2009-05-03

死と進化 3000億個の死と60兆個の細胞でできたヒト

うまく書かないと自殺を肯定するみたいなので要注意。
前にも書いたけど自殺なんて最低の行為だと今でも思っている。

よく判らないタイトルによく判らない書き出しになってしまった。
偶然、というかタイトルに惹かれて録画をした科学番組が意外にも面白かったのだ。
番組はBSのサイエンスZERO、そして惹かれたタイトルは"死と向かい合う心"
科学番組でこのタイトルは・・って思ってセットしておいて、
今日みたら、これがなかなかである。
以前読んだ"生物と無生物のあいだ"に繋がるテーマである。
タイトルにある3000億個とは、実は1日あたりに死んでいく人間の細胞の数である。そして60兆個とは、人間の体を成り立たせている細胞の総数ということである。
単純計算で60兆÷3000億=200日で体中の細胞が入れ替わるということになる。因みに3000億個の細胞というのはちょうど200g程度のステーキに相当するとのことだ。

実は先に述べた福岡伸一先生の"生物と無生物のあいだ"に、この200日で入れ替わる体中の細胞について説明した表記がある。
それは見慣れた海岸の砂浜、それはいつも同じ形をしているように思えるけれど、実はそれを構成している砂粒はどんどん入れ替わっているということだ。つまり、海岸線を人間の体とすれば、砂粒はそれを形成する細胞ということになる。変わらずに見える海岸線も実はそれを構成する砂は知らない間に入れ替わっているということ、人間の体も同じということだけど・・・。

しかし、これが今日のテーマではない。
本当のテーマは"死"。しかも"それを思う心"である。細胞が入れ替わると書いたけど、つまり細胞が死んで入れ変わっていることになる。細胞が死ぬ理由はいろいろあるけど、活性酸素、放射能やウイルス、紫外線など様々だけど、表現が適切でないけどこれを細胞を殺されると定義すると、自然に入れ替わる細胞が同じように殺される訳ではない。それでも海岸の押し寄せる波、そして運ばれ連れ去られる砂粒は毎日決まったように入れ替わっている。つまり、予定外に殺される細胞とは別に決まった量=3000億個が死んでいっている(但し、形が変わらないということは同じく3000億個以上の細胞が毎日生まれていることになるのだが)。そしてこの計画的に死んでいく細胞、番組ではプログラムされた死として表現されている、のことが本当のテーマとなる。

まだ、心の領域にはほど遠い。
細胞の死に殺されるものって言うけど、その場合の死は壊死と言って正に細胞が破壊される死となり、これが大きければそれで出来ている生物そのものも死ぬことになる。しかし、プログラムされた死はイコール生物の死を意味しない。勿論生物には寿命があり、その寿命の意味はプログラムされた細胞の死に見合うだけの細胞分裂による補完ができなくなることを意味するのだろう。

人間に代表される生物は、この死に対する恐れからその進化の過程の中で不老不死こそ究極の目的のように考えてきたけれど、実は50億年前に最初に生まれた原生生物は元々不老不死であるということだと言うのだ。つまり、進化の原点となるものが不老不死で現状の究極の進化である人間が不老不死でないのはどういう意味なのか?ますます謎が深まってくる。

それを解き明かす鍵は実はプログラムされた死の中に隠されている。
このプログラムされた死のことはギリシャ語で木の葉が散るという意味のアポトーシスと呼ばれる。その具体的な内容というのも興味深くて、少し難解だけど以下のとおりとなる。
●外的に傷を負ったり、一定の期間が過ぎた細胞に対し免疫細胞から、そろそろ死んだらというサインが出る
●細胞はその信号を受け自己点検を経て自ら死を選択する
 ※細胞は23対ある染色体の3番目に死の染色体をもともと持っているのだそうだ。
●死を選択すると死の染色体から2種類の酵素が出て、ひとつは細胞骨格を切断し、もうひとつは細胞核に入ってDNAを細かく切断する
●切断されたDNAはアポトーシス小体という袋の中にひとつひとつ閉じ込められていく
●それを免疫細胞のひとつであるマクロファージが食べて消化し、便や垢として体外に排出されていく
という見事にプログラムされた死ということである。ねえ凄いでしょう!
もっと凄いのはなぜアポトーシス小体に包んで行くかと言えば、DNAって実はとても危険なもので、裸のままでいると自己免疫不全症などの重篤な疾患を興す可能性があるから包まれていくのだそうだ。これは実際に顕微鏡でも観察できるそうで、正に死んで行く細胞は自己破壊を進む中でまるでブドウの房のような形になっていくのが判る。

