2013-08-31

46年前。変わらない永さんへ

中学生の頃だろうか?
誰かとどこかで。
46年、ラジオとは言え全国ネットで1社提供、桃屋もとにかく凄い。
永さんのスポンサーはどこも肝が座っている。龍角散もやはり凄い。

そんな番組が9月一杯で終了すると言う。
遠藤靖子さんとのコンビ、崎南海子さんの7円の唄、スポンサー同様何もかも
この国がどんどん壊れて行く中、何も変わらないまま続いてきた。
マンネリではなく、何もかわらない,変えないところに信念があるように思った。

そう7円の唄もハガキが7円の時代から変わらない。

幸いなのは時代の流れに番組が押し流されたのではなく(多分)
永さんの体調が最大の理由ということ。
土曜ワイドを続けるためだということ。

パーキンソン病、幾度の骨折、そして80を越えた肉体に
残念ながらそう多くの時間はないかも知れない。

予備校時代、藍染めの作務意姿の永さんに
もらったサインが初めてのサインだった私も来年還暦を迎えるのだから
永さんがそのままの方が不思議なのだけど

少なくとも私も、心は10代のまま、世間で言う大人にならないまま
会社生活を終えようとしている。
何もかわらないこと、賢さはないけれど、流されずに来たのは
永さんの力があったのは間違いない。

これからは毎週土曜の4時間半だけだけど
変わらない永さんを変わらずウォッチしていこう。

私自身が変わらないためにも。

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2012-10-06

希望の国

園子温監督の最新作である。
あのフクシマの悲劇をテーマにしている。
その悲劇から僅か1年半で出来上がったこの映画を時期尚早と思うのは
この現実を早く忘れたい、否できることならなかったことにしたい
政治屋や官僚、そして金が命より大事な企業屋だけだろう。
園子温監督は、大竹まことのインタビューで、
何故、今フクシマの映画を撮るのかと聞くのは日本のメディアだけだという。
欧米のメディアは、それは当然のことだからと聞く事はない。
嗚呼
この監督の代表作と言えば4時間の大作"愛のむきだし"、"愛の罪"
そして昨年の映画賞を総なめにした"冷たい熱帯魚”
いずれも実際に起きた事件を題材にしているのだが、
その意味ではこの映画を作ったことは必然といえる。
いや、彼曰く、映画人なら
何故、今、フクシマを題材に映画を撮らないのだろうと言う。
哲学のある映画人なのだろう。
冷たい熱帯魚のヒットで次回作になんでも金を出すと言っていた連中が、
題材がフクシマと聞くとどんどん去っていったそうである。
結局、台湾とイギリスのお金でようやく完成させた。
これがこの国の現実なのか?
哲学のない政治屋、否政治スピーカーたるどじょうは、
財務省とアメリカと財界のスポークスマンでしかない。
目先の利益、得に走るのも何のための政治か答を持っていないからだ。
今日の電力が大事か、国民の未来が大事なのか
そこに哲学があるから選択は生まれる。
問題なのはどんな選択をしたかではなく、
その選択の意味、結果に責任を持つ覚悟と
判断基準となる哲学があるか、どうかである。
権力を握ることが最終目的の輩達に
悲しいことに松下政経塾の落ちこぼれ集団と腹の弱いエセ右翼と
所詮、軽薄さだけが売りの第3局、みんな同じ穴の狢であることは
なんたることだろう・・・
そんな奴らしかいないのがこの国の最大の悲劇なのかも知れない。
因みにこの映画の舞台は長島県、そう広島と長崎とそしてフクシマの悲劇をテーマにしている(監督のインタビューより)
希望の国 http://www.kibounokuni.jp
これ以上の皮肉とそれでも希望を持って生きていく市民の映画である。

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2012-06-17

六の日から4日後。 六文銭は無形文化財に。

六の日から4日後の日曜日。
時の記念日の午後2時34分、彼の娘さんから息が弱くなったと泣きながらの電話が入った。
実は土曜日の午前にも、奥様から同様の電話をもらったのだが、それは痰を取る際、神経を触ってしまって発作を起こしてしまったもので駆けつけた時にはすでに収まっていて、集まった家族もそれぞれ戻っていた後だった。
緊急入院から3週間、休み明けから人工呼吸器をはずして出来なかった心臓と肺の治療に取りかかるという、ほんの少し光明が見え始めた矢先だった。

だから今度も同じなのかなあと微かな期待を持って訪れた病室は、
家族が7人が声も出さず、異様な沈黙の中、すでに呼吸器もはずされた彼が横たわっていた。
一瞬、事態が理解できなかったがすべての補機類がはずされていることで状況を把握するしかなかった。
享年74歳。私とは17歳も違うけれどかれこれ30数年来の知人というか,友人というか、ご家族まで含めた腐れ縁の恩人である。(彼自身は対外的にはいつもマイナス10歳で通していたが)
実は、この場で家族以外は私だけなのだが、この一族の居候のように過ごしてきたので何の違和感もなくその場に立ち尽くしていた。

もはや意味もなく,痛みを押さえるために鎮痛剤によって意志を明確に伝えることさえできなくなってもはずすことがなかった腕時計が、入院直前まで仕事にクルマで走り回って彼らしさの象徴でもあるのだが・・。時の記念日に人生を終えるなんて出来過ぎだけど。

