2009-09-24

マニフェストより大切な公約 民主党の限界

民主党よお前もか!

民主党がまだ野党だったころ、少なくとも与党よりもまともな政策がひとつあった。それは、政治の場面での記者クラブからの解放である。
そう、あの小沢のスキャンダルの時も記者クラブ以外のメディアにも記者会見を解放している。
実は日本のメディアは北朝鮮以下の閉鎖社会なのである。そのくせフィクサー気取りで総理大臣の首のすげ替えを画策していた渡辺某を筆頭に、誰にも与えられていないのに権力を持っていると錯覚している組織なのである。

ホワイトハウスの記者会見をご存知だろうか?
基本的にはメディアの制限はない。
当然、記者会見はホワイトハウスの広報、報道官が取り仕切る。
無論、会見場は誰でも入れると言っても厳しいセキュリティチェックを受けてのものであるのは言うまでもない。
そして肝心の会見は記者と報道官の真剣勝負の場でもある。

それに対し日本の官邸、否警察でも地方議会でもすべて地方地方にある記者クラブが会見を仕切っている。何よりその記者クラブの会員でないと会見場に入りさえできないのだ。
そして、会見自体はなれ合いの出来レースで形式的に行われている。
質問も幹事社が取り仕切り、政治家がきかれたくない質問はしない。
しかも会見後各社の記者が会見内容の擦り合わせを行い、翌日の新聞にはほとんど一字一句違わない会見内容が並ぶ。
海外のメディアから見ると信じられない光景である。
そのくせ、政府高官のオフレコ会見とか,リークを餌にどんどん政治家側に飼いならされていく。
それを日本の国民へ真実のニュースとして垂れ流し、洗脳していくのだ。

よく政官財の癒着構造と言われるけれど、
実は政官財&メディアの癒着がこの国の民主主義の進歩を阻害している。
変な言い方だけど韓国でさえこんな制度はないのだ。

その意味では日本のメディアは共産圏以下とも言える。

そして、そんな記者クラブを解散させると言って政権を奪取したのが民主党なのだ。

それが権力を握った途端、平野某官房長官の入知恵か,はたまた官邸記者クラブにたらし込まれたのか、こんなマニフェストよりも何よりも大切な公約を反古にしてしまった。
この罪は極めて重い。
これじゃ、官僚政治からの脱却もおぼつかない。ぞ。

微かな期待は外務大臣となった岡田が、外務省の会見は記者クラブ以外にも解放したことだが・・。ということは民主党としての判断ではないのだろう。
やはり平野か・・民主党が早く目覚めることを期待して。

●以下は理想の時代の民主党
http://www.j-cast.com/2008/12/30032953.html

●そして裏切りを受けた後、
http://diamond.jp/series/uesugi/10094/

恨みつらみの前にもっと真っ当な話として、
これ以上記者クラブをのさばらせてはいけない理由を。
(田中繋がりで田中康夫ちゃんも一押しの田中良紹さんのコラム)
▶なせ記者はバカになるか。

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2009-05-17

THE WEST WING とキングコーン

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私のブログへのアクセスで一番多いのは、記事が圧倒的に多いおけいさんや六文銭(まる六)に関するものではない(少し涙)
おけいさん関係は第3位かな?
一番多いのは”キングコーン"に関する記事なのだ。この記事に1日100件以上のアクセスが数日続いたことがあるので驚いたことがある。
原因は私の力というより人気ブロガーの石塚さんがキングコーンの紹介に私の記事を案内して頂いたのが大いに影響したのは明らかだった。
※映画"キングコーン"


その映画"キングコーン"本国では2007年公開だが,今年ようやく日本でも公開されることになった。詳しくはリンク先か私のブログをご参照頂ければ助かるが、簡単に言えば、アメリカでは日本の米以上にコーン=トウモロコシが国策作物になっている。とにかく補助金まみれで作れば買い上げてくれるのでバカらしくて他の作物なんかつくらなくなるくらいなのだ。それだけなら単なる農業問題だけど、このコーン遺伝子組み換えで天候や虫の被害にもべらぼうに強く、生ではまずくて喰えないただひたすら澱粉=コーンスターチを生産する原料するためのもので、アメリカのみならず世界中の食の輪廻の大本に位置する代物なのだ。
たとえば乳牛/肉牛はこのコーンをベースに抗生物質を配合された飼料で育っている。余談だけど映画の中には反芻する牛の胃酸はとっても強力なのに消化の良すぎる飼料の性で自分の胃に胃酸で穴をあける牛が続出いているという衝撃的な映像もあるそうだ。更にコーン油だけでなく一般的な甘味料である果糖ブドウ糖はコーンシロップがベースだし、キシリトールの原料もコーンの芯から作られる、更にはもコーンスターチからはポリ乳酸という環境にやさしい?というプラスチックの原料としてポリ袋が作られる。

つまり、たとえばマクドナルドでコーンで育った牛のハンバーガーとコーン油であげたポテト、コーンで作った甘味料入のコーラやジュースをポリ乳酸でできたポリ袋に入れてもらうとすれば、正にコーン無の生活などありえないことになる。

さて肝心の映画の内容は、学生二人がそんなトウモロコシ作りに挑戦。それを追いかけていかにアメリカ人の食生活がそれに依存しているかをアピールするのだが、その後の現実では原油高騰(サブプライムバブルによる)を受けて、そのコーンからエタノールを精製するという更に更に利用範囲が拡大させて、結果アメリカの国内農業問題をとおり越して、バブルマネーが更なる金を求めて地球の酸素の供給基地である熱帯雨林をも伐採してトウモロコシ畑にしようとするに至って、地球全体の環境問題まで拡大していってしまった。サブプライムが経済理論の原則に則って破綻していった何がエコかなどという化けの皮が剥がれてしまったのは記憶に新しい所だろう。
当時の風潮で言えば、CO2の排気権さえファンドマネーが投機の対象にする始末であった。金になるなら地球全体の環境なんかおかまい無しに熱帯雨林を焼き尽くし(これだけでもCO2が増加するし)ECOの名のもとに効率の悪いアルコール精製のためにトウモロコシ畑にしようとする本末転倒の発想が金融バブルの崩壊でひとまず歯止めがかかったことは、経済理論以前の地球の反撃なのかも知れない。

