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2012-01-26

小島慶子の限界、太田光の本質。

小島慶子がラジオを降板するそうだ。
彼女自身の言い訳は、局側から40、50代男性向に放送をして欲しいと言われ、自分の考えとは合わず降板することにしたそうである。
実は、震災以降、最も身近なメディアとしてのラジオが、主に東日本で見直されている。同時にテレビが結局は大スポンサーと権力の広報機関でしかないことが明らかになったことも大きい。
そんな状況の中で、"中途半端な"毒のある小島慶子が注目を集めたのは、タレント的には運が良かったのかも知れない。
因みに"中途半端な”というのは,彼女自身が自分のことを"中途半端な”美人ということに由来する(笑)

しかし彼女の毒は、局アナであることで輝く毒であったことを理解していなかったようだ。"局アナなのに"他局の番組に乗り込んだり、自局の看板番組に毒づいたり、CMを飛ばしてまで自分の考えをぶつけたりすることに、リスナーはシンパシーを感じたのであって、そう局アナ故にいつ降板させられるかも知れないというハラハラドキドキ感が実は彼女の魅力の大半だったはずだ。
局アナとして決して恵まれていたと言えない彼女がラジオの中で輝くことに、いい意味で局アナのくせに凄いという評価を得ていたと思うのだが。

そんな彼女が局アナという鎧を脱ぎ捨てフリー宣言をして、自らをラジオパーソナリティと宣った時、何とも言えない違和感を感じたリスナーは多かったと思う。
確かに局アナというのは鎧ではあるものの、ラジオパーソナリティという立場で言えば、最も毒をはきにくい危うい存在であるのも確かである。(そうタレント以上に局側の都合だけで降板させるのはたやすいのだから)

そんな彼女がフリーになったことで最早吐き出される毒は毒ではなくなっていた。
ちょっとやっかいそうなタレント、でも数字が取れる間は利用するというのがこの世界である。(その毒の本質なんて関係ない、旬かどうかがタレントとしての判断基準である)
だから政府公報からでも声がかかる。そんな毒っぽいタレントを使うということであたかも自ら(権力側)が真摯であることをアピールできる、まさに利用されただけなのに、正に期待どおりのリアクションでそれに対応していた。
果たして、その毒のお陰でテレビからも数々の声がかかり、水着撮影まで受ける彼女にキラキラを始めた頃の想いは残っていたのだろうか?

実はこの時間帯で聴取率を争う大竹まことのゴールデンラジオとの比較で言えば、特に震災以降、キラキラは全く輝きを失っていた。(これについては以前の記事でも書いている)
その理由はいろんな要素があるのだけれど、皮肉にも大竹まことが震災以降ラジオの力に改めて気づいたのに対し、小島慶子がそのラジオに対する情熱を失いつつあったことが一番大きいと思う。
正直、最近のキラキラは小島慶子のおざなり感、惰性だけが伝わってきていた。
彼女自身、自らのパワーをラジオに傾ける意欲がないことに一番気づいていたのかも知れない。
だから,今回の降板のニュースを聞いても驚くことはなかった。
まあ、肩肘張らず局アナあがりのタレントとして、その賞味期間がある限り、頑張ってもらえばいいと思う。
それがラジオにおける彼女の限界だったのだろう。

そして太田光である。
実は彼の毒もまた小島慶子のそれに類似したものである。
ただ彼はもともと局アナという鎧は持ってはいない。
その分、数倍したたかに自らの存在感を計算し尽くしている気がする。
同じくTBSの深夜放送でタレントらしからぬ政治的な発言や文化論を語ることで異彩を放ち、テレビの世界でその存在感を確たるものにしていった。

ところが彼もまた震災以後、策に溺れるようになっていった。
小説家先生ともて囃されるのはご愛嬌としても、こと原発に関する発言については看過できないものが続いている。
彼的には、反原発一色に靡く風潮の中で、またまた異彩を放つ手段を計算しているのだろうが、曰く、これまで電気を使い続けてきた奴が、あたかもそんなことを忘れたかのように反原発を言うのは許せないと。だから自分自身としては原発の有無について判断しかねていると。確かに原発CMに出ていながら、事件があった途端にそんなことに触れようともしないタレントを揶揄したいのは理解できる。しかしそのことと原発に対する姿勢とはまったく次元の違う話である。しかも今となっては大半がでっち上げで作為的に作られた安全神話だったことが白日の下になったのだから。
彼の論理が成り立つのは、日本の電力の大半が原発で発電されたものである場合だけだろう。現に大半の原発が止まっても日本の電力は基本的に受給関係を維持しており、電気=原発でないことは明らかである。
そんな状況下で、電気を使う人間と原発を同義に扱うのは論理が破綻しているとしか言えない。
結局、彼は反原発という論理の本質を無視して、反原発に靡く風潮の中で自らの存在感だけを計算したとしか思えない。
言うまでもなく、大事なのはその本質であり、それに真摯に向き合わないのが彼の本質、これもまた限界なのだろう。


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