おけいさんの新曲、そしてアリマキ
おけいさんの一番新しいオリジナルに"たまにはね"但しまだ仮称というシャレた曲がある。
11月15日のOk's SQUARE 7thで衝撃的?に披露され、訪れていたお父様達には耳の痛い歌詞で、同時に奥様達からは喝采を浴びた曲だった。何より意味深ないたずらっぽい目で語るように歌うおけいさんに、いろんな想いが交錯してしまった。
常識的にはこの世には子孫繁栄という大命題のもと、男と女、オスとメスが存在すると思っていたのだけど、どうやらこれは間違っているらしい。"生物と無生物のあいだ"で生命科学の話を文学作品にした福岡伸一先生の新著によると、地球上に生物が誕生して10億年程度の間は、オスなんてこの世には存在しなかったそうだ。つまり、すべてメスだけの子孫というよりクローンみたいな自己複製を繰り返していたらしい。確かに現在でも子孫繁栄と言いながらオスなんて瞬間的に精子をふりまくだけで大半はメスの領域で成立している。
人間なんていう複雑そうな生物であっても、生物学的に見れば餌=金を運んでくる以外にさしたる貢献をしているわけではないのだから。子供が大きくなって父親より母親を大事にする確率が高いのもうなずける。何より、餌を運ぶだけなら何も精子をふりまいた父親じゃなくてもいいわけで、代わりはいくらでもいるわけだ。しかし10月10日同じ体内で共生していた母親の代わりは基本的にはいないということだろう。
結果、おけいさんの歌の歌詞じゃないけれど、父親=夫としての存在感は精神的なものでしかない。逆の意味でその精神性も補完できないのなら、"あんたなんかどこかへ行ってしまいなさい"と餌を運ぶ能力が無くなった時点でポイ棄てされると言うことだろう。
だから"月一二人で出かけたい 昔のように映画を見て
ちゃんと目をみてね お話しましょう
だってもう老い先短いのだから・・"というのは決して嫌みではなく
最高の愛情表現だと思うのだけど。(そうですよね?おけいさん)
さて、話を戻して、その福岡せんせいの本が"できそこないの男たち"である。但しこの福岡せんせい、BSEの専門家でありながら文学的な評価の高い文章力でベストセラーを輩出しているのだけど、同じ科学者、理系の方々からは結構辛辣な批判を浴びている(まあ、amazonなどのレビューなどを参照してもらうしかないけど)という事で、書いてあることがすべて正しいと認識するだけの知識がない点はご了解いただきたい。
誤解があるといけないが、ここで言うのは男の中のできそこないの話ではない。そもそも男=オスというのは女、メスのできそこないだと書いてあるのだ。前述のように自己複製にはメスだけで事足りるのだが、そこは良くできたもので?染色体やDNAっていうのは複製を繰り返す内にどうしても傷がついたり欠けたりする、当然それを繰り返せば劣勢遺伝となり絶滅する可能性が出てくる。それを避けるためにたまに横道に逸れた子孫を作ることによって不測の事態に備える必要があるのだが、そのためには自己複製ではだめで、別の遺伝子が必要となる。その為に仕方なく男=オスが必要になるというわけだ。
しかし逆の言い方をすれば、そのためだけに必要な訳で、ある面できそこないで十分、完全個体はメスでいいので、つまり男なんて所詮その程度の存在であるということなのだ。
この説明に、福岡せんせいはアリマキを例に解説している。アリマキは原則的にすべてメスである。今でもメスだけで自己複製を繰り返す。ところが1年の内、冬を控えた秋口だけに何故かオスがほんの少し生まれるのだそうだ。せんせいは生命の時間の経過を縦軸とするとそれはメスだけで成立し、亜種を生む横糸だけの存在がオスなのだと宣う。つまり秋に生まれたオスのアリマキは、一部の変種を生ますために存在するが、そこで生まれる変種はすべてメスしか生まれず、次の危機までオスは存在しなくてもよくなるというのだ。
