見えるものと見せたいものとの間 テレビとは・・
百聞は一見にしかず。
誰もが知っている諺であるが、日本人の多くが錯覚している諺でもある。
実は今、ラジオの新しい可能性に関して拙文を書き始めていて、テレビとの比較をしているのだけれど、よくラジオからテレビへ情報取得手段が移っていく時の当然の理由として語られたことにより多くの日本人に刷り込みされた結果だと思う。
ここでいう百聞とは”噂"のことであり、そう通信手段のない時代においてその場に立ち会えない事象についてはその場にいた、あるいはその周辺からの伝聞のことを指しており、そんな伝聞を百回聞くより現場に行って自分の目で確かめることの方が重要だということである。
言い換えれば恣意的あるいは意図的な要素の入る人の話より自分自身で確認しろということで、決して聴覚が視覚に劣るというものではない。
その意味で、メディアとしての価値がラジオよりテレビが勝るということは決してない。というより、テレビの方が伝えられる情報が多い分、恣意的な要素も増大する訳で、前述の錯覚と相まって日本人が自ら考える能力を退化させてしまったのではないかと思う。
それは、あたかもテレビに映し出されたものがすべて真実かのように思ってしまうことで、それを見ることで思考回路が停止してしまっているかのようだ。実はそれはビジネス的には極めて有効なもので、正にCMはこうした錯覚の土壌の上に成り立っている。化粧品などのCMに欧米系のモデルなりタレントなりを起用するのもその効能を視覚的に誇張することで購買意欲を高めようとするものだ。まあ、CMについては錯覚させるのも企業努力の一環でもあるが、メディアなり、権力者がそれを悪用することも可能なわけで、視覚情報があたかも聴覚情報に勝っているような錯覚がこの国に蔓延しているように思えてならない。何より、メディア側というかメディアを牛耳る権力者が意図的にこの錯覚を利用しているとしたら・・
政権交代でのトピックスのひとつである、政府関連の記者会見のオープン化。これこそその象徴のようなもので、これだけのビックニュースなのにメディアがまともに伝えようとすらしない。何故ならこの悪弊の元凶こそが記者クラブ制度にあぐらをかいてきた既存メディアなわけで、泥棒が泥棒の解説をするようなものなのか、つたえ方がわからないというのが真相なのかも知れない。
元毎日新聞の西山記者の事件を持ち出すまでもなく、日米間の密約など、本来であればとっくに昔にメディアが明らかにできたはずなのに、密約を密約として闇に葬ってきたのはメディア自身だということを忘れてはならない。
さて、それを踏まえてのメディアだけど、これは若干私見がはいることをご了解頂いた上で言えば、テレビの報道についてはどう見せるか、どうセンセーショナルに伝えるかを腐心するあまり、根本的な真実をどう伝えるかの部分が大きく欠けてしまっているように思う。久米さんがニュースをショーとして見せることに成功して以来(少なくとも久米さんのそれは、真実を判りやすく伝えるための術としてのショー化であったと思うが)、そのベクトルが大きく狂ってしまっていると思う。例えば小沢が仮に福山ばりの容姿を持っていたら、伝わり方が違うようでは困るのである。小泉のように中身がなくてもワンフレーズで言い切りパターンで、それを解説なり、流されないように伝えるべきメディアが、それに迎合してさらに煽動をするようでは、メディアなりジャーナリストとしての自覚がなさすぎると思う。結果論でしか伝えられないのであればメディアの価値がない。
逆説的にラジオのそれは、絵のないことをデメリットとせず、それ故に時間をかけて、言葉を尽くして伝えようとする姿勢はテレビより遥かに評価できると思う。そして聴取者側もキャスターの容姿などに惑わされることなく、伝えられる言葉だけでなく、その背景にあるものに対してイマジネーションを働かせているように考えるし、不足と感じれば主体的に自ら情報を求めていくことができる。テレビのあまりにも受動的なものとは異なる市民が多くいるように感じるのは私だけではあるまい。
もう一度、我々市民として伝えられていること、見ている(実は見せられている)ものが何が真実で何が意図的なものなのかを、思考回路を明晰にして判断しなくてはならないと思う。
少なくともテレビやメディアを通して伝えられるものがすべてではないということを自覚することからはじめなくてはと思った。
そんなことを考えている中、先週の週末、フジテレビ系で放映された小学生を対象とした縄跳び大会。この中で思わず口あんぐりの映像を目にしてしまった。内容自体は大人数の二人三脚などと同様、県別なりエリア別なりの対抗戦や情緒的な友情物語を伝えるもので、ここでそれの功罪を語るのではないが、驚愕したのは、そんな競技を応援する父兄等をとらえた映像だった。無論、生放送ではなく編集されたものだけど、当然のように我が子の勇姿をビデオ撮影しているのだけれど、そのカメラの多くにボカシが入っている!? それはNHK的にメーカーを特定しないための配慮ではなく、この番組の単独スポンサーであるパナソニック以外のカメラにボカシを入れていたのだ。
これがフィクションとして放映されているのならまだしも、この番組の主役はカメラではなく競技する児童である。その映像の周囲にあるボカシの数々で一体何をしたいのか?仮にスポンサーサイドからの要望であったのなら、何と了見の狭いことか、あるいは単独スポンサーに気を使った局側の配慮なら、こうした番組の制作者としての自覚が余に乏しいと思う。果たしてそれを見た視聴者に何を伝えたいのだろうか?
まさにこの局(フジテレビ)の見識を疑うし、あるいはさすがジャーナリストとよべないサンケイグループかと思ってしまった。
このレベルの情報操作に汲々とする姿勢にこの国のメディアの限界を見た気がした。
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