一連の情報の参考データは以下で
http://bb2.atbb.jp/alternative/viewtopic.php?t=796&start=0&postdays=0&postorder=asc&highlight=

さて本題?
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実はこの”キングコーン"てっきり映画のための造語だと思ったのだけど、実はすでにこのタイトルを使ったドラマが存在していた。2004〜05年放映のTHE WEST WINGのシーズン6、そう私の大好きなドラマである。まあ、金融バブルの張本人であるアメリカで、大統領とその側近を描いたドラマでその危うさを描いたドラマがあったというのは、その先見性を評価すべきか、あるいはそれでもバブルに踊っていった現実を愚かさの象徴としてみるべきかは難しいところだけれど、THE WEST WINGの名誉のために紹介すると、アメリカの大統領と側近の日常を超がつくほどリアルに描いてはいるが、現実はバカブッシュがイラク戦争にのめり込んでいく中でドラマでは、民主党政権のバートレット大統領(マーチン・シーン)の賢明な政権運営を描いているし、キングコーンのエピソード自体は、オバマをモデルとした無名の大統領候補の苦闘を描いたものであった。
現実にも全く無名の泡沫候補扱いだったオバマに注目してそれをモデルとしたドラマを作っていたというもうひとつの先見性(ドラマでは数年後のオバマの誕生を予見したように、この泡沫候補がやがて民主党候補となり大統領となるまでを描いているのだ)には、やはりブッシュ&ネオコン、金融ファンドの横暴にすでにアメリカ社会の中でも嫌悪感が広がっていたのがわかる。政治的にはその4年後オバマという形でバランスを取り戻したけれど、経済については破綻まで止める事はできなかったということか?

THE WEST WUNGのシーズン6の13話。民主党の指名を争う予備選挙はニューハンプシャー州で始まるが選挙戦略より自らの主張をアピールしたいサントス(大統領候補)はことあるごとに選挙参謀のジョシュ(元ホワイトハウス次席補佐官)とぶつかり合う。候補者達は最初の党大会が行われるアイオワ州に入る。アイオワは言わずと知れた中西部のコーン地帯、まさにコーン農家に対するエタノール助成金について賛意を示すことが大統領選を戦う上必須と言われる中、サントスは強い疑問を抱いていた。現実にも1Lのエタノールを生成するためには1Lの原油を必要とする。この矛盾を知った上でも助成金を支持しなくてはならない現実にサントスは選挙自体に疑問を抱くのだけど・・・。そうアメリカでは日本のコメ農家以上にコーン農家は圧力団体として絶大なる力を持っているのだ。

その回の邦題は「勇気ある演説」。そして現代は"King Corn"なのだ。2004年、まだ中間選挙も始まっていないというかゴアの得票を誤摩化してブッシュが再選した直後のドラマだった。
・・これだからTHE WEST WINGは凄いのだ。

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2008-12-27

年の終わりに・・

とは言えまだ1週間ほど残しているけど、このあたりで1年をおさらいしておこう。最近LIVEネタばっかりでお休みをしていたので少し長めの独り言です。

この1年を一言で言えば、新自由主義の終焉だと思う。
日本人は"新"とか"自由"と言う言葉をポジティブにとらえるのだが、究極の性善/性悪説を持ち出すまでもなく、その前提となるのはコモンセンス=常識が共有されていることが必要である。

ベルリンの壁の崩壊であたかも資本主義が善で、共産主義が悪と定義づけられてしまったけれど、実は共産主義も資本主義も市民社会を守る思想としては不完全であることが明確になっただけで、その優劣を意味するものではなかった。しかしどの時代にも扇動者とそれに乗るハイエナのような人種は一定数いるもので、そんな奴らが打ち出の小槌のように扱った思想が新自由主義だと思う。

アメリカや他の国家のように多民族が原則となるところでは法律という明文化された投網で人々のコモンセンスの最低限を維持する必要があるが、日本のように比較的少数の民族で成立している国家、共通言語なり歴史的な共通体験を礎とした国家においては法律以前の"当たり前の常識"が人々の行動規範となっていたと思う。

そんな日本にアメリカを核とする扇動者一家の下っ端として登場したのが小泉/竹中ハイエナ軍団で"改革"とか"競争"というこれも耳触りのいい言葉を駆使してこの国に"新自由主義"思想を蔓延させた。彼らの悪行については、ここでも何度も述べてきたけど、結局彼らの浅はかさは競争の果てに何があるのかをイメージすることができなかった愚かさ、つまり彼らのいう競争は真に自由な競争ではなく、ハイエナ共に都合のいいハンディキャップ付のエセ競争であること、そしてその結末は寡占による独裁と独占で、弱者は更に切り捨てられるものであることだった。判りやすい例で言えば自ら政界を引退すると称して息子を後継者指名する愚に真の自由な競争を語る資格はない。

その結果がもたらしたものは、ホリエモン曰くの"法に触れなければ何をやっても許される"という人種の増大と市民の労働力さえもコストの一部にしか考えない企業屋どもの跋扈する日本社会だった。前にも書いたけれど、体の傷は癒すことはできるけれど痛んだ心は早計には回復しない。その意味でも小泉&ハイエナ竹中の罪は極めて重いといえる。

そんな奴らの後ろ盾だったおばかの枢軸ブッシュ政権が崩壊したのはいいNEWSであったけれど、その愚かな新自由主義のツケがサブプライムローンに端を発する世界的な金融不況である。