六の日、前半だけでどうしてもその日の内に戻っていたかったのは、
翌日から別の出張があり、ひょっとして何かあった時には駆けつけなければと言う想いがあったからなのだけど。

彼は出張の間だけは頑張ってくれたのかも知れない。
しかし、土曜日、せっかくリハーサルをしたのにあまりの急変に立ち会えたのは付き添っていた奥様と長女だけで娘夫婦、孫達は間に合わなかった。
せっかちすぎるよ。早とちりなんだから。いつもの口癖が思わず出てしまった。

しかし、マグロのような彼は動けなくなったら死んじゃうよね。仕事しながら死ねたら本望だからと家族も含めて思っていたから,らしいと言えばらしい。
ただ同時に人並み以上の恐がりで,寂しがり屋でもあるのでせめてみんなが集まるまで待ってくれてもいいのにと少しだけ口惜しさがこみ上げる。
いつもは1日でも早く退院したいと思っていたのが、もはや退院はままならぬと理解した時点で、生き続けるのが嫌になってしまったのか?
鎮痛剤を打つ前に家族ひとりひとりに抱きついたのが彼にとってはお別れのセレモニーだったのかも知れない。

さて、すっかり遅くなってしまったけれど、六の日、前半のレポート。
渋谷の七面鳥という名のライブハウス。久しぶりの都内での六の日だ。
皆さんにはある面、申し訳ないが、六文銭09'のステージは最早伝統芸能の域に入ってきたと思う。その分、それを体感するには、オーディエンス側にもそれなりの覚悟が必要な気がする。つまり、団塊の世代をビジネスの核とする所謂フォークソングブームとは一線を画すし、今の六文銭を懐かしさ、ノスタルジィで捉えることはできないと考える。
強いて言えば、歌舞伎やシェースクピア劇と同じで、今の時代のひとつと断面として存在しているから聞く事ができるのだと思う。
確かに出発の歌は、あまたある他の懐かしフォークと同じなのかも知れないが,同時に出発の歌が六文銭09を代表する曲かと言えば、それもまた決してそうではないのは明らかだ。
そしてこの日、渋谷に集ったオーディエンスの期待も違うものである。

この日のテーマは別役特集。
ただスタートは、個人的には六文銭を代表する曲だと思う、キングサーモンのいる島と夏、二人でだった。曲や詞は言うまでもないがアコースティックだけで表現される演奏、ハーモニーは誰にも真似のできないものだ。まさの芸、至芸だと思う。

そしてスパイ物語以前にこへさんが座付音楽家として創ったネコのうたや海賊のうたなどの劇中歌にはじまり、雨が空から降ればを含んだスパイ物語内でうたわれる楽団六文銭としての歌のメロディが続いていった。

小室さんによる常田さんの台詞廻しを含めて、別役劇が音楽だけで繰り広げられていった。
これをフォークソングなどと呼んでは失礼すぎるだろう。
まさに六文銭音楽と呼ぶにふさわしい世界だ。

できることなら、この至極のハーモニー、そして世界観を
もっと、もっと多く体験できるようになれば・・・

とにかくそれは無形文化財と呼んでもおかしくない、類い稀な存在なのだから。

個々の活動が充実するのはそれはそれですばらしいことだけど、
できることなら六文銭としてしか表現できない世界観を知る、体感できる機会がもっと増えることを願いながら、個人的な六の日を胸に刻んだ。

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2012-03-11

3.11 変わったもの。変わらないもの。

3.11 朝から震災1周年関連の番組が続いている。
しかし,問題なのは明日からの姿勢。
結局、幕引きのためのセレモニーに見えてしまうのは、私だけか?
実は1年経っても被災地の悲しみや苦しみは何も変わっていないのだから。

震災とは表裏一体ながら、別軸で考えなくてはならない原発問題。
やたらと震災とセットで同列に片付けようとする風潮が気になる。
相変わらず、爆笑の太田はその路線を変えようとしない。
まあ、こいつの限界だけどスポンサー獲得には実に有効なスタンスだろうな。
津波の悲劇と原発の問題は、まさに次元の違う問題であるということを、
こいつに認識させないと、ますます暴走が続く。

原発は震災によって起きた事故ではなく、
震災によって、その問題、危険性、矛盾があぶり出されたと認識しなくては
この問題の解決にはならない。
コストの比較で、電気料金の値上げの口実にする国賊達が何と多いことよ。
それを言うなら、口封じのための寄付金や今後40~50年の廃炉費用、及び今回の補償費用すべてを入れて比較しろといいたい。
とにかく、東電や政治屋などすべて震災のせいにして逃げ切ろうという輩が多すぎるのは最早,人としての資質が欠けているとしか言えない。
こいつらも何も変わらない連中である。

ようやく原子力村の呪縛から,人として目覚めた班目が、原発の再稼働のハードルを上げる発言をした途端、あろうことか再稼働の必要性を急に言い出した枝野。
こいつはカメレオンよろしく、今回明らかになった事故直後の対応で,国民に噓を言い続けた張本人であることを忘れたか?
自国民には噓の安全を吹聴しながら、アメリカにはスピーディ情報を開示していたのが明らかになっている(騙された一人として、当時過度の危険性を歌うのは危険と言ってしまった反省も含めて、奴は絶対に許すことはできない)
当時、東京からアメリカ人やフランス人が消えたのは、自国民の安全を最優先する各国政府の当たり前の対応だったことが今では明らかになっている。
そんなこんなの議事録だから、なかったことにした方がいいのだろう。

