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2008-04-26

誰のため? 宗教と政治と自由

今、長野では長野県警によるトーチリレーが行われている。
これほど滑稽なリレーは見た事がない。
サンフランシスコの見せないリレーもおかしいが目的と手段が主客転倒しているようで、多分最初の東京オリンピック(64年ではなく中止になった1940年の方)が仮に行われたのら、似たような様子(各地では中国侵略反対!なんていう抗議行動が起きたりしてね)になっていたのではと思わせる。

そもそも日本には変なオリンピック信仰があるのだが、今では誰もアマチュアの祭典なんて思っていないだろうに、それでもその幻影で見ているのだろうか?少なくとも一部の競技を除けば、今やオリンピックは世界最高峰の競技大会ではなくなっている。ましてや4年に1回なんて、どれほどの意味があるのだろうか?

少し、話が逸れたけど、元々オリンピックはスポーツの祭典ではなく、極めて政治的なショーであることを理解すべきだろう。言い換えれば武力を使わない国同士の戦争のようなものだ。またその開催権を獲得するのためには多大な金がIOC委員の懐に入るのは当たり前だし(彼らはスポーツ貴族、IOC貴族とも呼ばれる)、そして今回の北京開催に当っては開催国となる条件として国内の政治弾圧の緩和を付帯条項に設けているくらいだ(それで言えば今からでも開催国の権利を返上しなくてはならないと思うが)。

そして1964年の東京オリンピックもそうであったように、オリンピックは経済的にも政治的にも世界に対しての国威発揚の場であったのはまぎれもない事実である。今回のトーチリレーも中国がその近代化と世界の一流国の仲間入りを世界にアピールするために、各国の国民に開催をアピールするというよりメディアを活用してその姿をアピールすることを狙ったものであると思う。しかし皮肉にもダライ・ラマというかチベット側の方がメディア戦略にはたけていた(まあ、これも権力を持たない弱者の知恵ではあるのだけれど)。彼らはメディアの注目が集まる場所を活用して、中国のチベット弾圧を効果的にアピールしている。そして中国側が(これも中国側に知恵もないのだが),こうした動きに過敏になって留学生や在留中国人を動員してチベット支援派に対抗しようとすればするほど、更にはカルフールなど反対派に対する中国国内での馬鹿げた組織的抗議活動をすればするほど、世界の目がこの国の未熟さと不気味さを露呈していることにさえ気づいていない。

そもそもこのトーチリレー、オリンピック憲章にはなんらその規定はない。つまり、トーチリレーがなくてもオリンピック自体は何ら支障はない。そう、このリレーは中国政府のものであり、オリンピックの必須用件ではないのだ。

では、そもそもそのトーチリレーはいつからかと言うと
ご存知の方も多いと思うけれどナチ、ヒトラーの時代のベルリン大会からである。まさにナチが国威発揚とために始めたものであり、その意味では今回のそれは皮肉にも正統なトーチリレーと言えるのだが・・

そしてチベット側がこのトーチリレーに焦点を当てたもうひとつの理由は、現在の中国の最高権力者胡錦濤こそ、中国のチベット侵攻の際の責任者でもあるからだ。更に言えば、本来13億の民を持つ漢民族国家にとって、辺境の地チベットはどうでもよい地区であるはずだけれど、今や石油や地下資源の宝庫とも言われるそれが最大の狙いであることは明白であり資源のためにチベットという国、文化を弾圧しているという帝国主義そのものの行動ではあるのだ。そう、ヘタに独立されてその資源を失うよりも批判は無視して国内問題として居直る方が得策と考えているのだろう。中国側の言い訳としてチベットの開発のシンボルとしての鉄道も、実の所はその資源を中心部へ運び出すための運搬手段としてであるし、何よりチベット人同士の婚姻を制限し、民族自体を抹殺しようとする政策(漢民族化浄化策は、ナチのユダヤ人弾圧とまったく同じ構図である)は許されるものではない。特に欧米人が反応するのはこの部分であると思う。

こんな背景があるにもかかわらず、ヘラヘラとトーチランナーを勤める日本のスポーツ&エセ文化人のおつむのレベルも問題だが(一人くらい、そんなリレーには参加できないくらいの事を言う奴はいないのか?),それを何の解説もなく、やれ物を投げ込んだだの、隊列に飛び込んだなどの映像を垂れ流すだけのメディアも似たりよったりかも知れない。

少なくとも理由のひとつにチベット問題を上げて出発地を辞退した善光寺の判断の方が評価されるべきだろう。

ところで、5月にはその張本人でもある胡錦濤が奈良を訪れる。例の"セント君"で別の議論を呼んでいる(こちらも別途触れなくてはならないけど)奈良ではあるけれど、日中交流のシンボルである唐招提寺などを訪れるらしいのだが、奈良の仏教人達はこれをどう捉えているのだろうか?仏教国チベットを弾圧し続ける胡錦濤を平気な笑顔で迎えるのだろうか?
宗教人として、信教の自由を憲法にうたっている日本の仏教人としてどう対応するのかは興味深い。

最後にお気づきかと思うけれど、ここでは一切"聖火"とは言っていない。
何故って?"聖火"と言っているのは日本だけのようだ。英語では単に"the Olympic Torch"となる。確かにオリンピアで採火されるのは聖火なのかも知れないけれど、少なくともスポーツと如何にも宗教的な響き(特定の宗教ではないのかも知れないが)のある聖の字は、今となっては不似合いな気がするのだけれど如何に。

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