しかし、あえて言おう。この金融不況こそ、ベルリンの壁崩壊で壊滅した共産主義思想に続く資本主義思想の崩壊であることを。つまり、共産主義でもない資本主義でもない21世紀型の市民社会を律する新しい思想を生み出すきっかけにすべき新しい時代の幕開けと捉えるべきだと。

新自由主義、つまり金で金を作る現代の錬金術は大きな前提に成り立っていた。つまり資本主義の大原則拡大再生産が繰り返されること。しかし、地球は有限であり当然、資源のみでなくレミングのように全員で崩壊しない限り市場も有限である。
更に言えば資本主義は持つ者と持たざる者があることで成立する格差前提の思想だと思う。果たして67億の地球の市民が同等の生活水準を維持することを誰がイメージしているのだろう?もっと判りやすく言えば、13億の中国人民が1億3千万の日本国民と同等の生活をおくるとイメージすれば、それが消費するエネルギーに地球が持ちこたえるとは、よほどのオバカでも思わないと思うが・・。
これまではそれを誤摩化すために世界戦争を起こして体のいいリセットを繰り返すことで思想を長らえてきただけなのだけど。それに新自由なんてマヤカシの衣を着させてもさすがに限界がきたようだ。

結局のところ、資本主義を維持するためには持つ者と持たざる者の線引きがこれまでの国境ではなくその国内に引かれることによって、ようやく成立する思想であることを認識すべきだと思う。中国人民の生活水準がアップするのを支えるためには日本国内の格差が拡大しなくては地球規模でのバランスを取ることができないということにどうして気づかないのだろうか?
日本人の好きな言葉である"グローバル化"とは実はこのことであることに、そろそろ気がついてもいいと思うけど。

そして新自由主義にほだされた日本の企業屋連中が何をやってきたのか?企業としての収益のためにコスト優先というお題目で日本国内から仕事を奪い中国などコストパフォーマンスのある国へ仕事を移管しつづけた。更に言えば、元々派遣労働者とは労働者側が自ら持つ能力を提供するという労働者側にイニシアティブのある労働形態なのに、アメリカの犬どもは製造業にまでその範囲を意図的に拡大してきた。その結果は今吹き荒れているような派遣切り=つまり市民を原材料の一部のようにより安く入手できる手法、最適調達で切り捨てる状況である。その企業屋(あえて家とは言わない)は企業防衛、未曾有の危機に対処するためと嘯くけれど、雇用を市民を切り捨てて何のための会社なのか?裏返すと企業防衛のためには顧客さえも騙すと聴こえるのは私だけだろうか?

そんな企業に限って過去何年間は過去最大の収益とか栄華を誇っていたところばかりである。そのくせ内部留保とやらでその収益を正規社員にすら還元はしていない。そして派遣社員を切る片方の手で配当は増やしたりしている訳だから、こんな企業屋、その大半が経団連の正副会長経験者の企業ときているわけだから、企業屋の心までも新自由主義が浸食しているのだろう。
多分、彼らはグローバル企業として当然のことだと居直るかも知れない。しかしそんな彼らの作り出す製品を購入するのもその市民だということを忘れているのだろうか?

クルマ好きとして、少しクルマに焦点を合わせてみれば、正にこの当たり前のコモンセンスを忘れた結果が、一見超優良企業T社の現実である。その優良を支えていたのは、確かに日本企業ならではの技術の蓄積と勤勉さにあったことは否定しない。しかし、日本にはあるはずもない富裕層(確かに成金は山ほどいるけれど)とやらに焦点を当てたレクサスブランドを立ち上げ、そうグローバル化による敗者ではない勝者向けのビジネスの立ち上げである、サブプライムバブルに踊る北米市場偏重政策である。まるで総中流思想の恩恵で自らの企業体を拡大してきたことを忘れたかのように、バブリーな北米市場と格差肯定の富裕層ビジネスで更なる高みを目指したツケが今の実態だと思う。更には、新自由主義のもうひとつの犯罪である投機資金による原油高騰を逆手にハイブリット車で一儲けをたくらんだ結果が、投機バブルの崩壊で1/3になった原油価格がその足を更に引っぱっているという皮肉が、6000億の営業利益から半年余で1500億の営業赤字への急降下の要因だと思う。

しかし、事態はもっと深刻な状況だと思う。つまりこの会社(無論、他メーカーも大同小異だが)を支えてきたのが総中流意識のあすなろ族であったのだが、その過程である面、不要なほど購買意欲をそそり、日本の車検制度にも助けられ代替促進を計ることで企業規模を拡大してきたのだけど、一連の原油高騰と未曾有の景気後退により、そんな市民がそれほどクルマを保有すること、あるいは必要以上の頻度でクルマを代替することの無意味さに冷静さの中で気づいてしまったことだと思う。皮肉にもエコ替と称して低次元のCMを垂れ流すことによって、市民が何が本当のエコか気づかせてしまった。つまり、今後景気が回復してもクルマとしての市場の回復が極めて困難な状況だと思う。更にはそれ以上に北米市場が深刻であることは明確だから、単にエアポケットのような落ち込みでないことを自らが一番理解しているはずだ。
もともとの田舎企業、ましてや大政奉還が迫っている現実を考えると必要以上に引き締めたい気持ちはわからないではない。しかし彼らが真のグローバル企業を標榜するのであれば、こんな時こそ打つべき手だてはあるのだけれど。