そんな奴があろうことか原発再稼働を主幹する経産大臣だと思うと、自分で言った僅かな反省さえもすぐ忘れるどじょう首相らしい選択だ。
政治屋と政治家の違いは、その姿勢に哲学があるかどうかで、何事も損得判断でしか決められない松下政経塾出身者の政治屋は誰も信用できない。
しかもそんな奴らを支えるのが自己弁護しか才能を発揮しない枝野や仙石の悪徳弁護士あがりばかりだとすれば、一番変わらなくてはならないのに,変わらないのは政治屋どもと言える。

そして、こんな政治屋と御用メディアが育てたバカ市民達にも呆れる。
被災地で出た震災ゴミの処分を放射能を理由に反対し続ける奴らがいることが信じられない。
仮に放射能汚染物質の処理をと言うのならわかるけれど、岩手や宮城の震災がれきをそれと同等の理由で、処分を拒否するのは、まるでこの国の古くから根付く差別思想の典型のように思えて気色悪い。

1万歩ゆずって、その震災ゴミが危険だとしたら、そのゴミを処分できない被災地は危険なままでいいのか?そんな輩に限って、福島県出身だというだけで、危険視したり、イジメに加担したりする昔からこの国にはびこる差別思想が染み付いた連中だと思う。
山本太郎もこうした時こそ、原発と震災ゴミとの問題を明確に区分した発言をすべきだと思う、こうしたバカな奴らにはそれが一番きくのだから。

こうしてみると、悪い奴らこそ変りたくないのかも知れない。

視点を変えて、津波に耐えた1本松が話題になったけれど、
江戸時代から景観優先で防風林なり防砂林を松に変えてしまったこの国の歴史が
実は極めてもろい海岸線にしてしまったのは、あまり知られていない事実だ。
今回の震災でも、根を地中深く張らない松並木があっけなく津波にさらわれていた。
こうした津波にも地中深く根をはって堤防を補強することができるたぶの木は、日本古来の常緑樹で所謂鎮守の森には欠かせない高木だった。元々日本中の海岸線にあったタブの木を松並木に変えていったのも、やはり人間である。

植物学者の宮脇昭さんによれば、震災ゴミを海岸線に置いてこのタブの木を植林すれば10年ほどで、緑の生い茂る緑の大堤防が出来上がるとおっしゃっている。このゴミは何が混じっていてもいいそうで、まさに災い転じて福となるすばらしい発想なのだけど、この震災で一儲けを企むコンクリートが大好きな土建屋連中にとっては金儲けにならないのも事実である。
※この試みは一部だけで採用されているそうだけど。
震災ゴミの搬入を反対する理由が、こうした理由なら少しは支持するけどね。

しかし、こうしてみると変われないのは人間の性なのだろうか。

震災1周年。
1日でも早く、悲しみや辛さが少なくなりますように。

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2012-01-02

2012年、年のはじめに。

最近すっかり日記のペースが落ちている。
焦燥感というか、切なさというか、比例するかのように結局昨年のLIVEは1回きりだった。こちらについては明確な理由があるけど、遠いところで前述の焦燥感とリンクしている。
新しい年のはじめに、この焦燥感の元になっている言いようのない未来に向けての漠然とした不安感をどうしたら払拭できるのか、人の営みの根本から見直すことで微かな光明をみつけたいという想いから、自らの頭の中を整理してみたい。

実は昨年、次々とこの国、世界を襲った自然現象の多くはやはり新世紀を迎えながらもその営みの過ちに気ずこうとしない人類への最後の警告のように思えてならない。特にこの国においては、その自然の警告から人的に不幸を更に増幅させる愚を明確にさせてきたように思う。

少なくとも真っ当な感受性、人間性を持つ者達にとってこの大きな不幸は、人間としての価値観を大きく転換するきっかけになっている。2012年以降、この警告により価値観を転換させたものとこれまでの価値観にしがみつこうとする者に大別されるように思えてならない。

原子力村の住人同様に経済学者の多くは価値観を転換できない代表だと思う。原子力村の住人の科学者のみならずその利権に人生を委ねてきた者も、実は経済学者が抱かせた幻想、矛盾がその後ろ盾になっている。
つまりソ連の崩壊以後、アメリカに代表される資本主義、特に金融資本主義が唯一世界に通用する経済原則のようにされてしまったが、実は資本主義こそこの世界で最大の矛盾を抱えた思想である。資本主義の根幹は言うまでもなく拡大再生産である。確かに富の再分配を加速するためには配分する富が大きければ大きい程容易であることは確かだ。そして20世紀にその恩恵を多くの世界が享受したのは事実だけれど、最大の問題は地球という有限の上での思想であることである。言い換えれば未開地=富の分配を受けていない地域、が存在するからこそ、そしてその未開の地が新しい市場かつ資源保有であるという前提があってからこそ成立するロジックであるということである。

21世紀に入り、当然のこととして資源は有限であるという現実が大きくのしかかってくる。ここで資本主義のフロントランナー達はどうしたのか?リアルな生産物としての再生産ではなく、それが生み出す価値=金のみで再生産を維持しようとした。金(物質としてのゴールドではなく)というのはバーチャルな価値故、資源という有限さは必要でなく、金が金を生むというバーチャルな世界の中で永遠に拡大再生産=資本主義の根源が維持できる。丁度、物づくり現場の流出が続いていたアメリカの資本家達にとっては誠に都合のよい思想であった。そして価値の拡大再生産という金融工学という投機システムが主流となる中で、有限な資源さえも価値を再生産する投機と対象となっていった。

