許容範囲内の感動と悲しみ、そして・・
再び赤いオクラのお話です。
比較的栽培しやすい部類の野菜だけど、効率論でみるとスペースの割に収穫量は限られます。
こんな大きな花に1個しかなりません。花は順次咲いていきますが、我が家でも10株ほどありますが、1日に収穫できるのは4〜5個程度なので仮にオクラ農家となると余程高価でないと成り立たない計算になりますね。
前にも書きましたが赤と緑のオクラは色だけ、しかし茎自体も赤いのは不思議。
花は同じ薄い黄色の大きな花が咲きます。
※赤オクラと普通のオクラの身と花です。
さて、大竹まことのゴールデンラジオ7月16日のオープニングで紹介された朝日新聞に寄稿された辺見康の文章、主体は死刑制度についてのものだけど、ジャパネスクとして論じられた日本人論の定義に何故か釘付けになった。
時あたかも各局のネット強化月間なのかマラソンプログラムが続いている。そこで繰り広げられる"感動"プログラムを見ると、見事までに予定された"感動”を日本人に合わせて見せ物として演出されていることに愕然とした。
来月末には政治ショーと同じ日に予定されている24時間マラソンも控えている。予定調和の中の感動ストーリーもまた、この日本人論の範疇で繰り広げられるのだろう。
肝心のその日本人の精神構造について、
"概して悩む事ができることしか悩まない、耐えることができる悲しみしか悲しまない、自分の苦悩の器を越える大きな悩みや悲しみを無意識の内になかったことのようにする傾向がある"
と定義している。
問題はこの世の中に起きる悩みや悲しみの大半はこの範囲を越えているもの。
当事者になれば否応無しに自らのものになるものの、そうでなければ、そこへの想いが及ばない。及ばないどころか自分とは無関係のものとして平気で無視できてしまうことが恐ろしい。
あるいは、真の悩みや悲しみから目をそらすための道具として機能しているとしたら、その為に見失ってしまうものこそ大事なものではないかと思う。
当事者とそうでないものとの間にある断絶。
その中で完結してしまう悲しみや悩みに何の意味があるのだろう。
人ごとだからできる感動なんて、本物じゃないよね。
作り物は所詮作り物、それをあたかも現実のように演出されて、それに涙することで自己完結してしまうなんて、心までプログラミングされてしまっているようで、たった1回限りの人生をフィクションで生きるみたいで、どうにもやるせないし、少なくとも私の人生ではあって欲しくない。
そんなことを考えていたら、
大雨と
雷と
スコールのような豪雨の合間に
天使のように舞い降りた蝶の姿があった
でもあの突風と豪雨をどうやって避けているのだろうかなあ。
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