20兆円もの内部留保を投機筋の配当、否自己株を買いあさっているので結局自分への配当を増やすことに当てるくらいなら、10年後、20年後のクルマ社会を見据えて、例えば非接触式の走行中充電機能の実験道路を作るとか、内燃機関に変わるパーソナルユースの移動デバイスの開発に大型投資を発表するような、企業として夢を語るような事業を宣言すべきであろう。自らがフロントランナーである自覚を持つべきで先頭をきって穴にうずくまる愚こそ、これまでその拡大に貢献してきた市民に対する背任行為だと思うのだがいかに。今のままじゃ、また景気がよくなれば儲けさせてもらいますという陰気な越後屋みたいなものじゃないですかね。
そう、物事考え方だと思う。しかし、だからこそ新しい未来、あり方をこういう時期だからこそ真摯に考えるべきで、1企業の存続/繁栄のみに想いを馳せるだけではあまりになさけない。でもこの会社には無理かも知れない。

さて、話をもどして、市民のための新しい思想とは?
今後、違う星なり地底なりに新しい拡大余力が見つかればともかく、現状67億の民が仮に100億になっても、市民としての最低限の生存を維持するためにはどうすべきかを真剣に考える時期にきていると思うのだが。

アメリカの新自由主義、ネオコンと呼ばれる連中がいかにハイエナかと呼ばれる事実をひとつ紹介しよう。結局大義がないことを認めたけれど、イラク国内をめちゃくちゃにした侵攻で、イラク復興支援とかいって実際にはアメリカの民間企業が営利としてそれを請け負っている事実をご存知だろうか?しかもその企業とはチェイニー(副大統領)やラムズフェルト(元国防長官)が経営に関与するハリバートンであるのだから。意味もなく破壊し、それをネタに金儲けをするのが同じ人間が裏で糸を引いている、これが新自由主義の本質である。オバカなブッシュはお飾りでしかないことは判るけど、だからイラク人に靴を投げられるのは必然であったのかも知れない。しかしそれにしても、そんなアメリカにペコペコ尻尾を振っている我が国の政府というのも情けない以上にやるせなくなる。

21世紀の市民のための思想とは?人間はこれまでいろんな思想を生み出してきたけど、それは政治屋や権力者のためのものではなく市民のものでなくてはならない。ところがそんな思想の性でどれだけ多くの市民が犠牲になったことか。同時に思想の変形でもある宗教でも同様である。本来市民の心の平安や生き方の指針となるべきもので、何故人が人を殺戮しなくてはならないのか?その意味では宗教家は大反省しなくてはならない。そもそも他者を否定しなくては存在できない宗教なんて存在意義はない。

そんな思想や宗教を越えて、世界中が熱病のように冒された過剰流動性の金融バブルを見ると人の幸せとは結局金だけだったのかと暗澹たる気持ちになる。そう、偉そうなこと言っても結局金なのかということ。しかしその実態は1年間で世界の株式市場で消えた金が30兆ドル(3000兆円)、日本のGDPで6年分ということを考えるととてつもなく大きな金だけど、生活が苦しくなったとは言え、商店のものが半分になったわけでもないし、ビルの街並が半分に減ったわけでもない。つまりはバブル、あぶく銭だったわけで、それを前提としていた世界の方が異常だったのだと思う。
原油も150ドル近くに上がったけれど今や40〜45ドルレベル、しかしそれで産油国が破産したとは誰も思っていない。一応35ドルが損益分岐点と言われているわけで、その差額がまさにバブルだったと言える。

ところが世の為政者達ときたら、彼らの打つ施策は金利を極限まで下げたり、金を市場に放出したりとまたぞろ過剰流動の方に戻そうとするものばかりだ。カンフル注射が必要なことは判るが、結局のところ人間という動物は、金を理性でコントロールできないことは今回明確に判ったわけだから、もっと違う視点での政策が必要だと思うのに、本当に視野が狭い。結局萎んだ風船に空気を入れる政策しか打てないのなら為政者としては失格だと思うがいかに。

その中で、全体像ははっきりしないけどオバマが雇用政策を全面に出していることは、ワークシェアまで意識しているかどうかまでは判らないけれど、多少の救いだ。JOBがなければ、市場を拡大する消費も生まれないわけで、単純な緊急避難的施策よりは足は長いが展望性はあると思う。

日本はどうだって?残念ながら、株主からも役員/従業員からも見捨てられているのに創業者ずらだけして社長の椅子にしがみつこことしかない総理大臣では評価以前の問題である。間接民主主義の日本ではまどろっこしいけれど、大前提として国のリーダーたる者、直近の民意を反映したものでない限りは、基本的な政策など何も打てないし、実効はあがらない。漢字より、こんな単純な理屈すら理解できない者は総理どころか政治家の資格すらないことを、その内思い知るだろうと思う。

確かに出口のない年末だけど、少なくともマンガ太郎以外の膿みは出尽くした感がある。昨日までのトップ企業が実はバブルや世襲でしか生き残れない情けない存在であることが判ったように、新しい年は真の思想、政治、企業を市民視点で再構築を始める年にしなくてはと思った。
その意味で2009年から、本当の意味での新世紀が始まると考えれば、希望の光は見えてくると思う。

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2008-11-20

晩節を汚す。ふたつの老害。

私の持論でもあるけど、権力は必ず腐敗するというのがあるけれど、およそ人という生物はどうしようもないものらしい。

元厚生官僚やそのご家族が合われた不幸に関してはお悔やみやお見舞いを申し上げるしかないけれど、それを受ける日本の社会というのは、空いた口が塞がらない状況が続いている。

確かに昨今の社会情勢の中で、厚生官僚ましてや年金制度に深く携わっていた2家族が襲われたとすれば、やれ厚生官僚を狙ったテロだと大騒ぎをするのはこの国のメディアのレベルを考えればわからないではないが、所詮、大本営発表の記者クラブが警察発表を鵜呑みにした結果でしかないと思う。

事件の全容が解明されていない時点で軽々と判断をできないのは承知の上での推理であることをお許し頂くとすると、現状の報道どおりだとするとレベルの低い日本の刑事ドラマでも、もう少しマシなシナリオを考えると思う。