しかし、投機の対象だとしてもそれを必要とする生産物が存在してこその価値である。リアルな生産物が成立する価値を越えた価格になって時点でその価値は崩壊する。つまりバブルがはじける訳である。

更にはリアルな生産物を伴わない価値の拡大は、本来生産拡大を担当することによって得た富の再配分を受けるべき中間層=中産階級を必要としない。そうバーチャルな価値の再生産は一部の金融資本家への富の集中を加速化させる。その結果として崩壊した中間層の多くが貧困層へなだれていくことになる。これが昨年から起きている99%デモの根源である。

更にこうした金融工学に毒された生産現場の資本家も、物作り・生産の現場での富の再分配を受けるべき中産階級の存在を無視して、物作りで得たリアルな富さえも金融資本主義が生み出すバーチャルな金と同義語化していく。つまり資本家=この場合は会社と同義かも知れないが、は生産による富の再分配というテーゼを無視して自ら手にする金の最大化を計り、そうそこには中間層=労働者は生産物の市場=消費者でもあることも忘れ、労働力さえもコスト化していく。その結果、より安価なコストを求めて安価な労働力の為だけに生産現場を国外へ移転していく。つまり金融資本主義化ではあたかも正義のように思われるこうしたコストの追求は富の再分配という目的を失い、金を生むための手段化していった。

こうした傾向は資本主義が早期に定着していった所謂先進国の多くでより顕著に富の分配の極端な歪化に陥っていく。無論、日本もそのひとつだが。
ホリエモンがいみじくも言った"金で何でも手にすることができる"思想が蔓延することになる。つまり金儲けが目的で、得た金で何をするかが見えなくなっていくのである。目的と手段の転換、正にここに価値観の転換が必要になる根拠である。

実は原子力村の発想も、目的と手段を取り違えた結果と言える。
電力確保を目的化し、そもそもその結果と言える豊かさを得る市民の姿がイメージできていない。多少のリスクはそれによって得られる一部の金=利権のための犠牲になってもかまわないということではなかったか?
そのくせそのリスクを認識するからこそ、自らは決してそのリスクを負わぬように過疎地への立地を促進する。真に安全であるのなら送電コストを低減できるように工業地帯に隣接した原発にするだろうに、そのくせ建設にあたってはこうしたリスクを最小限に試算してコスト低減を計っていく矛盾を正当化していく。
これがが今回の原発事件の本質だと思う。

無論、人は過ちを犯す存在だから、その結果を真摯に受け止めることで転換はできたはずなのに,事故後の対応を含め、すでに利権化した構造の中で悲劇を更に拡大していった。
本来の政治家はまさにこうした事態を受けて価値観そのものを転換できるはずなのだが、もはやこうした利権構造に取り込まれた政治屋には、悲劇を拡大する片棒しか担げなくなっていた。

仮に100歩譲って、堅牢で事故自体起こりえない原子力発電所が可能だとしても、その廃棄物であるプルトニウムについては無毒化できる処理方法について人知はその答えを持っておらず、わずか1gで1億人の致死量に当るこの廃棄物をトン単位で増やすことについて何の解決策を有していない。これを安全と言い切るセンスはもはや政治屋以下の鬼畜であると思うがいかに。

更には、すべてを少子高齢化を要因として責任放棄している年金、財政問題にしても実はそれがすべてではないことは明らかで、正には前述した金融資本主義により再分配を受けることができなくなった中間層、本来資本主義ではメジャーとなるべき中産階級が貧困化することによる税収不足~消費力の縮小が最大の要因であることは明らかで(ただ金融資本主義下の資本家=経団連に代表される利権構造企業にとってはそれを認めることは自らの矛盾が露呈することになるので決して認めることはないどろうが)、こうした構造的矛盾を放置したまま、消費税率をアップすることは(消費が縮小している中での税率アップが税収増に本当につながると思っているのかしら)負の連鎖を拡大することにしかならないことは余程の馬鹿でも判ると思うのだが。

そう、新しい年が、被災地が少しでも前を向くためにはこうした構造的矛盾を解消させる価値観の大転換が必須で、何より目的と手段を正しく認識する知恵が何より必要だと思う。
死にかけの病人に対処療法のような小手先の手段を繰り出すのではなく。価値観の転換、それはバーチャルではないリアルな経済の拡大であり、富の再配分の正常化、そう日本が豊かさを実感したのは一億総中流意識の時ではなかったのか?、雇用の確保、それに伴う消費力へ転換できるだけの利益配分を果たすことが,真の経済力がアップするのだと確信する。
そして、人としての尊厳を維持するためのコストであれば懸命なる市民は間違いなくそれを負担することを厭わないだろう。
これまで何ら選択肢を示さずみかけの低コストをあたかも正義のように突き進んできたこの国に、人が人として憲法が保証する生存権に伴うコストを算入した上での選択肢を早急に示す時代になっていると思う。

