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2009-04-25

おとのば に入って・・私的ライナーノーツ

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4月24日から六文銭'09のファーストツアーがスタートした。
予約して発売日に届くはずのCDが同じ24日に届いたのも何か意味があるのかも知れない。
広島での幸運なオーディエンスはその"おとのば"をどう感じているのだろう。
まる六のCD"はじまりはじまる"同様にライブ感を優先して創られたであろうそれは、ある面CD作成時点がピークあるいはスタートとなっているのだと思う。
その意味では、今日のライブは決してCDとは違い、そして明日もまたそれと違うのだと思う。
そう、六文銭は生きている、生き続けている存在なのだ。
そして"おとのば"もまた生きている場、まる六からゆいさんが加わり小室さん言うところの出入が復活した""。その""はまた高峰をめざすベースキャンプのように、そしてある時はゲリラ戦を戦う陣地壕のように変幻自在に姿を変える""なのかも知れない。

今、目の前のiMacからは"おとのば"が流れている。これから私的ライナーノーツ、そう小室さんのセルフライナーノーツへの対比(決して対抗ではないので、これ重要です(゚ー゚;)として、個々の楽曲については触れようとは思うのだけど、この小室さんのおとのば六文銭'09への展開についてのコメントをCDを聴きながら読み返してみると、私は六文銭'09とすることで小室さんとこへさんが六文銭という"場"の墓守、あ・うんの仁王像のような存在になることを宣言しているかのように、そしてその墓守の庇護の元で、ゆいさん、おけいさんが自由に飛び回れる空間を創出するかのように感じていた。
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その""は居心地のいい場であると同時に、嵐に立ち向かって出発(たびたつ)とうとする雛鳥にとっては、安心して立ち戻ることができる巣の役割も担っているのかも知れない。
70年代最後の六文銭が溢れ出る若い才能達が群雄割拠のようにぶつかり合い、刺激しあいながらそれぞれが飛び立っていった存在だったのに対し、時空を越えて現れた21世紀の六文銭にはそれを見守る守護神ふたりが存在することが一番の違いなのか?
ゆいさんはまさに雛鳥として、そして、おけいさんは封印された28年を"おとのば"で辿ることで、いつでも"出発(たびたつ)"準備と覚悟が出来ているように思えた。

◆いのちかえす日
こへさん作詞・曲。このCDでも、そしてライブでも小室さんがメインヴォーカルを担う。小室さんはソロでも好んで歌うが、ある寺の住職から魂を送る歌として葬儀の際に流しているというお話をされていたのを思い出す。何故かこへワールドよりは小室ワールドが似合うところがおもしろい。いのち、そして人の人生自体がこの世界から与えられた仮のもの。終えるのではなく、かえす日であると。"風ひとふき、楽しかったと その手につげる"

◆花の渦〜倉敷相関歌
CD以外で聴いたのは1、2回だろうか?最近、小室さんが傾倒する佐々木幹郎の詩に曲をつけたもの。男女の相関歌を4人のハーモニーでまるで音楽劇のようにすすんでいく。女性パートのゆいさんとおけいさんのハーモニーについつい引き込まれていく。

◆ヒゲのはえたスパイ
はじまりはじまるに収録された"私はスパイ"の原曲として紹介される曲。小室さんのライナーノーツにあるように60年代ハイスクールライフ(それからや比叡おろしの作詞でも有名な、初期六文銭との関係も深い松岡正剛が編集長を勤めていた)に掲載された現代詩人の詩に小室さんが曲をつけて歌っていたもののひとつ。詩は当然、別役実。"私はスパイ"自体が別役さんの"スパイものがたり"の劇中歌であるわけで、いろんな意味で当時の六文銭の原点のひとつかも知れない。小室さんにとってはファーストアルバムにある大岡信や茨木のり子、そして谷川俊太郎、佐々木幹郎へと通じる言葉人(小室さんの造語、当然こへさんもそのひとりだが)とのコラボについても原点となる曲でもある。これも音楽劇のように表現される。お互いにインスパイヤされていったのかも知れない。

