真夏の"世"の夢・・本当の勝者はいたのだろうか?
今起きていること。
見せかけの経済発展(金で金を増やす)が結局はまやかしであったことが明確になっていること。
資本主義の限界。地球という枠が決まっているにも関わらず常に拡大再生産を原則とする思想の行き詰まり。まあ、共産主義も突き詰めれば共同資本主義だけどね。
そう、全員が搾取する側になってしまった時点で完全行き詰まり、勿論経済以前に13億の中国や11億のインドの民がアメリカや日本と同じような経済水準になる時点で化石資源は枯渇し、環境も壊滅的な状況にはなるけれど・・
そして残念だけどこうした資本主義の矛盾を隠してきたのが、世界戦争であり(冷戦を含む)聖戦という名の侵略だったこと。
戦争の熱気は為政者の無策、悪政の露見をあいまいにし、仮想敵国が破れることによって矛盾をリセットしてきたのだと思う。
結局、資本主義の勝者とは極極一部の富裕者で、それ以外は一定の自由という"餌"を与えられた"家畜"や"奴隷"だけであること。資本主義のうまいところはこの"奴隷"の中にヒエラルキーを持ち込んでより"マシな奴隷"と、より"悲惨な奴隷"の存在を見せつけることによって"奴隷"が"奴隷"と気づかないようにすることだろう。
こんな資本主義の元締めのアメリカ=ネオコンの戦略にそそのかされて、展開されたのがこの国の"小泉改革"であることを忘れてはならない。
つまり"奴隷"たちのあいまいなヒエラルキー=日本では総中流意識とも言われた、では矛盾が露見してきたので(戦争で誤摩化すことができないので)よりヒエラルキーを明確にする政策、同時に禿鷹のような金融資本の片棒を担げる竹中=小泉にとっては一石二鳥の政策、より明確に格差をつける政策だったのだ。今回破綻したんリーマンブラザースもあのホリエモンのスポンサーのひとつだし、そのホリエモンを時代のヒーローの様に扱ったのが小泉改革だったことを忘れたとは言わさないよ。
こうした流れの中で、成果主義なり実績主義なりという言葉が跋扈することになる。しかしねえ、何を持って成果とするかはとても難しい。それを評価するには数値しか見えない訳で、それ以上になると評価する人間がいるということで、その時点で絶対なんてことはありえなくなる。
結果、成果主義=数値主義になった時点で、ごまかしはいくらでもできるようになる。
汚染米の問題も、地方の農政事務所にとっては如何に汚染米、事故米の処理効率が優先され、ありえない汚染米の活用方法なんてどうでもよかったのだろう。だれでもわかる常識でも表に出なければ、処理の方が優先されている実態は、この国の官僚制度が、国民に奉仕することより自らの出世やキャリアが優先することにシフトしているのもこの成果主義のなれの果てでは。つまり、成果主義を実践するのは、国であれ,企業であれ、それを遥かに上回る倫理観が要求されることをどこかに置き忘れてきたこと、そうこのことってこの国のある面、美徳のひとつであったはずなのに、耳障りのいい成果、実績という言葉の前に忘れてしまったことだと思う。
そして,社保庁の厚生年金の標準報酬のごまかし疑惑。単純な話、納付率をあげるために分母を減らす手法なので、組織ぐるみと言わず何と言おう。厚生年金は天引きされる分については取りっぱぐれはない。しかし企業側はそれに応じた負担をしなくてはならない。不況でその分が払えない企業が増加すると,全体の納付率は下がる。それを避ける為には、天引き分を下げれば、企業側の負担も減るし、下げた分を本人に返却するわけではないので、それを企業負担分に当てたり、最悪の場合は社保庁職員のポケットに入れることもあったというものだ。こんな操作、組織ぐるみでやらなければできっこない。それを早計には言えないなんていう官房長官、まあ彼は官僚の代弁者でもあるけど、こんなごまかしがまかり通るのも信じられない。
そして何より許せないのは、この汚染米、厚生年金ごまかし疑惑は、自民党の総裁選直後に出されたことだ。つまり姑息な官僚は、政治が、この場合国会が機能しない時期を狙って小出しにしてきたことだと思う。
唯一の計算違い、これは自民党も同様だが、出来レースを出来レースに見せないために泡沫をいっぱい出して盛り上げようとした総裁選だが、まだ小泉フィーバーの反省が微かに残っていたメディアが少し二の足を踏んでいた。確かに厚生年金ごまかしの方が奥が深いので,判りやすい汚染米に関心が集中したのは社保庁の計算どおりだったかも知れないが、結果総裁選は霞み、変態大臣、こいつは福田の親戚で縁故大臣でもあるが、ヘラヘラ笑って花束を受け取って辞任した。農水省の感覚も、自らの置かれた立場を考えれば、花束を贈る状況ではないのに、その感覚すら薄れているのだろう。
何やら、今起きていることを見ると本当に勝者はいるのだろうか?
生まれた国に自動的に隷属される制度って本当にどうなのだろうか?
生んでくれた親を選べないのは当然としても、
国って選べないのかしら?言語という枠はあるけれど、共産主義も資本主義も限界が明確になった時代に,企業や金が国境を越えて飛び回る時代に、真に国民の生活や人権を守ろうとしない国を自動的に決めつけられてしまうことは,果たして今の時代にふさわしいのだろうか?
少なくとも選択枝、例えば成人となる時までは、生まれた国、親が責任を持つけど、成人になる時点で本当に日本という国の民として生きて行くかどうかの選択をする機会があってもいいと思うけれど如何に。
こんな時選ばれない国って悲劇だよね。そうならない為にもいい国にしようと思うんじゃないかしら。これも楽観的に過ぎるかもしれないけれど。ね。
結局、真夏の世に勝者はいなかったのか?
でもどこかで自分だけはってほくそ笑んでいる奴らがいることは確かなんだけど、奴らにしたって何のために生きているの?って、金があれば幸せなのって問われれば,明確に答えることができないと思うけれど。それでも勝者なのか?私には判らない。
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