2012年、年のはじめに。
最近すっかり日記のペースが落ちている。
焦燥感というか、切なさというか、比例するかのように結局昨年のLIVEは1回きりだった。こちらについては明確な理由があるけど、遠いところで前述の焦燥感とリンクしている。
新しい年のはじめに、この焦燥感の元になっている言いようのない未来に向けての漠然とした不安感をどうしたら払拭できるのか、人の営みの根本から見直すことで微かな光明をみつけたいという想いから、自らの頭の中を整理してみたい。
実は昨年、次々とこの国、世界を襲った自然現象の多くはやはり新世紀を迎えながらもその営みの過ちに気ずこうとしない人類への最後の警告のように思えてならない。特にこの国においては、その自然の警告から人的に不幸を更に増幅させる愚を明確にさせてきたように思う。
少なくとも真っ当な感受性、人間性を持つ者達にとってこの大きな不幸は、人間としての価値観を大きく転換するきっかけになっている。2012年以降、この警告により価値観を転換させたものとこれまでの価値観にしがみつこうとする者に大別されるように思えてならない。
原子力村の住人同様に経済学者の多くは価値観を転換できない代表だと思う。原子力村の住人の科学者のみならずその利権に人生を委ねてきた者も、実は経済学者が抱かせた幻想、矛盾がその後ろ盾になっている。
つまりソ連の崩壊以後、アメリカに代表される資本主義、特に金融資本主義が唯一世界に通用する経済原則のようにされてしまったが、実は資本主義こそこの世界で最大の矛盾を抱えた思想である。資本主義の根幹は言うまでもなく拡大再生産である。確かに富の再分配を加速するためには配分する富が大きければ大きい程容易であることは確かだ。そして20世紀にその恩恵を多くの世界が享受したのは事実だけれど、最大の問題は地球という有限の上での思想であることである。言い換えれば未開地=富の分配を受けていない地域、が存在するからこそ、そしてその未開の地が新しい市場かつ資源保有であるという前提があってからこそ成立するロジックであるということである。
21世紀に入り、当然のこととして資源は有限であるという現実が大きくのしかかってくる。ここで資本主義のフロントランナー達はどうしたのか?リアルな生産物としての再生産ではなく、それが生み出す価値=金のみで再生産を維持しようとした。金(物質としてのゴールドではなく)というのはバーチャルな価値故、資源という有限さは必要でなく、金が金を生むというバーチャルな世界の中で永遠に拡大再生産=資本主義の根源が維持できる。丁度、物づくり現場の流出が続いていたアメリカの資本家達にとっては誠に都合のよい思想であった。そして価値の拡大再生産という金融工学という投機システムが主流となる中で、有限な資源さえも価値を再生産する投機と対象となっていった。
しかし、投機の対象だとしてもそれを必要とする生産物が存在してこその価値である。リアルな生産物が成立する価値を越えた価格になって時点でその価値は崩壊する。つまりバブルがはじける訳である。
更にはリアルな生産物を伴わない価値の拡大は、本来生産拡大を担当することによって得た富の再配分を受けるべき中間層=中産階級を必要としない。そうバーチャルな価値の再生産は一部の金融資本家への富の集中を加速化させる。その結果として崩壊した中間層の多くが貧困層へなだれていくことになる。これが昨年から起きている99%デモの根源である。
更にこうした金融工学に毒された生産現場の資本家も、物作り・生産の現場での富の再分配を受けるべき中産階級の存在を無視して、物作りで得たリアルな富さえも金融資本主義が生み出すバーチャルな金と同義語化していく。つまり資本家=この場合は会社と同義かも知れないが、は生産による富の再分配というテーゼを無視して自ら手にする金の最大化を計り、そうそこには中間層=労働者は生産物の市場=消費者でもあることも忘れ、労働力さえもコスト化していく。その結果、より安価なコストを求めて安価な労働力の為だけに生産現場を国外へ移転していく。つまり金融資本主義化ではあたかも正義のように思われるこうしたコストの追求は富の再分配という目的を失い、金を生むための手段化していった。
こうした傾向は資本主義が早期に定着していった所謂先進国の多くでより顕著に富の分配の極端な歪化に陥っていく。無論、日本もそのひとつだが。
ホリエモンがいみじくも言った"金で何でも手にすることができる"思想が蔓延することになる。つまり金儲けが目的で、得た金で何をするかが見えなくなっていくのである。目的と手段の転換、正にここに価値観の転換が必要になる根拠である。
実は原子力村の発想も、目的と手段を取り違えた結果と言える。
電力確保を目的化し、そもそもその結果と言える豊かさを得る市民の姿がイメージできていない。多少のリスクはそれによって得られる一部の金=利権のための犠牲になってもかまわないということではなかったか?