でも、仕組みはわかっても何故これが行われるかの理由は希薄である。
参考までに先ほど200日で体内の細胞が入れ替わるって書いたけど細胞によってその寿命は異なる。例えば皮膚は28日、赤血球は3ヶ月、肝細胞は約1年で入れ替わるそうで、更に神経細胞や心筋細胞は何十年も変わらないそうだ。まあ重要な細胞はさすがにコロコロとは変わらない。皮膚については傷が自然の直ったり、爪が伸びる様を見ればなんとなく実感できる。

さて、いよいよ本質に近づこう。ポイントは以下のふたつ。
1)原生生物は不老不死だった
2)細胞はプログラムされた死によって自動的に入れ替わる

では不老不死だった生物になぜ寿命が生まれたのか?
哲学的に言えば、生物は進化することと引き換えに永遠の命を差し出したということになる。つまり原生生物の代表である原始大腸菌はこの50億年基本的には進化していない。逆に進化の過程でのターニングポイントは約15億年前から始まった有性生殖、そう雌雄による染色体の交配が始まったことである。
異なる遺伝子の組み合わせによって生物は進化する。と同時に寿命が始まった。つまり、異なる遺伝子の組み合わせは進化と同時に劣性あるいは危険な遺伝子の組み合わせも誕生させることになる。そんな危険な遺伝子の組み合わせを存続させておくことは生物の未来をも消滅させてしまうことになってしまう。そこで、進化を受け入れるかわりに悪い遺伝子を消去するために寿命という形の死を選択した。

そう、生きるための死、一人の人間としての死により人類の生、未来を選択したと言えるのだろうか?無論、これにより個人の死が重要でないということは決してない。ただ、生物学的なこうした事実、真実を理解した上での死生感を今一度考えてみようというのが今回のテーマだった。
つまり、死が終末である前提での死生観ではなく、死によって繋がる生があるという死生観、そこから新しいものが生まれるという死生観を考える、それが死と向かい合う心ということでようやく話が繋がった。

最後にこのプログラムのプレゼンターであった田沼靖一(東京理科大学薬学部教授)さんの言葉をご紹介しよう。

ヒトとは何か?
それは心を引き継ぐ存在である

だからこそ、個々の人間にとっては心、形にできないものが大事なのかなあと
科学番組で感じた哲学、心の問題だった。

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2009-04-18

祈る人に  幸あれ・・

いつもと同じ朝、何気なく通り過ぎる田舎の抜け道に彼はいた。
彼を見た瞬間、時がゆったりとスローモーションのように流れていく。
その後の彼の姿がタイムスリップのように脳裏に浮かんで、
と同時に視線の先に現実の姿として、交互に繰り返していくように感じていた。
目の前のふたつのシーンがまるでどちらが先かを競うように・・・

ハンドルを握る視線の先、
銀行の脇にあるポストに重なるように彼は立っていた。
そしてポストに対峙したまま後に下がったかと思うと
深く深くこうべを垂れた。
続け様に両手をあわせ再び頭を下げる彼、
私は彼が何を願っているのだろう?何を祈っているのだろうとシーンの
イメージとシンクロするように彼の想いの中に自分の想像力を
重ねようとしていた・・・

考えてみると不思議な光景ではある。
そしていつもなら先を急ぐことしか考えないこの時間帯にどうして彼に視線が行ってしまったのか?彼の行動が何故予測できてしまったのか?
歳の頃は30歳前後だろうか?デイバックを背負った姿は決して目を引くものではないし、でも何故か彼の姿から視線をそらすことができなかった。

この世には、ついている人とついていない人が必ずいる。
郵便ポストに何のためらいもなく深々と祈るようにお辞儀する彼が
どちらに属するかは容易に想像がつく。
そして投函された郵便物が彼の人生において持つ重みもまた同じだ。
運、不運では説明のできない現実に押し流されながら、
それでも尚、祈るしかない人生を過ごす人がどんなに多いことか
そんな彼に幸あれ
祈りを捧げることが叶うことを願いながら会社に向かった。

