深夜放送
多分、初期の深夜放送世代だと思う。
無論、それは深夜放送の定義にもよるのだろうけど。
深夜が特別な時間であるようになってから、そうパックが”もうひとつの別の広場”と宣言した時代なのかも。
ネットもFAXもない時代、アナログながら現実に双方向放送を実現していた。
いまだに大本営発表のような一方的な操作された情報が真実かのように思っている世代が存在しているが、確かにあの時代、新しい世界がスタートしていたように思う。
フォークも、そしてユーミンも多分深夜放送無しでは今のポジションはなかったと思う。
大本営には乗れない、否乗らない彼らの存在と魅力の多くを同じ価値観を共有したパーソナリティ達がもうひとつ別の広場、そう大本営の連中が取るに足りないと思って無視した時間帯で発信し続けた結果だと思う。
特にミドリブタこと林美雄はパック内でユーミンだけでなくタモリ、おすぎとピーコ、石川セリ、ミスタースリムカンパニー等々を出演,紹介していたし、日活ロマンポルノの芸術性にもいち早く言及し、私のような田舎者にも都会の文化の香りを届けてくれていた。多分、今の私の成り立ちに間違いなく多くの影響を与えている。
そんな深夜放送の時代、
その中でも、1時~3時のメイン深夜よりも3時~5時、パックで言えば2部の方がよりディープな時間だった。
ミドリブタも最初はナチチャコパックの後の2部だった。この時間帯、文化放送はセイヤングが3時まで、そしてパック2部の時間帯は、今でも続く”走れ歌謡曲”、そう別の広場ではなく表の世界を裏で支える長距離トラックドライバーに向けた番組だった。パックが当初日産の単独スポンサーだったのに対し、この番組は日野自動車の1社提供。1974年にパックの第2部が終了し、ミドリブタパックも終了する。
因みにユーミンがその最終回に向けて創ったのがMISSLIMに収められた"旅立つ秋"、偶然なのかその後彼女自身がビックになっていく。
そしてそのパック2部が終了した後番組が、走れ歌謡曲に対抗するいすゞ自動車が提供する”歌うヘッドライト”だった。
この経緯だけみてもわかるように、82年のパック終了へつながるもうひとつの別の広場の崩壊への序章だったような気がする。深夜が特別な時間帯でなくなった証拠でもあった。
その後、私の中ではもうひとつの別の広場がネットの世界の一部に繋がっているように思うのだけど・・
そして、面白いことに行き過ぎた表の世界の先にあるのが、今のラジオのような気がする
何より双方向の先輩として、ネットとの親和性が最も高いメディアなのだと思うから。
※パック2部が終了する際の攻撃標的でもあったいすず自動車だけど、
ラジオやテレビで流れるこのCMソングに涙腺が刺激されるのは何故だろうか
いすゞのトラックhttp://www.isuzu.co.jp/movie/museum/song/mp3/cm_music.mp3
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