仮に犯人が社会保険制度に対する憤りから犯行を実施するとすれば、当時の社保庁長官とか、マスゾエ君とかもっと判りやすいターゲットを狙うのだと思う。よほどの事情通で無い限り、今回の被害者が制度の張本人だとは判らないであろう。ましてや今現在なんら犯行宣言も出ていない。つまり厚生省関連の事情による犯行であるのは明らかであっても、年金制度そのものというより極めて個人的な恨みによる犯行と考える方がよほど理屈にあうと思うがいかに。

さらに複雑な推理をすれば、これはあくまでフィクションだけど、仮に現厚労省関係、社保庁等かなり中枢に近いところが仕組んだ計画的な犯行だと仮定すると、今の状況は極めて狙いどおりの状況と言える。

つまり、現行の社保庁を核とする国家的な詐欺行為とも言える年金制度の混乱は改善どころか掘れば掘る程粗が出てくる状況である。にも関わらずそれに関わった責任者の誰一人として責任を負ったものはいない。官僚の利益は個人で略奪しても責任は組織として明確な責任者を明らかにしないという得意技で逃げ切ろうとしていたものの、それさえも困難な状況になってきた。

ここでテロ騒動を起こして批判の矛先を変える、否鈍らせようと画策したとしたらどうだろう。こう考えると被害者は関係者でありながら、できるだけ同情を得やすい人物である方が効果的だ。被害者のお一人が"仏の山口"と呼ばれていたのも、ある面偶然では無かったのかも知れない。ましてや本人だけでなく評判のいい家族まで被害にあったとすれば、それを計算したとすれば、背筋が寒くなってくるけれど。

少なくとも2日連続での犯行だとすれば、あえて年金制度に焦点を当てさせようとする狙いがあったと思われる。殺害が目的なら続けて実施するのはあまりに危険(少なくとも犯人像の特定とかがされているかどうか、様子をうかがいのが自然と思うけれど)だろう。何より殺害方法があまりに手際が良すぎる。あきらかに義憤に燃えた素人というよりプロの殺し屋の体がすると感じるのは私だけだろうか?

少なくともすべてが袋だたきにあっていた厚生労働省/社保庁関係者が一躍被害者っぽく振る舞うことになり、単純な日本国民もそれはそれ、これはこれと判断できるほど理性的ではあるまい。私の推理どおりなら、今頃犯人というか首謀者は腹をかかえて笑っているはずである。犯行のタイミングにも、テロとすれば必然性があまりに低い。近近、さらに大きな不祥事が、国家詐欺の全容が出てくる予定だったとしたら・・。

実は昨日のニュースでインタビューを受けた厚労省の職員が
"少なくとも犯人が厚労省関係者でないことを祈りたい"と答えていた。テロという言葉とは余に対照的な発言だと気にしていたのだが・・

更に驚くべきことに続けて耳を疑う、老害発言が続いている。
ひとりは政治家、厚生族の津島氏。なんとテロの原因を政府を追求する野党やマスコミだと宣った。盗人猛々しいとはこのことか?元厚生大臣として責任を感じるどころか、”俺たちを悪く言うお前らが悪い"なんて、次期選挙で仮に当選するのなら、日本国に未来はないと思う。
発言の要旨はクリックで。

そして更に驚くべき発言が驚くべき人物から発せられた。
まずはその内容を以下にご紹介する。
トヨタ奥田氏「厚労省たたきは異常。マスコミに報復も」2008年11月12日21時7分
トヨタ自動車の奥田碩相談役は12日、首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」で、テレビの厚労省に関する批判報道について、「あれだけ厚労省がたたかれるのは、ちょっと異常な話。正直言って、私はマスコミに対して報復でもしてやろうかと(思う)。スポンサー引くとか」と発言した。
同懇談会は、年金記録や薬害肝炎などの一連の不祥事を受け、福田政権時代に官邸に設置された有識者会議で、奥田氏は座長。この日は12月の中間報告に向けた論点整理をしていた。
奥田氏の発言は、厚労行政の問題点について議論された中で出た。「私も個人的なことでいうと、腹立っているんですよ」と切り出し、「新聞もそうだけど、特にテレビがですね、朝から晩まで、名前言うとまずいから言わないけど、2、3人のやつが出てきて、年金の話とか厚労省に関する問題についてわんわんやっている」と指摘し、「報復でもしてやろうか」と発言。
さらに「正直言って、ああいう番組のテレビに出さないですよ。特に大企業は。皆さんテレビを見て分かる通り、ああいう番組に出てくるスポンサーは大きな会社じゃない。いわゆる地方の中小。流れとしてはそういうのがある」と話した。
他の委員から「けなしたらスポンサーを降りるというのは言い過ぎ」と指摘されたが、奥田氏は「現実にそれは起こっている」と応じた。

いかがだろうか?余の思い上がり、時代錯誤の発言。確かにトヨタはメディアのパトロンと呼ばれ、現に金融不安による収益悪化を理由に30%(全体で1000億以上の広告宣伝費の)をカットと宣言して、キー局は軒並み、大手広告代理店も大幅な売上減少に喘いでいる。

およそ、権力者が都合の悪い情報を流すメディアを抹殺するという発想は、未開発国家の権力者の発想とまったく同レベルだ。彼には金正日やミュンマーの軍事政権を非難する資格は全くないといえる。金で情報が買えると思っているとしか思えず、逆に言えば札束でひったたけば、すべてが自分の想い通りになると思っているのだろう。裏を返せば、メディアの連中も彼の発言を助長するようなことをして来たのだと思う。財界総理、さすが下請けをたたきまくり、単なる組み立て屋にしかすぎない企業で10%近くの営業利益を上げる会社の代表者だったとも言えるが。

昔からこの会社は政治や財界活動には出しゃばらず、自分のことだけコツコツとやるということを美徳としてきた。しかし所詮は田舎者の哀しさか、その財力に目がくらんだ連中におだてられて、表舞台に立たされると、お里が出てしまったのかも知れない。正直なところ、前会長の発言に一番困惑しているのは、現首脳陣かも知れないが,否是非そうあって欲しいけど。

