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2008-10-14

神の手 自由と平等の本当の意味。

まもなくアメリカの大統領選である。
誰がなっても、ブッシュという類いまれなおばか大統領の後だから、よりマシには違いないけれど、時代というか大きな歴史のウネリの中ではこんどはオバマが大統領になるのは避けられないだろう。

間、クリントンというエロ大統領の時代はあったけれど、アメリカの直近の30年はレーガニズムとも言うべき自由経済の30年だったと言える。リベラルからみれば自由経済っていいことみたいだけど、正確には自由放任経済ということで、つまり政府は経済には一切口を出さない、資本家のやりたいようにするという経済だった。所謂弱肉強食の時代で、強いものはより強く、弱い物は淘汰される時代ということである。

小泉改革とやらで、なんでも競争すべしという竹中平蔵がすべて善のように騙し続けた思想の根源ではある。竹中が無能というか,わかっていて知らんぷりをしたのは、競争の後に何があるかを明確にしなかったことだ。つまり、永遠に競争が続くことなんてあり得ない。ましてや規制緩和とやらで、どんどんフリーハンドを与えていくわけだから、やがて勝者と敗者に二分されることは自明の理である。まあ、村上なにがしがいみじくも言った"儲けてダメなんですか?"である。更に言えば、この結果としての勝者は、果たして敗者に想いをはせることなんてないのである。勝てば官軍、負ければ棄民であるからこそ,勝とうとするわけで、そこに新たな競争なんて生まれっこない。そもそも、こうした状況の中で最低限のセーフティネットなり、勝ち過ぎを防ぐために政府が存在するのに、政府自体が勝ちさえすればよしの精神で運営されておれば、社会全体が荒んで、殺伐とした社会になるのは当然の結果だと思う。その意味でも小泉/竹中に踊らされた日本社会と愚かな国民は今、不幸の選択の現実を突きつけられていると言ってもいいだろう。

唯一、彼らの理論に整合性を与えるとすれば、人は皆、善というか性善説だけがよりどころになるということだ。

しかし、資本家というか富を一端独占したものがとる道はおのずと決まっている。強者はより強者になるために弱者を吸収していく。金融機関のメガバンク化やデパート業界の再編なんて典型的だろう。更にいえば、それらは本業というか手間のかかる物作りで富を得るよりも、一端手にした富=資金で金儲けをする虚業に走るのは、これもまた当然の既決とも言える。

考えてみれば、その権化のアメリカには本当の意味の産業は、軍需産業以外は何もないことでも明らかだろう。アメリカの最大の産業は金融業である。金融工学とやらで金が金を生むシステムだけである。何しろ貧乏人に家を建てさせてそのローンを金融商品(証券化)にして,世界中にバラまいて投機の対象にするくらいだから。これが自由経済、放任経済のなれの果てである。そこにあるのは性善説ではなく、性悪説しかないのだから。

しかし、何故こんなことが当たり前に行われてきたのかと言えば、実に恐ろしいことにアダムスミスの時代に遡る。つまり,自由放任でもどこかで神の手が働くとこの21世紀の経済政策の根本として信じられているということであるという。まあ、共和党がキリスト教福音派(超保守)をその支持基盤にしているのと無縁ではない。だからこそ、中絶反対なので,神のなすままにするという根源的な発想があるのだ。
(この辺りについては、こうした宗教的発想を表面に出さず、日本にも同じ経済運営を持ち込んだ竹中の罪は重いと思う)

結論から言えば、当然のこと神の手は働かず、ましてやイスラムの民が保有するオイルマネーが自由放任経済破綻に向かう動きに更に拍車をかけたとすれば、キリスト教福音派にとってはこれ以上の皮肉はないと言える。

そこで民主党(アメリカの)である。つまり自由放任経済が行き過ぎた時の揺り戻しの受け皿としてあるのが、民主党の基盤でもある平等主義=社会自由経済主義である。つまり,レーガン以前の民主党全盛のアメリカ社会は、平等主義の行き過ぎの中で活力を失い、新たな社会不安を抱えていた。努力しようがしまいが結果にさほど差がないとすれば、行き着く先は共産主義社会となる。さすがにそこまでは行かないが、そうした社会矛盾をターゲットとして,競争を歌うレーガニズムが支持を得たのは当然だったと言える。

そう、その意味で競争至上主義の矛盾が行き着いたこの2008年だからこそ、今度の大統領、政権は民主党になるのが、必然ではある。その大きなうねりからみれば、有色人種の大統領なんてたいしたことではないというのは、なんとなく理解頂けるかと思うのだけど。

自由と平等、このいかにも親和性の高い思想が実はまったく正反対の意味合いを持っていることは興味深い。自由っていいことの代名詞のようだけど、何をやってもいい自由となれば、やはり意味が違って見えてくると思う。
その意味での2大政党制をひくアメリカというのは、少なくとも政治体制としては健全なのかも知れない。そして自由と平等、その裏側は神の存在を信じるかあるいは無神論かとも読めるところも忘れてはならない。

翻って、この国をみれば、その意味ほど2大政党制の意味はない。
やはりキリストに該当するほどの大きな神の存在を意味しない国民性かも知れない。(一部、人神のような政党もあるけど・・)
しかし、この国には神にも勝る巨大な妖怪が政治を牛耳っている。官僚という大妖怪。この国に2大政党の意味があるとすれば、この妖怪に擦り寄るしか能のない政党と真の意味で妖怪に戦いを挑めるのかの違いしかないだろう。
最後は国民自体が"okami"という思想をどう判断するかだと思うのだけど、やがてくる選挙はASOとICHIROという選択肢ではないことを理解できるかどうかだと思う。

こと政治制度に関してはアメリカには遠く及ばないのは,残念ながら現実だと思うが、もうそろそろ児童会や生徒会の時代を越えて、真の意味での政治を選択できるようになればいいと思うのだけど。どうかな?

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