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2010-01-20

MASTER TAPE 『ひこうき雲』

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タイトルにひかれて録画予約をしていた。
LP『ひこうき雲』1973年11月リリースとのこと。
当時ミドリブタパックではじめてユーミンを聴いたのはいつ頃になるのだろうか?
記録によれば金パの2部(AM3:00~5:00)だった林美雄さんのパックは74年8月までだから、記憶は定かではないけれど本当にデビュー直後だったのは間違いない。

とにかく初めて聞いた時の衝撃は今でも鮮烈に記憶している。聴いたこともないメロディライン、こへさんにも通じるメルヘンでありながら文学的でありながら決して教条的ではない、それでいて心にどんどん飛び込んでくる言葉の爆弾のような歌詞、音楽性の高さは十分伝わるのに決してうまくない?歌唱、その何とも危ういながらも何物にも変えられない存在感は真の意味でのニューミュージックだったのだと思う。
当時、深夜3時過ぎのパックのスタジオでピアノの弾き語りでの演奏もあった。深夜の解放区に舞い降りたユーミンは浪人中の身にはあまりにまぶしい存在でもあった。(とても同じ歳とは思えない)
8月25日の林美雄さんの誕生日には、サマークリスマスとして豪雨の公園にも出かけるような、その後雨を避けてTBSホールでも歌った伝説の逸話も残っている。(その時ほど,地方在住であることを恨んだことか?。)

その頃東京ではともかく、名古屋ではユーミンの存在はほとんど知られてはいなかった。しかもネットも何もない時代、誰とも情報を共有することはできなかった。そして、山崎ハコやノトミチコ同様にミドリブタパックの終了(後に一部に復帰するけど)と共にユーミンの情報も一端途切れてしまっていた。

しばらく経って、フォーライフレコードが生まれた年のTBSドラマの主題歌(家庭の秘密)として突然ユーミンの歌が聞こえた時には、何とも言えない感慨を覚えたのを思い出す。それが"あの日にかえりたい"だった。深夜の片隅で輝いていた雛が突然メジャーな鳥として羽ばたいた感覚に近い。と同時に彼女は遥か彼方をギンギンのニューミュージックの女王の道を歩み始めていた。
もはや、誰も知らないユーミンではなく、誰もが知るユーミンに。だからという訳ではないけれど、"もうひとつの別の広場"で煌めいていた彼女と得体の知れないオーディエンスの期待に応えようとうごめいている彼女がどうしても同じには見えなくなってしまっていたから・・。

さて、長い前置きはともかく、番組はそんな彼女のデビューアルバムである"ひこうき雲"のマスターテープを核にそれにまつわる人々を交えて進んでいく。

何故かユーミンが保管していた16トラックのマスターテープ、当時最新鋭のαスタジオで1年かけて制作されたという。
30数年ぶりに集まったのはユーミン本人と当時のディレクター有賀 恒夫氏とエンジニア吉沢 典夫氏、それに録音当時からすでにおつきあいの始まっていた松任谷正隆氏、そして細野晴臣氏。しばらくして林立夫氏が加わる。つまりユーミンの存在をより鮮烈にした裏の立役者キャラメルママのメンバーでもある。残念ながらNHKなのでもうひとりのメンバーである鈴木茂さんは最後まで現れなかった。

さて、当然ミックスダウンする前のマスターテープだから、ヴォーカルだけとか、ベースだけ聴かせてっとかリクエストで再生されていく。それだけでも興味深いけれど、何より当時(住む世界は違いながらもまさしく同じ時代を生きていた)の臨場感、話題や話がとにかく面白かった。

いくつかピックアップしてみると、
ユーミンと言えばプロコルハルムの青い影が思い出されるようにブリティッシュロックがベースにあるように感じるけれど、バックを勤めたキャラメルママ(後のティンパンアレー・・う~ん懐かしい)は西海岸サウンド。このふたつがぶつかった所からこのアルバムが生まれたこと。

ユーミンはGSのファンガースの追っかけをしていて、そのメンバーであるシー・ユー・チェンとの交流からこの世界に入ったこと。紹介した先が村井邦彦というくだりになる。その村井さんは"ひこうき雲"を雪村いずみに歌わせている!因みにユーミンの名付け親はシーさん。彼が同時流行っていたムーミンと中国語の有名をかけてネーミングしたそうである。
さすがに雪村さんのひこうき雲は聴いたことがないけど、最近"この大空にすててしまおう"を弘田美枝子さんが歌っていたことを知ったことを考えると当時の音楽界のほうが今よりクロスオーバーしていたのかなとも思った。

後、あのうまくない歌だけど、ディレクターの有賀さんの考えであえてノンビブラート唱法をさせたそうである。ユーミン自体も作曲家思考で歌手としての執着もなかったからと。
ただそんなユーミンがどうしてもと拘ったのは、ディレクターとしてうまく歌えたパートをつなぎ合わせてヴォーカルトラックを作ろうとしたのに対し、それでは感情、想いが伝わらないと音程が少々ずれていてもその方がいいと言ったそうである。

等々すべては書ききれないほど、マスターテープにはその時代の空気までも見えないトラックに記録されていた。

今、聞き返してみてもひこうき雲に収録されていた、ひこうき雲だけでなく"曇り空”、”ベルベットイースター”"紙ヒコーキ""返事はいらない"ユーミン自身が一番好きという"雨の街を",そしてマスターテープならではのアコースティクギターとヴォーカルだけの"きっと言える"はとにかく秀逸だった。

2枚目のアルバム"ミスリム"が大々的にリリースされ、誰もが知る存在になったユーミンだけど、正直今日再び聴いたひこうき雲の鮮烈さはないように思う。
唯一、最後に収録されている"旅立つ秋"は、ミドリブタパックの送別のために作られた曲、かすかにひこうき雲に通じる曲だった。

※本当はもっと早くこの記事をアップしたかったのだけど、浅川マキさんの訃報に触れて少し間が空いてしまった。ある面、両極端だけどいずれも私の一部になっている音楽ではある。

浅川マキさんを送る歌のようにも思える"旅立つ秋"。

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