晩節を汚す。老害の最大の欠点は当事者には判らないことだろう。

まあ、老害以前にも、最初の選挙での第一声が"下々の皆さん"だったという、現総理の愚かさを考えると筑紫哲也さんの言葉ではないが
"この国の行方"が本当に心配になってくる。

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2008-10-21

壊し屋

人は壊し屋と呼ぶ。

しかし、本人達には自覚がない。

その確率の高さに、実は本人達が一番驚いているのだが。

とにかく、おいしくて、お値打ちで、老舗で、20年以上通った隠れた名店なのだが、

私と私の知人が訪れる店に限って店をどんどん閉めていくのだ。

当初は冗談で、この偶然をお互いの性にしてののしり合って?きたけど、

もはや単なる偶然を越えて続けて閉店が現実となると恐ろしくなってくる。

そのくせ、世間では有名だけど、その実は?なお店は何故かその限りではない

後輩なり、大事な友人達を連れて行って、彼らが驚いたり喜んだりしてくれるのを至上の喜びと感じていたのに、こうした隠れた名店がなくなっていくのをどう考えればいいのだろうか?

誰が悪いの?否、いい店だから閉店してしまうのかな?、それとも私たちが愛してやまないお店ほど、今の時代には合わなくなってしまったのか?

それでも、心の中では,知人と私でお互いを疫病神だと思っているに違いない。

以下はこれまでの墓銘碑の一例です。安らかに・・

◇喫茶ダッチ
  いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃいと続けて3回唱える呪文の
  ような挨拶が懐かしい。シナモントーストのモーニングと夏場限定の
  グレープフルーツベースのサマージュース、オーレをジュニア珈琲と
  呼ぶ独特のメニュー。不似合いなほどファッショナブルなママ。
  何よりおいしい珈琲。暇な時はウィンナ珈琲用の生クリームをホイップ
  しているご主人。バブル期に地上にあって突然閉店してしまった。

うた村(まどか)
  当時は東西の芸能人が名古屋に仕事で来ると来店していた。
  名古屋のお店で一番芸能人に出会った店だった。
  名物は超高級のサーロインステーキ用の肉をスライスして
  秘伝のたまりで味付けして一気に焼くたまり焼き。
  一般にはハヤシライスが有名だけど、
  すべて注文を受けてから作る洋食メニューはどれも絶品。
  柳橋の店はまどかと名を変えて長久手で営業しているけれど、
  遠くなってしまった。
  ご主人に聞いたけど、このたまり焼きは高価だけど一番利益率
  は悪いとか。もう移って20年以上経つのかな?
  ※もちろんまどかは長久手で現在も営業中です。念のため。

とんき
  御器所にあったトンカツ屋さん。その後新栄に移転。
  甘めの味噌とボリュームたっぷりのメニューが特徴。
  こちらもバブル期に夜食やお弁当でお世話になった。
  正直、矢場とんなんて金を出してまで食べたくなくなる
  くらい美味だった。
  こちらも御器所が15年程前に新栄も5,6年前に店を閉めた。

大松分店(むら松)
  大須は万松寺前にあった天婦羅の名店。
  30年近く前に訪れた時はお爺さんがまだ元気に
  天婦羅を揚げていた。
  その後息子さんであるご主人に代が変わっても味は
  変わらなかったが、大須の再開発で一時閉店、
  栄寄り、矢場とんの裏辺りにこ綺麗なお店に
  変わってメニューも変更。
  それでも基本の味は変わらなかったけど、
  5年程してご主人が体調を崩され、しばらく休店した後、
  閉店してしまった。今から5年前のこと。

◇太平衛
  名古屋でもめずらしい牛タン専門店。
  以前は大須に近い住吉町にあった。
  その後錦のビルに移転してからも随分繁盛していた。
  お昼の定食はタン焼とブツ切りのタンを味噌煮込み
  したもの、そして澄んだテールスープに麦飯のセットで
  千円とリーズナブル。
  BSEの余波でアメリカ牛のタンが入手できず苦労されて
  いたが、ご夫婦で切り盛りするには体が動かなく
  なられて数年前に閉店した。

◇圓寿
  錦のど真ん中で夜は高級アミ焼きのお店。
  しかしお昼はとてもリーズナブルで、
  ヘルシーランチなるボリュームたっぷりの
  ランチが人気だった。
  それにも増して高級クラブを要するビル全体の
  オーナーでもあるママは、そんな夜のお仕事を
  リタイヤした品のいい昔のお嬢様達を店員として
  営業していた希有なお店だった。
  改装とのことだったけど、
  改装後は多分手が出ない高級なお店になる
  予感がするのだけれど・・

天十
  最近一番のショック。
  つい1ヶ月前に行ったばかりなのに・・
  丸の内にある天婦羅の名店。
  多分40年近く営業していたはずなのに。
  9月13日に突然閉店してしまった。
  天かすはお持ちり自由にいつも入り口
  近くに置いてあったのに。
  あっさりした味が忘れられない。
  大松分店もあっさり天婦羅で、
  名古屋のあっさり天婦羅の歴史は終わって
  しまったのかも知れない。

  合掌

 

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2008-10-05

明日に向かって撃て・・俺たちに明日はない。そしてCOOL HAND LUKE

D112590828土曜日の夜に"明日に向かって撃て"を見た。
ポールニューマンの追悼ということでBS朝日で急遽放映されたものだ。
リアルタイムでは1970年、正直なところ見たかどうか記憶がない。ただ,当時BJトーマスの"雨に濡れても"をさかんに聞いた記憶が鮮明に残っている。
アメリカンニューシネマの代表作、何より日本でファンの多いポールニューマン、ロバートレッドフォード、キャサリンロスという組み合わせもあり話題になっていたのは確かだろう。ただ時代はバートバカラックの音楽の方が圧倒的に存在感があったように思うし、サウンドトラック版である"雨に濡れても"も大ヒットした。余談だけど、日本流NEW時代劇の代表でもある"木枯し紋次郎"の主題歌である"誰かが風に中で"は,小室さん自らがバートバカラック風とおっしゃっているので以下で聴き比べて頂きたい。
◇バートバカラック作曲 BJトーマス歌 雨に濡れても