それに気ずかない、否、利権構造維持のために避けている既得権力者達の一掃が第一だと考えるが如何に。

2012年、年のはじめに考えてみた。

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2011-11-03

輝きを失ったキラ☆キラへ

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何となく感じていた違和感が確信に変わった今回のスペシャルウィークだった。
ストリームから代わった直後、TBSは局アナを使って安定路線に舵をきったと揶揄される中、村沢Pと小島慶子はそんな風評をいい意味で裏切り、およそ局アナらしからぬ物言いと個性あふれるパートナーの組合せ、実はこのパートナーの選定こそがこの番組の成功の肝とも言える、有り体に言えば小島の毒を前提として日替りで中和させたり、はたまた毒をミックスしたり、重ねたりして曜日毎のメリハリをつくり、更にはサウンドパテェスリーというコーナー(今はコラコラ)ではある面カルトチックな話題までも上杉隆や町山智裕など既存メディアでは決して伝えない情報を加味することで、ラジオというメディアの特性を最大限活かしたプログラムとなった。その結果として僅か半年で時間トップの聴取率を獲得し小島慶子も一気に時代の寵児となったのも十分に納得できる。

以来、この手の番組にはめずらしく(まあ,高聴取率ということでテコ入の必要もないからだが)5人のパートナーは不変で、変更されたのはサウンドパテェスリーのコラムニスト3人が変わったのみである。この内、半年だけの岡野、1年の小林はともかく誕生以来2年勤めた上杉隆の交代についてはかなりきな臭い噂があった。記者クラブ批判の急先鋒である上杉にコーナーを与え、彼に発言の場を提供し続けたことは、彼の批判する既存メディアの一部であるTBSにとっては,ある面諸刃の刃であったのだが、ラジオという媒体、番組自体のスタンスから言えば、それがあることでプログラム全体を引き締める一部であったことは確かだし、多くの聴取者にとっても彼に発言させるTBSに、その懐の深さと相対的にそんなTBSに対する信頼感を与えていたのも事実だと思う。

案の定と言うか、明らかに上杉隆降板後から政治的話題を取り上げることは極端に少なくなった。同時にフリーに転身した小島慶子も当初のエネルギーは消え、局アナらしからぬという所で存在感のあったその毒が、フリータレントとしてのそれは毒とも言えぬつまみ程度になってしまったと言うのは言い過ぎだろうか?
彼女の勘違いなのか、まだ見せぬ戦略なのかは定かではないけれど、番組の輝きが色褪せていくのとは正反対に小島慶子の他メディアへの露出が(まあ、写真集まではどうかと思うが)加速していく。そう、小島慶子という"適当”な毒っぽさはフリータレントとしての世界では都合のいいレベルでありちょうどいい旬さがあるのだと思う。正直なところ、その姿には痛々しさを感じるのは、それは小島慶子そのものというより小島慶子という商品をどんどん消費しているようにしか見えないからか?

とにかく、最近のキラキラでは1週間を通じても政治はおろか,震災も放射能の話題にも一言も触れることなく過ぎていくのが珍しくなくなっている。無論、これみよがしにその話題を取り上げることはないのだが、何やら意図的に避けているとしか思えないのは私だけか?1週間通じてアメトークのような楽屋ネタ、他愛のない身内トークばかり聴かされても仕方ないだろう。
因みに直近のスペシャルウィーク、ライバルの文化放送”大竹まことゴールデンラジオ”はオープニングでは大竹自身の言葉でニュースをテーマに積極的に政治、震災、原発の話題を語るだけでなく、レギャラーで震災以後実施している被災各局との共同番組もずっと継続中だし、その1週間のメインコーナー(メインディッシュ)のゲストは、月曜の乙武洋匡に続き火曜はあの上杉隆、水曜は山本太郎!、芸人枠の木曜はロッチで金曜は大橋巨泉というラインナップだった。

やはり,ラジオという媒体で何をするのか?何をしたいのか、そんな当たり前の指針さえ無くしてしまったキラキラに再び輝きが戻るのか、もうしばらくは注視したい。

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2011-10-16

茶番

99%デモの続き。

アメリカ在住の映画評論家、町山さんのレポはいつも思わぬ発見がある。
プロの記者達は、一体何をやっているんだろう。
記者クラブみたいな護送船団のぬるま湯に浸かっているとまともな感覚もなくなってしまうのだろう。悲劇なのはそんな連中がまことしやかに伝える情報がいつか,事実として一人歩きを始めるこの国のメディア、それに引きずられていく民意とやらである。

そもそもこの99%デモを無視し続けるメディアは論外だけど、町山解説は実に明快である。
曰く、彼らは何に怒り、何が問題なのか?
デモの参加者の多くはサブプライムローンを発端とした景気後退による失業者である。
曰く、そのサブプライムを仕掛けたゴールドマンサックスなど金融業者は、右手で住宅バブルをあおりながら、逆の手でその破綻を想定して逆ばりをして破綻自体でも利益を上げる仕組みを作り上げた張本人であるにも関わらず、誰一人として逮捕されることもなく、いわんや財政支援を受けてますますその体制を盤石していっている。その本尊がウォール街だから,それに対しデモを行っている。
曰く、アメリカの税制は、就労に対する所得税率が30~35%なのに対し、株や投機によって得た利益には一律15%しか課税されない。つまり投資資金のない低所得者からは30%以上の税金を取りながら、金持ちのマネーゲームには15%しか課税しないことで、貧富の差、格差がどんどん拡大している。
これが1%の金持ちが40%以上の資産を保有しているという根源であること。
曰く、金持ち課税を強化すると言って大統領になったオバマは2年経過しながら、提案した課税法案を何ひとつ実現できていない(確かに議会は金持ち課税に反対する共和党が優勢だが、本気で通すことを考えるのなら大統領特権で突破できるにもかかわらずだ)ことへの絶望感があること。

この話を聞けば、このデモの本質なり。問題点がよくわかるのに、日本のメディアでこれ以上分かりやすい解説を聞いたことがない。

そして、この思想の根源が資本主義の究極の形、新自由主義で、今や世界中に蔓延している思想である。これを否定するような内容を報道するのは、彼らにとっては自己否定なのだろう。伝える姿勢が鈍るのも致し方ないというところか?

