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2010-08-16

見えるものと見せたいもの 見せたくないもの。

さて、昨年あれほどあった四角さんのコンレポが急になくなったことを、
不思議に思われていた方も多いと思います。
そのことをどうお知らせすればいいのか、随分悩んでははいたのですが、北山教授の最後の授業を見て、なんとかご報告できたのかなあって考えています。

と言う事で、でも見えるものって本当にはかないものだとつくづく思います。
北山教授は心のリフレクター、写真を撮る際のレフ板にたとえて説明されていたのですが、まさに見えているものって、可視光線を反射するその光を見ているだけで、決してそのものではないということを考えていました。
別の例で言えば、夏の夜空の輝く星空を見て、奇麗な星というのも実は正しくない。およそ見えている星の大半は何光年も離れていて、見ているのはずっと過去に発した(この場合は恒星なので自ら光っているわけで・・)もので、決して今の姿でもないわけで、"綺麗だった"の方が近いけど、光り続けている星もあるわけで、それはある面、昔の写真を眺めているのに等しいということになります。つまり、見ているつもりでも見ていることにはならない。

心との関係でいえば、表面的な発光現象あるいは燃えることによるフレアはあくまで表面的なもので、視覚的に全く同じに見えても、それがどのような構造のもとに光を発しているのかを見ているわけではない・・ということになります。

更に言えば、今の天体物理学の常識で言えば、時間軸まで含めた4次元世界が当たり前と思っているのは大きな誤りで、この世界の常識では多分10次元まであるはずだというのが定説になっています。
つまり、見ていると思っているのはせいぜい2次元、3次元の世界で、星の例でかろうじて時間軸の4次元に触れてはいるけれど、実は何も見ていないのに等しい世界だということです。
これ,決して宗教的なものでなく,極めて科学的なことなので,念のため。
詳しくは?Imaging the Tenth Dimension を。でも私は4次元までしかついていけませんが・・

だから、見えないものに意を払わなくてはならないと思います。
見えないものを理解しようとすることで思考が働くと思います。
見えるものは多分、あくまで経験値、思考なく理解できる範囲ということで、結局ノスタルジーの世界に帰結するように思います。
実はこの方がお互い気が楽なのですが、そこには何もうみださない、退化する次元があるだけで、やがては2次元的な写真を眺めて涙するだけになるかも知れません。そんなことは棺桶に入ってからでもできる・・って私はやはり、おかしな存在なのかしら。

酷暑の夏、近所で見つけた自然の姿。あなたは、それでも見えるものだけでいいですか?
それでは,見せたくないものは永遠に見つからないと思いますが・・・
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