◇小室等作曲 上条恒彦歌 誰かが風の中で(音楽まで長いけど・・)

ところで、内容自体は破天荒なギャング(実在の)のドタバタを描いたもので、どこが明日に向かっているのかはよくわからない。しかしベトナム戦争を体験しとにかくハッピ—エンドで終わらない現実が厳然とあることを認識した時代の映画、それがニューシネマと言う事か・・。そう言えば木枯し紋次郎もニヒリズムというか決して正義のヒーローではないところが、NEW時代劇と言われる所以?勧善懲悪というか、どんなに酷い目にあってもいつかは救われることで社会規範を何とか保っていた社会が、果たしてあれだけの犠牲を出しながら結局、世界の憎まれ役にしかなれなかったアメリカの現実を写しているような気がする。

でも、だからといってその後お金本位制の如く、富=正義と突っ走っていったアメリカの末路が今回の金融不安でもあるわけで、30数年経ってもこの国は加減というか、ほどほどを学べない国だとつくづく思う次第。まあ、そんな末路を盲目的にマネしようとしているどこかの国よりはマシなのかもね・・

D112599846このニューシネマの原点と言えるのが1968年の"俺たちに明日はない"。どちらも原題が実在の主人公の名前を記したもの(明日に向かってはButch Cassidy and The Sundance Kid、俺たちに明日はないはBonnie and Clyde)という点も共通項が多いが、内容にリンクした邦題としては明らかに"俺たちに明日はない"の方が数段勝っているような気がする。
救いがないというか、ある面現実的にもこの映画は壮絶なラストシーンがすべてか!?

最後に、ポールニューマンが死去した際、日本では"明日に向かって撃て”や"スティング"を代表作とされていたが、アメリカでは3大ネットワークをはじめ大半のメディアが紹介したのは、これも邦題は酷いが"暴力脱獄",原題は"COOL HAND LUKE"であった。やられても、やられても笑顔で立ち上がってくるポールニューマンの姿が無性にかっこよく、かつ魅力的である。
映画評論家の町山さんによればこの映画は実存主義の名作、他は見なくてもいいと言う程の作品だそうだけど、残念ながら私自身は見た事はない。ただ、原題で検索すると驚くほどのサイトがあるので,日本での評価とは違うのだなと思う。

いずれにしても、ニクソンの政敵とされたほどのリベラルの雄、ドレッシングやミートソースでの利益はすべて寄付していたことでも有名で,癌に侵されながらも2004年には金持ち優遇政策を取り続けるブッシュに対し、貧しい人々を苦しめるのではなく"我々"金持ちからもっと税金を取れと訴えたのが、最後の姿だったというのがこの人らしく、生き方そのもがかっこよかったんだと思う。改めてご冥福をお祈りします。

◇COOL HAND LUKE(暴力脱獄)
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2008-10-03

青春の蹉跌

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石川達三の小説

そして萩原健一主演、長谷川和彦脚本、神代辰巳監督 1974年の映画

井上孝之作曲のテーマソングがよかった

ミドリブタも好きだったなあ。
約束とあわせてテーマソングを盛んにかけていた

個人的には萩原健一はちっともうまくなかったけれど

その下手さが新鮮に思われたのか,結構評判を取っていた

蹉跌・・つまづき、青春なんてつまづき連続なのに

時代の空気は70年安保と高度成長の中で

青春自体がどんどん希薄になっていく時代だったのかも知れない

ユーミンのいちご白書をもう一度もテーマは似ているのかと思う

自分らしくより上手に生きていく、社会とうまくつきあっていけることが

大人の嗜みになっていった時代なのかしら

その意味では、その時代に立ち止まっている自分がいて

この時代になると、それはそれでよかった?時代についていかなかったから

それによって失ったものも多いけれど

今、上手に生きて行こうとしている30代や40代の奴らが正直気の毒に

思えてきた

お〜い、後20年も30年もそんな生活を続けていくのかいって

青春の蹉跌は乗り越えられても

60になってから人生の蹉跌を迎えないでよってエールを贈るしかないみたい

しかし青春の蹉跌のテーマソングって改めていいと思った

サウンドトラックじゃなく後年生で演奏されたものだけど

とってもよかった。

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2008-08-07

様々な訃報に触れて②反省のないメディア達・・

実は河野さんの訃報に関連したメディアの動向には少しばかりは期待していた。
まあ、見事にその期待は裏切られたのだが・・

ゲリラ豪雨によるマンホール工事事件、
中国餃子の新展開、
まもなく開幕の北京オリンピック、
そして広島の日
まあ、やりたくてもいろんな事件があってという言い訳はできそうな事件が続く
されど、メディアに良心とはないのだろうか
1994年の6月27日から翌年の3月20日まで、無能警察の尻馬に乗って、一番の被害者たる河野さんを犯人扱いしてきた愚行を何の反省もなく、奥様が14年間の無念さのまま息を引き取ったこの日を迎えていて良かったのだろうか?
警察が犯人扱いした・・それを助長していたのはメディアでないのか
何より河野さんを冤罪の悲劇から救った?のは、次なる決定的なサリン事件をおこしたオウム自身だったことを忘れてはいけない。
もし、オウムが地下鉄サリン事件を起こさなかったのなら、果たして河野さんの名誉は守られたのだろうか?
メディアは2度とこんな愚行を繰り返さないためにも、
そんな事実さえ知らずに現場を飛び回る若い記者達のためにも
自ら襟を正すために、その事実に触れ、反省の日にするべきではなかったのか?

