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2009-04-11

生と死と。

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人は何のために生きるのか?って今更のテーマですが、
結局のところどう死ぬかにかかっていると思います。
つまり、どう生きたかの評価なんて死んでからでないとわからないというか、
命がある間はその生は生きている本人のためのもので、それを他人がとやかく言っても仕方がないと思うのです。
それが死んでしまうとそれは本人がどう思っていたかは関係なく、本人以外の評価がすべてになるのかなと思うのです。
日本人が好きな桜もパッと咲き、パッと散る姿に共感すると思うのですが、その桜がなんのために咲くのかと言えばその後葉が出て実をつけるためだと言えば、何となく散るまでが人生だと思っている人の性とは異なり、実はその後が本当の生き様、ある面、死に様の方が大切だと思う今日この頃です。

日本では年間3万人もの方が自ら死を選んでいると言われます。ただこの3万人は遺書なり対外的に自殺と思われたものであり、例えば自宅等で無くなった場合、残された家族のために呼ばれた医師が下す診断は"心不全"となる病死が大半であるのが現実です。ある方によればこうしたものも自殺に加えれば、実質日本の自殺者は年間10万人にも及ぶと言われています。

そう3万人でも驚異的な数なのですが10万人となれば、戦死者としても多すぎる数だと思います。無論、その選択の原因は様々、最早死を待つだけの状態での無常観からのものがあるとしても、自ら選ぶ死というのは私にとっては全く理解の外にあるものです。誤解を恐れず言えば死を選択する人は殺人者と同意のような気がします。つまり死を選択した感情なり意志なりは少なくとも永遠のものではないと思います。仮にその時の想いがどんなに重いものであったとしてもその命というのはその人のすべて、仮に30歳だとしても30年間すべてではないはずです。つまりその瞬間の想いですべての命を断つことは、その瞬間だけで命ではなく、そう思わないで過ごしてきた自分自身を殺す権利はやはりないような気がします。その意味では殺人です。間違いなく・・

多分多くの方がそれはお前が恵まれているからだと言われると思います。確かにそうなのかも知れません。でもね、私は今、この瞬間、自分自身が時間の一部として存在していることは凄いことだと思うのです。しかもそれは自分だけの力ではどうしようもないこと、それは生物学的なことだけでなく、自分を取り巻く人の輪、関わった人々のすべて、環境があって存在している訳で、それ自身はありとあらゆる偶然ときっかけの組み合わせの結果であり、その瞬間は2度と再現できないものなのです。そんな凄い瞬間を意味なく断つほど人は大きな存在でないと思うのですが。

そして何より命があるということは、その瞬間、奇跡の連続がこれからも続いていくということで、そんなすばらしいことを何故自ら止めることができるのか全く理解できないことだと思います。つまりあなたの命はあなただけでできている訳でないことを理解しなくては。
だからこそ、他人によってその命を断つ殺人はどんなことがあっても許されないことであって、戦争も同様に他人の命を断つという意味で全く許されることではないのであり、それはすべての宗教、思想以前の定理だと思うのです。
その意味で、どんなに辛い、絶望よりも大事なものが命でなかれば、そんな人は殺人を肯定しているのと同じといえば言い過ぎでしょうか?。

実はつい最近、近しい人が自殺しました。仕事や家族を残しての死でした。多分人には言えないほどの訳があったのだと思います。でもあえて言います。でも死ぬことはなかったと。死ぬことで解決することなんてないと。死ぬ事より価値のある命は無限にあることを。

かく言う私は、小学生の頃に絶対死にたくないと思いました。
この時空の中に存在していたいと願っていました。
それは、地球や太陽が何十億年という寿命を経てそれ自体が存在しなくなることを最大の恐怖として感じた時でした。そのことで自分が存在していたこと自体が無くなってしまうことが理解できなかったのです。
永遠の命、それもまたあり得ないことですが、少なくとも今、この瞬間は自らが老いて亡くなることは全く意識していません。今、この瞬間に生きていること、存在しているこのを最大の喜びとして過ごしています。変かなあ?

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