早晩、というか最早小泉改革とやらでその中にあるのがこの国の現状といえる。
福島の例を上げるまでもなく、理由はともあれ一旦不幸になると、どんなに頑張ってもそこから這い上がることはできない。わずかに引き上げるために使われるのはそれより少しだけ不幸でない敗者である市民から巻き上げる税金で、金持ちや企業家達はそれから逃れるために資産をどんどん国外に移転していく。それもこれもやったもん勝ちという自由を最重視するのが新自由主義であることに市民はそろそろ鉄槌を下す時がきていると思うが・・・

佐賀県知事、九電、政府の茶番を見ていると
実はこんな茶番劇が、この国ではこれまで気づかないままどんどん行われてきたのであろうことは容易に想像がつく。
今回は余に茶番すぎて、わかりやすかっただけで、本来は霞ヶ関がもっとまともなシナリオで展開するのだろう。奴らの居直りを見る限り、この茶番の愚かさに一番気づいていないのは彼ら自身に思えるのだから。
そして九電社長や佐賀県知事の鼻を木でくくったような会見にまともにつっこめないメディアもやはりこれまで茶番劇の広報担当にしかすぎなかったことが明らかになってしまった。何しろあの会見が成立してしまうのだから・・。
通産大臣の判断の前に、あんな会見を否定する役目こそがジャーナリストの役割ではないのか。

そして、国家による茶番が再び
無駄な金使いや記録自体のいい加減さは何も解決していないのに厚生年金の支給開始を再び遅くしようと画策しはじめた。
30年も40年も支払い続け(正確には先輩の為に資金を注入し続け)ようやくゴールが近づいた時に突然、後トラック3,4周しないとゴールじゃないと言うのだ。
これが民間の生命保険なら、とりつけ騒ぎが起きるぐらいの大事なのに、官僚の犬とかした今の民主党政権は、支給開始を遅らせるのが遅過ぎたと嘯く。
国民との正規契約である年金制度を一方的に改訂しようとすることが如何に大きな問題なのかを何もわかっちゃいない。
これじゃ納付率がどんどん下がるのは目に見えている。今68歳といいながら再び伸ばすことに何のためらいもないのだから、永遠に支給されないと思う方が道理に叶っている。
それくらいの覚悟があって言っているのか、それとも本音は公務員年金だけ税金でまかなって,厚生年金自体を解体したいのか・・・
いずれにしても信頼を失った国家がどんな末路を辿るのか、やはり共産主義国家の崩壊の次は資本主義国家の崩壊なのだろうか?

最後に 柳ジョージが亡くなった。
彼の唯一の好きな曲を 最近カラオケで歌ってないな~結構いけるんだけど

青い瞳のステラ、1962年 夏・・・

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2011-10-10

99%デモそしてジョブスの死

最近、気になる事。

アメリカで始まった99%市民革命。
何故か日本でのメディアの扱いが中途半端に感じる。
あれだけ大騒ぎしたアラブの春と同次元、否それ以上のインパクトがある動きなのに、日本の原発反対デモのようにことさら矮小化して広がらないようにしているとしか思えないのは私だけだろうか?

何しろ、自分達が起こした金融資本主義をその聖地?でもあるウォール街で否定するデモなのだから。しかもそれは動員されたものではなく、多くの市民の心に奥底にあった"シアワセ”と余に乖離したこの時代への不安=不満が初めて力になろうとするものだから。
しかし,正直なところようやくその過ちに気がついたのかとも思うけれど。

そもそも新自由主義=小泉が猿真似したものだが、とは最後のひとりになるまで勝者とその他すべての敗者を生み出すシステムであり、その過程でも格差がどんどん広がることを意味する。それを自己責任という名で葬りそろうとするのがアメリカが世界中にバラまいた思想である。
その根底には永遠に市場拡大と資源があることを前提とした資本主義の矛盾に目を向けることをことさら避けてきた現実がある。

市場があるからと世界中の自動車メーカーが中国やインドへガソリン車を売りまくろうとすることも、資本の論理でしかなく、そこには消費される資源なり、悪化する環境については1%の勝者だけが保護されればよいという選民思想が見え隠れしている。

原発の問題も、拡大再生産を思考する資本主義下での電力不安であり、足下を見据えた世界を考えれば、原発無の世界は十分に現実的である。あくまで効率論での代替エネルギー論議でその進展を阻害しているにすぎないし、何より核廃棄物の処理を後世に先送りにして(何しろ無害化までには10万年以上とも言われる)まで推進するほどの意味があるとは到底思えない。無論、1%の論理ではそれにより得る利益が大事なのだろうが・・。
一旦事故が起きれば自らの家にすら戻れない、コミュニティを崩壊させ、その上、バラバラに避難した生徒で学校自体が機能しなくなった現実を目の当たりにして、それでも原発をという発想の方がはるかに非現実的だし、それをうたう者は最早政治家どころか,人としての神経を持ち合わせていないと思うが如何に。
たかが!?10兆円の復興資金を後世にツケを残さない為とミエをはるどじょう首相には旧自民党内の派閥抗争のような低次元の国会論議(どう見ても同じ穴の狢にしか思えない)で,本当にその痛みを理解しているとは思えない。