そして、これは何もアリマキだけの例ではない。正統な存在がメスである証拠?に、日本では100歳以上の人口を比べると女性は3万数千人いるのに対し、男性は数千人しかいない。また受精後6週間程度は母体内の赤ちゃんはメスであるというのは有名な話だ。男性の体自体も性器部分については女体をベースに加工された痕があちこちにある。
ついでに言えば、男性には女装癖やOKAMA癖が多いのも、元を正せば生物の回帰現象なのかも知れない。確かに性同一性障害の方を除けば、女性の男装癖とかONABEと言っても基本的には精神的なものが多いので。
やはり男は女のできそこないであるのは間違いない。ただ懸命なる方は、しかしオリンピックの例を出すまでもなく男の方が体力に勝るし、アマゾネス社会を除けば政治経済でも男が中心であると考えるかも知れない。
これに対しても福岡せんせいは、体力に関しては、それこそ亜種、カスタマイズの結果だとおっしゃる。確かに。そしてあたかも世界の中心に男がいるように感じるものの、単に瞬間芸だけでよかった男共に、うざったい事もできるように欲張りな女=メスが高度にカスタマイズさせただけとも言える。何より、男中心と言いながら、その内容って生物的にはほとんど意味のないものばかりだしね。やはり人間の男もアリマキ以上ではないらしい。
男と女、生物学的にはあきらかに優劣が決しているこの関係に、かろうじて男が対抗するには精神性しかないのだけれど、それさえも亜種として切り捨てられないように懇願するための愛の歌を紡いでいるだけかも知れないな。何より愛する女性のために自らをカスタマイズするしか能のない男のなんと多い事よ。少し羨ましいけど。
決して男の復権を願う立場ではないけれど、
"女はねえ一言ですべて帳消しシアワセになれる天才だ"だから
強い女には男はどこまでも必要ないことを認識しなくては。
※引用は四角佳子さん作詞の"たまにはね(仮称)"より。
「ひとりごと。つぶやき。」カテゴリの記事
- 46年前。変わらない永さんへ(2013.08.31)
- 希望の国(2012.10.06)
- 六の日から4日後。 六文銭は無形文化財に。(2012.06.17)
- 3.11 変わったもの。変わらないもの。(2012.03.11)
- 2012年、年のはじめに。(2012.01.02)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
ムーミンパパ様
何をおっしゃる私からみれば理想的なご夫婦、ご家族で
あられるのに・・。
私はボタンの掛け違いで、ムーミンパパさんと違って
こんな風になってしまいますよという
家族(アリマキ以下の)を体現している次第です。
しかし、長くても読まれる方が羨ましい。
やはり長過ぎますか?
仮に長くても、読みたくなる文章がかけない私の
問題ですが。
やはり、まだまだ精進がたりません。
また、お会いできる時を楽しみにしております。
投稿: たくみ | 2008-11-29 15時13分
久々に全文読破出来ました!。
タクミさんの蘊蓄、博識、引き出しの数の多さ
そして何より文章の長さ!?に負けてしまい
頑張っても、斜め読み、飛ばし読み、だったのですが今回は福岡先生まで登場で、腹を据えじっくり拝読しました。
おけいさんの新曲、我ら男性陣にとっては確かに耳の痛い歌詞なのですが、それを納得させてしまう何かがあるのか(それとも自分の押しが弱いのか・・・)思わずチョット反省です。
6年前に父が亡くなる時最後まで「女房が最近ボケ始めている」と心配していたのですが、その母も一人になってしまうと(年齢相応の物忘れ等はありますが)思いの外しっかりしており、「お母さんはいかが?」と尋ねられるたびに、母のシッカリ度を話すのですが、「だから女は強いのよ」との返事を何回か聞いたものです。
おけいさんの歌詞とは何の脈絡も無いのですが男と女の不思議を何となく納得する次第です。
そして自分はと言うと、女房を助手席(古い言葉ですね)に乗せて「今年はあと何回行けるかな?」とか言いながらライブ会場に向かう姿を想像しているのです。
投稿: ムーミンパパ | 2008-11-29 14時50分