◆一緒に帰ろう
ある面、このCDを代表する曲かも知れない。世界感では"いのちかえす日"にも通じる、否対比となる重さをおけいさんのやさしいソロで表現することでルイスキャロルが用意した不思議な世界に迷い込んだアリスのイメージが広がっていく。糸田さんの持つ限りない深みの詩に、こへさんがそれに抗するようにおけいさんが歌うことでかろうじて均衡を保つように曲をつけた。詩と曲のタイトロープ上でそれを感じさせずに表現してしまうおけいさんに脱帽する。

◆大きなグミの木の上で
ゆいさんが参加することで成立する曲でさがゆきさん作。ゆいさんのメインヴォーカルに寄り添うようにおけいさんのコーラスがからんでいく。この二人のヴォーカルに対して守護者二人は遠くで見守るようにサポートしている。

◆ゲンシバクダンの歌
以前の六文銭を代表する曲のひとつ。別役さんの詩。"はじまりはじまる"の"街と飛行船"との対比において残念ながら六文銭の中では役割を終えた歌のように感じる。
音楽としての完成度やハーモニーの美しさを除けば、日本の不条理劇の雄である別役さんの詩はあの時代において十二分に不条理ではあったものの、先端であった西武や紀伊国屋のポジショニングの変化以上に、超大国の象徴であったゲンバクがテロリストの武器として今日、目前で爆発しても不思議でなくなったこの時代においては、何ら不条理性がなくなっていると思う。あるいは現実自体が不条理であることの証なのか?

◆サーカス・ゲーム
ここから3曲、70年代六文銭の唯一のオリジナルアルバム"キングサーモンのいる島"からの曲だ。エネルギーの発露、こへさんの世界観が当時ひとり守護神であった小室さんと融合することで今に通じる世界観が形づくられたと思う。
こへさん作詞・曲で今やライブのアンコールには欠かせない曲でもあるけれど、若いエネルギーがぶつかり合うことでより魅力が増す曲のように思う。

◆流星花火
同じくキングサーモンからの曲。当時よりも今聴くことで六文銭の凄さを再認識させられる曲である。ある面こへさんの即興詩とそれに即興曲で応えた小室さんの心の火花がそのまま流星花火として美しい弧を描いたのかも知れない。エンディングに向かって"そいつがちがうと"と重ねられて行くハーモニーの美しさにどんどん吸い込まれていく。

◆キングサーモンのいる島
数年前、六本木で行われたおけいさんのライブでこの曲の香真良さんのイントロが聴こえて来た時の感動を思い出す。思わず"キングサーモン"だと呟いていた。アルバムのタイトルである以上に、こへさんの才能が迸っていた曲だと思う。その時のおけいさんのソロもステキだったけれど、当時と同じようにこへさんのメインヴォーカル、そして厚みの増した4人で奏でられるハーモニーは21世紀の六文銭においても集大成の1曲であると思う。
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◆雨
まる六〜六文銭'09の代名詞のような雨、ストレートにそのままのタイトルで、詩人の鶴岡善久の詩に小室さんが曲をつけた。その比較においてもいろんな雨の世界を表現する六文銭の奥深さを印象つける。一番新しい雨の世界なのか?"雨、それをだいすきだという子供がいた 路地にでてそれをしゃぶった それと話をした 魔法のように"

◆木の椅子
こへさんの詩に黄永燦の曲。こへさんがソロで歌うイメージがまったく湧かないようにゆいさんとおけいさんのユニゾンの為に創られたように思える。木の温もりの中、クルス(十字架)の模様の中に何をみつけたのだろう。

◆硝子の暦
"一緒に帰ろう"に続いて糸田さんの詩にこへさんが曲をつけて自らが歌う。糸田さんの短歌を重ね合わせていくような詩は、"一緒に帰ろう"のように中和されることなくこへさんが忠実に表現されているように思う。"喉元で焼かれた 言葉の煙  弔うためにこそ 忍び寄る冬"やはりこへさんのソロに寄り添う主体は小室さんのコーラスとなる。

◆宿酔 & ◆雲の信号
小室さんがいみじくも徒に近づけば怪我をすると書いた中原中也と宮澤賢治。この2大"言葉人"に臆することなく挑んだ守護者ふたり。これは2曲1セットで聴くべきかも知れない。詩人以上に言葉人であること、六文銭の守護者であることを確認するおふたりの想いが伝わってくる。