いつかの私も確かにそこにいた・・多分。

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2009-02-07

クルマの世紀の終わり その1

実は前の会社も今の会社も自動車が好きということが唯一の繋がりで選択したものでした。
世代的にはクルマ好きでも何の不思議もない、ある面日本のモータリゼーションの発展とともに成長した世代ではありました。

我が家の最初のクルマは実は2輪車、記憶はほとんどないのですが父が通勤に使っていたようで、5歳(多分)位に思われる私がオートバイにまたがっている写真を見たことがあります。
自動車としては510のブルーバードかなあ?結構早くからクルマがあったと思うのですが、父の趣味は私のそれとはほとんどシンクロしないですね。まあ、通勤の足くらいにしか考えていないので、およそ趣味性とは無縁の存在でした。

そして、自分で初めて買ったクルマが初代パルサー。確かパルサー・ヨーロッパというキャッチフレーズだったと思います。この辺りは中学から読み始めたCGの影響大なんですね。当時、小林彰太郎のお眼鏡にかなう数少ない日本車でした。今思えば随分重いハンドルでしたが、当時のヨーロッパの小型車の手法に準じた横置きエンジンのFWDでした。(因みにエンジンは愛知機械製のA14エンジン)、この頃はまだトヨタがそれほど抜け出した存在ではなく、技術的には日産の方が先進的な感じがしていました。(当時のパルサーの対抗は縦置FFという未消化の百恵のコルサでした!)

ただクルマ好きでも、いつかフェラーリなんて思ったことはなく、例のスーパーカーブームの時も”クルマの本質を知らない奴らのお遊び"と全く無縁の立場にいました。これもCGに感化されていたのだと思います。
でも。とにかく、死ぬまでにはハイドロのシトロエンと情熱のアルファだけは乗りたいというのが夢の青年でした。残念ながらその夢は今だにかなってはいませんが・・。

さてさて私のクルマ遍歴はともかく、どうやら今、クルマの世紀の終わりに立ち会っている気がしてなりません。変な言い方ですが、こんなにクルマが大好きな(だった?)私ですが、新型車が出てもぜんぜんワクワクしてこないんです。
実はこんな感覚になって何年か経っています。と同時にCGの定期購読もすっかりやめてしまっています。と言うより行きつけの喫茶店にはCGがあるのですが、見ていても心躍らないんですよね。無論、CGの記事の質の問題もあるのでしょうが、こうした機械ものって、結局本質的な部分での発展が続いている内が花で、クルマの白もの家電化と言われるように、機能として発展が止まると趣味の対象ではなくなるのかも知れません。

OHVからOHCに、そしてDOHCにと。フルタイム4WDだ、ビスカスカップリングだ、ロータリーだと昨日と違う何かを生み出すエネルギーが薄れていったからかも知れません。逆説的だけど機械だからこそ、そこには職人的な技の香り、人の顔が見えるデザインとか、人間的な温さが必要なのに、いつしか金の生む商品として効率化と単一化が命題になってしまった時点で製品より商品になってしまったのでしょう。当然、商品となればトヨタの独壇場です。ましてや日本経済を支える利益の象徴となると、クルマ造りの拘りより,如何に儲けるか、収益を上がるかが設計者にも経営者にも求められるようになっていくと、当然心ときめく存在ではなくなっていくのでしょう。

メーカーと言いながら、クルマの好きな経営者がほとんどいない状況が当たり前になってしまいます。クルマを単に金儲けの道具としか考えなくなると、金さえ儲かるなら何もクルマでなくても良くなる訳で、心ときめくクルマが造れなくなるのは当然の理でもあります。

そんな状況での、この金融恐慌です。
もともとのクルマメーカーであれば、こんな時だからこそ魅力的なクルマを造らねばと技術者は燃えるはずですが、正直そんなことを考えるメーカーなんてほとんどいません。ひょっとすれば、ポルシェ家が支配するVWグループだと少し期待は持てますが、それ以外は多分どう収益を確保するかに汲々としているだけで、機械としてのクルマに魅力を与える方向へのベクトルは働かないと思います。

