本当の悲しみ について
昨日からかとうかずひこさんの死を伝えるNEWSが流され続けている。
自殺だなんて。
ただ今わかっているのはそれだけ。
だから、当たり前のお悔やみ言葉を発するのはあまりに事務的でセレモニー臭さすらする。
本当ならバカヤロー、なんで死んだりするんだと怒ることが死者への最大の賛辞でないかとも思う。
だから紙面やテレビでどこまで加藤さんのことを知っているんだろうと思う輩が
ありきたりのコメントを寄せているのを見ると
嫌悪感すら感じてしまう自分がいる。
仮に伝えられるように鬱病を患われていたのだとすれば
彼の側には彼を一番知る希代の精神科医がいた訳だから
安易に病に触れたコメントも失礼だと思う、
やはり、当然のようにきたやまさんは何らコメントを発していない。
と言うより、メディアに発表する必要がないことはきたやまさんなら十分理解している
同じように身近だと思われる方の死であっても永さんもメディアにはコメントしないことは
徹底しているように思う。
コメントできるのはそれだけ遠いからなのだろう。
さて、それでは人は
一生の間に何度本当の悲しみに立ち会うのだろうか?
ホントの悲しみ・・実はそれがどのレベルのことを言うのかよく判らない。
確かに人の死に立ち会うことはそれに近いのだろうが、身近なほど悲しみが大きいのかと言えば、母の死はどうだったのだろう?悲しみが無かったと言えばそれは嘘になるけど、それよりはほぼ1年前、すでに転移した癌が見つかり、命の限りが現実となった時の方が悲しみは大きかったような気がする。
無論、身内の死でも多少の前後はあっても歳の順であれば許容の範囲の悲しみなのか?
幸いなことに妻や子供に先立たれることはないので、そこに感じる悲しみがホントの悲しみに近いのかも知れない。ただ、それさえも事故などの突然のものでなければ、そのこと自体がどうしようもない悲しみなのかどうかも判断できない。
となれば、本当の悲しみは、そう自分自身の死しかないような気がする。
どんなに辛くても
どんなにくやしくても
どんなにやるせなくても
そして、もちろんどんなに悲しくても
それを感じられなくなることが,私は一番の悲しみだと思う。
だから私は自殺は断じて肯定しない。
存在することで、感じることで,悩むことで、生きていることが実感できる。
それを自ら断つなんて、やはり私にはできない。
癌が全身を侵しまくっても
心臓がその動きを止める瞬間であっても
絶対死にたくないと本当の悲しみに感じると思う。
安らかな死なんて
ましてや自殺なんて
悲しみとは~ 悲しみとは~
何故かこへさん作詞のおけいさんの歌"初恋"の最後のフレーズが頭を駆け巡る。
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