そして金で金を増やすことが産業になってしまったアメリカで、物づくり=生産物を世界中に供給している希有な存在のアップル。世界で一番多くのコンピュータを作っているメーカーである(無論生産しているのはアメリカ国内ではないけれど)。いやいやウィンドウズだろうと思われるが、OSとしてはそうだけどハードとしてのPCは世界中のメーカーが別々に作っている。しかしアップルはマックOSを使うPCはすべて自社製であり、ましてやiphoneやiPodもPCみたいなものだとすれば、誰が何といってもアップルが世界一のPCメーカーだといえる。
そんなアップルの創始者であり、かつ精神的な支柱であったスティーブジョブスが長年の闘病生活についに負けてしまった。膵臓がんはやはり不治の病だったのか?
アップルの製品は、それぞれがジョブスそのものだったが、そのジョブス亡き後もアップルであり続けることは可能なのだろうか?

99%市民革命とアップル=ジョブスの死は
効率的であることがすべてに優先するこの世界において蔑ろにされてきたもの、あるいは手段が目的よりも優先されてしまっているこの時代が忘れてしまっていたものを考え直すきっかけにしなくてはならないと思う。

PCは人間らしく生活するための道具であり,手段であるべきだと作られているのがマックなら、ウィンドウズPCは如何に仕事を効率的に行うかしか考えられていない。PCに合わせて使う人間が慣れることを強制するウィンドウズPCには1%の利益のために単なる駒として働かされているようにしか思えない。

市民革命的としての99%デモそしてジョブスの死が
そんなきっかけになれば、まだまだこの世界にも未来があるのかも知れないが。

<99%の意味について 10/7付西日本新聞より>
ウォール街デモ 市場主義の暴走への抗議

 ニューヨークのウォール街と言えば、米国の銀行や証券会社などが立ち並ぶ世界経済の中心地である。そこで9月中旬、若者らが「ウォール街を占拠せよ」というスローガンを掲げるデモと集会が始まり、現在も勢いを増す一方だ。

 デモ参加者が訴えるのは、米国で広がる貧富の格差と高い失業率への不満だ。金融機関を「富の不当な集中の象徴」と位置付け、抗議の的にしている。

 参加者は近くの公園を拠点として、金融街に向けて行進したり、ゾンビに扮装(ふんそう)して金融機関の強欲さを表現するなど、多彩な抗議活動を繰り広げている。

 米国はリーマン・ショック後の不況から脱することができず、失業率が高止まりするなかで、貧困人口が増大して全米で約4600万人に達する。レーガン政権以降に進んだ各種の公的負担削減で、中・低所得者層に教育費や医療費の負担が重くのしかかり、就職難が追い打ちをかける。世界一の経済大国でありながら「貧困大国」に陥っているのだ。

 米国のノーベル賞経済学者のジョセフ・スティグリッツ氏は今春発表した論文で「米国人の1%が国全体の所得の20%を受け取り、富の40%を保有している」と指摘し、米国の現状を「1%の1%による1%のための政治」と表現した。

 こうした主張を受け、学費ローンの返済にあえぐ若者、苦しい生活を送る失業者らデモ参加者は「1%の金持ち。99%の貧乏」「われわれは99%だ」などのプラカードを掲げ、怒りをあらわにする。

 抗議の相手は無論、金融機関だけではない。その矛先は、行きすぎた市場原理主義や、弱者を切り捨てる資本主義の暴走に向けられているといっていい。

 デモを最初に呼び掛けたのは、環境など社会問題を主に扱う雑誌の編集長だ。中東でツイッターやフェイスブックによって集まった民衆が社会を変革した「アラブの春」に触発されたという。

 独裁国家で起きた民主化運動が、民主主義の最先進国である米国に飛び火するとは皮肉な現象だ。米国の若者がデモに集まる背景には、オバマ政権も含めた既存の政治勢力への不信もありそうだ。

 このデモは全米の各都市に広がりつつある。統一の目標がないままの拡大に危うさも感じるが、英国で発生した暴動のような無秩序な暴力に走らず、政府や政党との建設的な対話で、状況を改善させる方向に進むことを望みたい。

 日本でも小泉政権時代、米国流の新自由主義に基づいた各種の規制緩和を進めた経緯がある。その後、日本の相対的貧困率は2009年に16%に達し、1985年以降で最悪の水準となった。若者の失業率が悪化し、非正規労働などの苦境に置かれている点も似ている。

 米国の若者らの異議申し立ては、日本にとっても人ごとではない。セーフティーネットの充実はもちろん、格差を解消し矛盾を是正するには何が必要か。社会が真剣に考えるべき重たい課題である。
=2011/10/07付 西日本新聞朝刊