でもね、あの金儲けの権化のようなトヨタが2兆円の営業利益から、一気に赤字になる状況です。所詮、金儲けに走ったところで、バブルで儲けるか、そのバブル破綻の影響で赤字に転落するという、何らロマンのかけらもない時代なのです。

少し横道に逸れますが、クルマが好きでない/あるいは収益としての道具としてしかみていない経営者の愚かさの象徴を見てみましょう。
スバル、そう富士重工です。中島飛行機としての技術的な裏付けをベースとしてクルマ造りへの拘りには一目置くメーカーでした。ボディ剛性なんて言葉が一般的になる以前からスバルのクルマは軽量/高剛性が売りのひとつでした。水平対抗エンジンやレガシーに代表されるAWD等、その特異性、先進性のシンパシーを抱くファンの多い会社でありました。ところが、経営的には決してうまくいっているわけではなく長く関連のあった日産の凋落に伴い、経理畑の経営者が選択したのはあろうことかトヨタとの提携でした。これって企業として見れば十分ありうる選択であることは認めますが、クルマ屋、メーカーとしては全く考えられない選択です。小規模ながらもスバルを選択していたファンに対するこれ以上の裏切りはないでしょう。彼らはトヨタ流のクルマ造りに嫌悪感を抱いていたからこそ、スバルを購入していたのです。それでも時代の流れと考えるファンであっても、フィアットに対するアルファやランチャの存在のように、資本的にはトヨタ傘下であっても、製品としてのクルマ造りに関しては、万一ベースが同じであっても味付けなり、所謂技の部分でスバルらしさは失わないと信じていたと思います。なのにね、トヨタのBBそのもののクルマを工場の生産効率優先であてがわれて、スバル車として売るように言われるようになっては何をか言わんやである。ほんの少しでもスバルとはどんなクルマかを知っていたら、間違ってもこんな政策はとらないですね。トヨタもだけど、スバルもね・・。
案の定、売れっこない。

そしてもうひとつ。これは予言的に言ってきたことですが、日本のレクサス事業です。トヨタだけの好景気の勢いで"富裕層"向けのチャネルとして登場しました。しかし、日本の富裕層ってなんなのでしょう?アメリカで成功したから日本でもって言うのも随分短絡的だと思います。直近の状況でも判るように、トヨタと言えども儲けの大半は海外、とりわけ北米での収益が支えていました。国内販売に限ればシェアが50%近くあっても決して高収益ではない。もっと言えば海外で稼いだ収益を国内販売に突っ込んでいる状態が当たり前のようになっていました。その意味では国内販売でももっと高収益化を計るための手段として始めたのがレクサスだったと思います。確かにベースのトヨタ車にちょっとしたお化粧をして100万近く高いプライスで売るわけですから。
ただ、その戦略上でふたつの大きなミスを犯したと思います。
もともとトヨタと言えば地場資本の販売店とスクラムを組んでシェアを上げて来ました。そうメーカーと販売が切磋琢磨することで成果を上げて来たと思います。ただメーカーとしては中々スピーディに自分達の思いどおりに販売店が動いてくれないもどかしさがあったと思います。そこでレクサスに関してはかなりの部分をメーカー主導での運営するようにしていたと思います。しかし大半の販売店がメーカー資本の日産の例をみるまでもなく、日本の特殊な販売環境下ではメーカーに本当のノウハウがあるとは思えません。それに気づいていないというのは余に独りよがり(思い上がり)だと思います。
そしてもうひとつは、ブランドの取り違えです。日本には腐っても鯛という言葉があります。ブランドにはブランドと言われる所以があるはずで、ルイヴィトンにしても貴族のトランクからスタートした歴史があってこその今のブランドです(日本のお姉さん達がそれを知っているかどうかは別にして)、ベンツにしてもクルマを発明したという自覚と責任を常に持ってきた企業です。決して金儲けがうまかった会社=ブランドではないはずです。レクサスってかっこつけても所詮トヨタはトヨタであるはずで、超高級な鯵がどんなにおいしくても鯛にはなれないということに気づかないとは・・これも奢りでしょうか?
そして成功したと言われたアメリカのレクサス事業も、今となってはその高収益自体が実はバブルだったことが明らかになっています。

