくせに、使い出すとちゃんと使えるようになる。年齢も関係ないみたい。細胞レベルでは常に入れ替わっているわけだから、当然かも知れないけれど、まだまだ使いきっていない部分もあるかも知れないから、まだ進歩する余地が残っているかも知れないと思うと楽しくなってきた。
Gsc_1006
※1967年と2008年の45年目のCG、もう41年かあ

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コメント

まるちゃん

お久です。
確かに日本の教習所では左足ブレーキを禁止しているみたい。
慣れないと追突の危険性はあるからね。
その内、左足フィットネス用にダミーのクラッチペダル付の
クルマが出てくるかも知れないね。

投稿: たくみ | 2008-04-19 19時56分

こないだクルマ買い換えたのね。
初めてAT車。
クルマ屋さんに釘刺された…「左足でブレーキ踏んじゃだめ」
信用ないみたい。
『ヒール&トウ・高速ドライビングテクニック』なんてしないのにな。

で おとなしく走ってます。
左足 ヒマだなあ~

投稿: まるちゃん | 2008-04-19 16時08分

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