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2011-07-21

リンゴ追分 原田芳雄さんが亡くなるなんて。

◆私の原田さんへの導火線でもある林美雄さん(ミドリブタ)の偲ぶ会で芳雄さんが弾き語りでリンゴ追分を歌ってみえる。林さんの誕生日8月25日をサマークリスマスとして遊んでいた。因みに最初のサマークリスマスは今日のような台風がやってきてそれでも集まった人達が最後はTBSホールで、同じく林さんのパックで弾き語りをしていた無名時代のユーミンが、せっかくだからと演奏したのが逸話になっています。因みにこの録音のMCは小島一慶さんです。
◆原田芳雄さんのリンゴ追分
そうか!?林さんも芳雄さんを呼んじゃったんだ・・・
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確かに『大鹿村騒動記』のプレミア試写会の時の姿は尋常ではなかった。
でも、以前患った大腸がんではなく,肺炎という説明であったのでそれを信じていたのだけど、やはり第六感の方が正解だったようで、行結腸がんから併発した肺炎とのことだった享年71歳。余に若すぎる。

結局、原田さんの最後の勇姿は芸術祭ドラマの"火の魚”の偏屈な老作家役だった。鈴木清順監督のツゴイネルワイゼンや敏八さんの”八月の濡れた砂”(こちらは石川セリの同名の曲があまりに有名)そして"赤い鳥逃げた”(こちらは伝説のシンガー、安田南が主題歌を歌っていた。因みに主演は桃井かおり、大門政明)所謂日活系の映画は随分見たけど、一番記憶にあるのは黒木和男監督の"龍馬暗殺"、中川梨絵さんの怪演とモノクロの味わいが何とも言えないものだった。
http://takumi21.cocolog-nifty.com/blog/tv/index.html


それらはすべてミドリブタこと林美雄さんに感化されたことが大きいが、とにかくまず声にやられてしまう役者さんだった。同時にとにかく歌が上手い。彼のリンゴ追分は絶品で、美空ひばりのそれをしのぐというのは言い過ぎにならないくらい味わい深い。
※あの松田優作のあこがれが原田さんだった。実はあの優作風といわれる台詞回しも原田さんの模倣からはじまったのは有名な話。ついにはあこがれが講じて原田さんの近くに引越し、恒例の餅つき大会も自分のところで始めて、原田さん宅へ集う人達を横取りしたというのも知る人ぞ知る事実だった。

林さんはじめ、松田優作あたりが早くおいでよってよんでしまったのかな。

とにかく残念でならない。
最後の映画が盟友の阪本順治監督作品、これも盟友の石橋蓮司さんが最後のコメントを代読したのも芳雄さんにとってはよかったのかも。とにかくあちらでも無理しないでください。合掌。

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2011-07-15

総理の脱原発宣言。

どこまで信念があるのかが一番の問題だが、
菅直人がお得意のアドバルーン"脱原発宣言"をぶち上げた。
同じ日、孫社長は35道府県と自然エネルギー協議会結成した。
このニュースの取り扱い方でメディアの噓が透けてみえる。

まあ,一番無難なのは政局と結びつけての菅直人批判。
同じく実効力を第三者的に批判するもの、さすが読売、あまりにらしい。
しかし、こうしたメディア以前に枝野の会見には口あんぐり以上にこいつは所詮、
悪徳弁護士くずれかと思ってしまう。

何が”総理の個人的な未来の希望"だ。記者会見は個人会見じゃなくて
"総理会見"である。時期とか行程について発言するのならともかく、会見の骨子まで否定するのなら即刻官房長官を辞めるべきだろう。少なくとも発言者が資質はともかく総理の発言としての重みは、国家として大切にできないのなら、もはやその体をなしていない。

正直、菅直人はどうでもいいが、少なくとも日本の最高権力者が
脱原発宣言したことをもっと真摯に伝えることはできないのか?

少なくとも次の総理はこの宣言に対しどう考えるかを明確にしなくてはならない。

菅直人が原発解散はしないと言ったのも
電気労連たよりの民主党主流も原発村の自民党も原発を止める気など
さらさらないので争点にならないからだ。

いっそのこと河野太郎をつれて新党でも結成した方がいいかも知れない。

昨夜の報道ステーション。
次期東電社長が余った電力を関西に融通したいとしゃーしゃーと言っていた。
実は電力危機でもなんでもなく、ただただ原発必要だとプロパガンダを
繰り返す御用メディアの噓にもう気づいてもいいと思うのに。

更には今でも使用されていない原発以外の埋蔵電力が原発14、5器分眠っていることを忘れてはならない。

今なら大転換ができるのに。それが菅直人頼みというのが一番の悲劇なのかも知れない。

※15日の文化放送で佐藤優が”脱原発”は帝国主義の発想だと批判していた。その前に今の日本の状況がヒトラー以前のドイツの状況に酷似していると発言しているが,そのこと自体には異論はなく衆愚政治の行き尽く先はアジテーターの独裁や軍国主義であることの懸念は同じだが、ドイツやイタリアの例を引き合いに自国から原発を周辺弱小国に移管して収益のみを独占しようとする帝国主義と同等だというのには大きな視点が欠落しているように思える。その発想の前提は、まさに資本主義的な拡大再生産を必然とするもので、その資本主義自体の行き詰まり感(もはや資本主義が成立しているのは中国やインドなどだけだろう)を理解していない。また帝国主義の資本の定義はもはや国境を越えた存在であり、国体国の発想の中で判断する時代ではないことを忘れてはならないが。賢明な佐藤氏のこと、何らかの思惑の中であえての発言かも知れないが・・・。

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