確かに日本にも金融プチバブルの世界があったのは事実です。それを富裕層と呼ぶのなら、ましてやそれがターゲットだったとしたのなら大きな戦略間違いだと思います。

クルマの世紀って、結局はそれを造りあげてきた技術者や人の世紀だったと思います。人の姿が見えない高級車が中心になってきたことこそ、クルマの世紀の終わりの序章だったのだと思います。その意味でこの二つの例って結構象徴的なことなのかも知れません。

なんだかんだでクルマの世紀の終わりはかなり本格的になってきたようです。随分長くなってしまいそうなので、まずその1ということで続きはまた近いうちにと思います。

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2009-01-03

シアワセのカタチ

厳しい寒さで明けた2009年でした。
テレビでは相変わらずの年末年始番組が続いています。
それでもいまひとつバカらしさにも精彩がないように思いますがいかがでしょうか?
そう、企業の広告宣伝費で支えられているテレビ局にとってもこの金融不況は影響大なのです。

そんなことはともかく。こんな時代だからこそ考えたいことがいっぱいあります。
つい最近まで、金儲けこそが正義、勝者と敗者の区分は金があるかないかであったり、と日本中が思い込んでいたように思います。
もちろん、金儲けが悪とはいいません。ただそれは金を持っているということだけでそれ以上でもそれ以下でもありません。
そう、大企業のトップや金を持っている政治屋が偉いわけではありません。
権力はそのものだけで存在するのであって、それを行使するものが持っているわけではないのです。
悲しいことに、人は勘違いする動物です。
ですから、行使することができること=権力を持っているということを、金を持っていることが権力だと勘違いしている人間がどんなに多かったことか。
同時に私たちは、そんな時代にお金を持っていることへのあこがれを尊敬と勘違いしてしまったのではないでしょうか?

今日の新聞に興味深い記事が載っていました。
独市民の72%が「社会悪化」
20年前のベルリンの壁崩壊に関して、当事者であるドイツ市民の半数がその前より経済状況が悪化したと言うのです。更に72%が社会情勢が悪化したと答えているとのことです。

今でも象徴的に使われる壁を市民が打ち砕く映像、誰もが共産主義の崩壊とあたかも資本主義が勝利した瞬間のように使われています。
にも関わらず根本の経済でも半数が、何より人の心がベースとなる社会状況が7割以上の人が悪化したと答えているのです。言い換えれば、共産主義でも資本主義でも人をシアワセにすることができなかったという事実だと思います。

しかし、その20年前から昨日まで、世界中が資本主義、金儲け主義の熱病に冒されていました。
その先頭を切って病原菌をまき散らしてきたアメリカが、瀕死の病人であることにようやく本人が気がついたようです。これから、発病した世界中の国がリハビリを開始しなくてはなりません。
残念なことに、病人のお片棒を担いでこの国に病原菌をまき散らしたエセ政治屋やエセ経済政治学者がまだまだ大きな顔をしていますが・・まあ、この人達につける薬はないのでしょう。

実は20年前に崩壊したのは東ドイツ、共産主義社会だけではなく資本主義を含む20世紀の思想すべてではなかったのでしょうか?
拡大再生産を基本とする資本主義は地球が有限であること、その地球に今でも67億の人がいることをイメージできていません。まるで地球が際限のない天動説の時代の思想のように思えます。
同時に共産主義もまた、本気で67億の人が同等レベルの生活ができると信じているのでしょうか?
この地球上でどのレベルの生活なら67億の人が暮らせると本気で考えているのでしょう?
つまり、21世紀の世界は20世紀の思想では誰もシアワセにできないことは明らかです。
つまり以前の南北格差がそれぞれの国内の格差に移行しただけだと思います。

思想や哲学で飢餓は救えませんが、心の平和、シアワセのカタチのためには重要だと思います。
こんな時代だから、21世紀のシアワセのための哲学を考えたいと思います。
答えがそんなに簡単に見つかるとは思えません。
だから、今日から少しづつ探していきたいと思います。

そしてシアワセのカタチはけっしてひとつではないと思います。
人それぞれの固有のものだと思います。
だからこそ、ひとりひとりが自分のシアワセを大事できる世界にしたいと思います。

シアワセのカタチ

考えることが一番のシアワセかも知れません。
今日からスタートします。
これからもどうぞよろしく です。

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