そのくせそのリスクを認識するからこそ、自らは決してそのリスクを負わぬように過疎地への立地を促進する。真に安全であるのなら送電コストを低減できるように工業地帯に隣接した原発にするだろうに、そのくせ建設にあたってはこうしたリスクを最小限に試算してコスト低減を計っていく矛盾を正当化していく。
これがが今回の原発事件の本質だと思う。
無論、人は過ちを犯す存在だから、その結果を真摯に受け止めることで転換はできたはずなのに,事故後の対応を含め、すでに利権化した構造の中で悲劇を更に拡大していった。
本来の政治家はまさにこうした事態を受けて価値観そのものを転換できるはずなのだが、もはやこうした利権構造に取り込まれた政治屋には、悲劇を拡大する片棒しか担げなくなっていた。
仮に100歩譲って、堅牢で事故自体起こりえない原子力発電所が可能だとしても、その廃棄物であるプルトニウムについては無毒化できる処理方法について人知はその答えを持っておらず、わずか1gで1億人の致死量に当るこの廃棄物をトン単位で増やすことについて何の解決策を有していない。これを安全と言い切るセンスはもはや政治屋以下の鬼畜であると思うがいかに。
更には、すべてを少子高齢化を要因として責任放棄している年金、財政問題にしても実はそれがすべてではないことは明らかで、正には前述した金融資本主義により再分配を受けることができなくなった中間層、本来資本主義ではメジャーとなるべき中産階級が貧困化することによる税収不足~消費力の縮小が最大の要因であることは明らかで(ただ金融資本主義下の資本家=経団連に代表される利権構造企業にとってはそれを認めることは自らの矛盾が露呈することになるので決して認めることはないどろうが)、こうした構造的矛盾を放置したまま、消費税率をアップすることは(消費が縮小している中での税率アップが税収増に本当につながると思っているのかしら)負の連鎖を拡大することにしかならないことは余程の馬鹿でも判ると思うのだが。
そう、新しい年が、被災地が少しでも前を向くためにはこうした構造的矛盾を解消させる価値観の大転換が必須で、何より目的と手段を正しく認識する知恵が何より必要だと思う。
死にかけの病人に対処療法のような小手先の手段を繰り出すのではなく。価値観の転換、それはバーチャルではないリアルな経済の拡大であり、富の再配分の正常化、そう日本が豊かさを実感したのは一億総中流意識の時ではなかったのか?、雇用の確保、それに伴う消費力へ転換できるだけの利益配分を果たすことが,真の経済力がアップするのだと確信する。
そして、人としての尊厳を維持するためのコストであれば懸命なる市民は間違いなくそれを負担することを厭わないだろう。
これまで何ら選択肢を示さずみかけの低コストをあたかも正義のように突き進んできたこの国に、人が人として憲法が保証する生存権に伴うコストを算入した上での選択肢を早急に示す時代になっていると思う。
それに気ずかない、否、利権構造維持のために避けている既得権力者達の一掃が第一だと考えるが如何に。
2012年、年のはじめに考えてみた。
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