◆ほんとさ
これもゆいさんのための曲か。さがゆきさんのジャジーで軽快な曲"ほんとさ また会えるってこと ほんとさ"。姉妹のようなおけいさんが何故かこの時だけはやさしい母のようなコーラスでサポートする。

◆出発の歌
去年の3月、札幌いざ拓でそれまでのツアーをまる六のマネージャーとして帯同していたゆいさんがまる六のステージに加わって歌い出したその場にいた。その何日か前の帯広でのアンコールで突然始まった"出発の歌"。今思うとそのふたつの場に立ち会えたことは偶然とは言え幸運だったと思う。
小室さん自身もあるいはこへさんも、ライブの後などに話をお聞きした際は、"出発の歌"はあくまで"上條恒彦と六文銭"の歌であり、当然のこととしてまる六のレパートリーとは考えられていなかったと思う。ただ、決して多くない六文銭を知る人にとっての認知においては六文銭とニアイコールの歌であるのは確かで、長らくこのズレは、ファンの想いも巻き込んで極力触れられることはなかった。
しかし、"はじまりはじまり"がリリースされた頃からだろうか?まるで1972年のドキュメンタリー”フォーシーズン"の中での会話と同じように。
ご存知ない方のために少し説明すると
解散することが決まっていた六文銭がフォークコンサートにおいて"出発の歌"を歌うかどうか議論している時、意見がまとまらない中、小室さんが 『それなら條さんに聞いてみよう』と言って、それに対し上條さんは『嫌なら俺だけでやるからいいよ。ただお客さんは聞きたいだろうけどね』とおっしゃったのを受けて、再び小室さんが『やっぱり條さんはいいこと言うよ。じゃあ、ここだけはしようや』と言って演奏したシーンがあった
まるでこの時のシーンと同じように、小室さんはオーディエンスが欲しているのであれば、やればいいやと言う感じで帯広のレパートリーに追加されたのだと思う。もちろん札幌でも・・。
その後、どのようなやり取りが繰り返されたのかは知らない。その年のまる六の日にも"出発の歌"が披露されたのだが、そこにひとつの答が導き出されたのうな気がした。そう、メインヴォーカルをおけいさんが取ってのものだった。こへさん曰く"たびだたない出発の歌”として・・。
それはまさに"出発の歌"をまる六、六文銭'09の歌として認めたくないファン(実は私もそのひとりだが)にも、別物の歌として、おけいバージョンの新曲として静かに胸の中に滲みてきた。
そして今回のCDでは、有り体に言えばそれらの折衷案の様、だから私は静かにおけいさんパートだけを繰り返して聴いていたい。
・・と言う事でこの曲だけで1文書けてしまうのだけど。

◆12階建てのバス
この曲を初めて聴いたのは70年代の小室さんがMCを努めるラジオだったと思う。イラストレータの小島武さんの作詞というのは記憶はあった。小室さんらしくないと言えばそんな曲、新六文銭のレパートリーにも加えられる予定だったようだけど、幸いにも?今回のCDまで封印されていた。今聴くと、初めて聴いた時の衝撃は薄れていたように思うが、CDの中で唯一未消化な印象を受けたのは、小室さんの中にやり残し感があったのかも知れない。その意味では、これから一番変化が大きい曲かも知れない。

全17曲、はじまりはじまるが所謂一発取りを意識し、素材感を重視したのに対し、この"おとのば"はゆいさんがヴォーカルとして加わった以外の編成には変わりはないものの、その進化のレベルと精度を増したハーモニーは素材感を越えた熟成の域に達しているように思う。楽曲としては糸田さんやさがゆきさんが六文銭の可能性を広げ、何よりおけいさん、そしてゆいさんの伸びしろの大きさがユニット全体の完成度を高めているように感じた。
特におけいさんの存在感、あるいは彼女の表現力によって楽曲の解釈が彼女らしさの中で表現されているのは何よりうれしいことだった。
つい小室さん親子とこへさん、おけいさんと見てしまいがちだけど、明らかに今回の主役は守護者のもとで更なる可能性を確実なものにしたおけいさんであり、新風を巻き込んだゆいさんだったと思う。

いずれにしてもまる六同様、六文銭'09は生きているユニットである。今日の福岡でもまた。昨夜と違うパフォーマンスにオーディエンスも酔いしれることになるのだと思う。
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※文中一部敬称略。すべての解釈は私的なものであることをご了承ください。

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