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2009-05-06

ロックの神?とフォークの・・三昧のあいだ。

忌野清志郎が亡くなって、いろんなコメントが飛び交った日が過ぎていった。
三浦友和が同窓だったというのは知らなかったけど、考えてみると彼の死のことがこれほど多く語られるというのは不思議な気がする。

ほんとかいなと思うほど多くのコメンテーターが彼のことを語っているけど、正直どれほど知っているのか?所詮、タレント要覧に目を通し、聞きかじりの知識で判った風にしたり顔で語る姿に嫌悪感をどれほど感じたことか?
"あれっ、あいつ一度も話したことないけど"って、宝くじが当ると急に知り合いが増えた感覚で苦笑している清志郎さんの姿が目の浮かぶようだ。

THE GOD OF ROCKと言われても、あの時代のアーティストは反体制であることがその存在証明みたいなもので、そもそも彼がロックなのかフォークなのかと問われれば、私の中ではフォークの領域だと思うし。何より60年代後半から70年代においては、フォークであろうがロックであろうが、その後の造語的意味とは異なり、既存の音楽に対するアンチテーゼとしてのニューミュージック、新音楽という領域での区分にすぎないのだと思う。

あるいはそうした大きなジャンルからやがてそれ自身が既存の音楽のひとつとして体制そのものとなったものもあれば、その意味のままの存在として今に繋がっているものもあり、はたまた精神はそのままにアコギからエレキギターに代わり、ベースやドラムスという編成の違いだけでロックと規定するのもどうかと思う。

基本的にはジャンルで区分するものではなく、彼の音楽は何かと問えば、デビュー以来変わらぬ忌野清志郎の音楽というべきで、あまたジャンルの枠に収まることでしか存在できない多くのフォークシンガー、ロックミュージシャンとは区別すべき存在だと思う。
更に言えば、音楽はすなわち表現手段にすぎず、歌の成り立ち、テーマのみで定義するのではなくアーティストの想いなり精神性、生き様をどう評価すべきかが,本来問うべきものだと思う。

平和や核の問題を語るのは何も破天荒で反体制だからではなく、人として守るべき家庭というか家族を大事に思う心がその基本になくてはならない。歌のために家庭や家族をも顧みないというのは大きな偏見で、愛するものがあるからこそ、それを守るために社会正義を大切にするのだと思う。
その意味では清志郎さんはブレはないように思うし、それが魅力のひとつだと思う。ただ一般的には、年を重ね、そんな世界に身を置いている中で変わらないままいることは、一時的に反抗したり,アウトローぶることと違ってその何倍も何倍もエネルギーというか信念がないと続けることはできない。

私見だけど拓郎の場合は、瞬間の、誰もが同じように反発した中での存在感が大きかっただけで、その後の生き様の中でそれが維持されているとは,残念ながら思えない。そしてその後を見る限りは彼が目指したのは新しいPOPスターだったと言ってくれる方が余程納得がいくし、時代を敏感に感じ取るすぐれたPOPメーカーとしては(ある面、ユーミンに通じるけれど)十分に尊敬に足る存在だとは思うのだが・・

そんな拓郎を自らの体験、懐かしの存在に重ね合わせてリスペクトする想いに何の疑問はないものの、清志郎をGOD OF ROCKとして評論する基準でフォークの神様なりの形容詞であがめ奉ることには全く同意はできない。
まあ、勝手な推論だけど彼自身もPOPスターの称号には異論はなくて、でも不世出のフォーク歌手なり、フォークの貴公子、神様という称号はファンの自らのあこがれとする偶像でしかないように思っているのではないかと・・。少なくとも拓郎は清志郎より相対的な位置ではジュリーなり御三家、裕次郎に近い匂いを感じるのは私だけだろうか?その違いは彼自身というより背負っている時代を異にするオーディエンスの違いの方が多大きいのかと・・。

そんなことを考えていたら、5月5日はNHKお得意のまる事拓郎三昧の日を繰り広げていた。まるで例の年末の歌番組の目玉にと狙うために媚を売っているように、田家さんを使ったそんな想いに迎合するようなべったりの解説で・・。
せめて1コーナーでも、同じ時代を生き抜けた清志郎さんの曲を流せば、救われたのにと思った子供の日だった。

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