残念ながら、いろんなメディアを見る限り、それを実践したメディアがなかったことは悲しいというより情けない。
少なくとも第2の、第3の河野さんの悲劇/冤罪が間違いなく今後も起きていくだろう。改善なんて呪文のような合理主義の前に、人として、当たり前の反省が何より重要だとは思うけど。

広島の日、2度と過ちは繰り返しませんの意味さえも共有化できない壊れてしまったメディア、日本人、日本という国に我々は誇りを持てるのだろうか?

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様々な訃報に触れて①

名古屋は昨日、今日と38度の猛暑が続いている。
脳みそだけでなく、体まで溶けてしまいそうだ。人間の細胞は体温が40度を越えると死滅しはじめるそうで、だから子供が風邪で熱を出していても40度を越えるようなら氷風呂に入れても体温を下げろと言われる所以である。
そんな猛暑の性ではないだろうが、ここのところ色んな訃報が続いている。

無論、身内の訃報に触れた方からみれば、人ごとまでかまっていられないのは当然だけど、差し当たってそうでない身にとっては最近の訃報は色んな意味で心が重くなる。

赤塚不二夫さん、手塚治虫や石ノ森章太郎、藤子不二雄の様に必ずしも絵がうまい訳ではない、また文化論的にその作品が語られることも少ないが、だからこそギャグ漫画というジャンルを守ってきたのはもっと評価されるべきであろう。決して"先生"と呼ばれることを望んでいなかったようにも思えるし。そしてギャグ漫画そのままの再婚インタビューや酒無しでは話せないシャイな性格も赤塚さんらしいで許される人柄だったと思う。
最大?の功績は山下洋輔らとタモリという存在をこの世界に引き入れたことだろうか?どこかへ行ってしまったけれど松岡正剛さんの工作舎から出ていたタモリの本(タイトルは失念した)での赤塚さんとのエピソードは思い出すだけでも抱腹絶倒ものだった。
しかし、彼自身は2002年に検査入院した際の脳出血でそれ以来全くの植物人間状態だったと聞く。そしてそんな彼を献身的に看病した再婚した奥様は看護疲れか数年前クマ膜下出血でお亡くなりになっており、あろうことか赤塚さんが亡くなる3日前には再婚の際、立会人として再婚相手と同席されていた最初の奥様も亡くなっており、その葬儀の段取り中に彼は二人の愛した女性の死を知る事無く息を引き取っていたのだ。
スピリチュア的に言えば、そんな彼を一人にしておいてもと言うことでお二人の奥様が呼ばれたのかも知れない。それならダメ夫ながら愛されて天国に連れて行かれたとすれば幸せだったのかも知れない。でも72歳はいくらなんでも若すぎるけど。

少し遅れたけどタモリのコメントが出たのはよかった。悲しみが深いだけ遅れたのだと思う。

そしてソルジェニーツィン。数奇な運命を辿った彼は多分、ロシア一の愛国者だったのだと思う。スターリンに迫害され、フルシチョフに名誉回復を受け、ブレジネフ下では再度追放を受け、ゴルバチョフにより再度評価を受け、しかしエリチェンによる西欧化&資本主義化は徹底的に批判していた。同時にチェチェン等の民族自決を支持していたにも関わらず、KGB出身でチェチェンを弾圧し続けるプーチンをロシアの復権として最後は支持し続けたというのは矛盾と言うか悲劇的だとも思っていたけれど。
彼については、浪人時代、予備校の名物講師が"平和的アナキスト"として評価していたのがずっと脳裏に焼き付いていた。右だろうが左だろうが腐敗する体制/権力には批判的である精神は、私自身の基本スタンスでもあるので、それでもその反作用のように現体制に媚びてしまった最後の姿は、やはり少しやりきれない想いが残ったのも事実である。

最後は河野澄子さん。松本サリン事件の2重の被害者である。松本サリン事件の第一通報者でありながら、無能な警察&尻馬に乗るだけのマスメディアにより犯人にされそうになった河野義行さんの奥様である。オウムの引き起こした事件そのものがあまりに悲惨であったが故にその悲劇性が薄められてしまったけれど、河野家を襲った第2の悲劇の方が現代社会においての罪から言えば重いのかも知れない。
無論オウムの犯罪は時代を越えた犯罪ではあるけれど・・。
無能な警察は救いようがないが、権力の垂れ流す情報を何の疑いもせず横並びで流し続けたメディアは、今一度大反省をしてジャーナリストとは何かをイロハから見直すきっかけにすべきだと思う。
まあ、長野のメディア連中は康夫ちゃん知事時代に無反省の繰り返しをしているから、まったくこの経験が活かされていないとは思うので余計だが。
結局、奥様は14年間、夫が冤罪に陥れられそうになったことも、そこから見事に立ち上がったことも多分理解できないまま、14年を過ごされていたのだと思う。
救いと言えば、訃報の写真が若々しく美しいお姿だったことだろうか?

訃報に触れて、自分に置き換えていろんなことを考えていた。
う~ん、それにしても暑い。願わくばこれ以上悲しい訃報が続かないことを願うばかりだ。

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2008-07-05

ブログと署名記事の間・・

私はなんだかんだと言ってブログ(mixiも)は初心者の部類に属する。
しかし物書きとしては、多分ベテランの部類ではとの自負は微かにある。
勿論、ベテラン=優れた物書きではないので念のため。

ここのバランスが非常に難しい。
ネット=匿名性とやらで無責任な物言いが許される風潮があるものの、
自分自身としては自らのアイデンティティの発露の場と捉えているので、基本的にはネットの影に隠れてヒットアンドアウェイをするつもりは全くない。
できることなら、ブログも署名付(ネット上の人格でなくリアルな人格として)で書きたいくらいである。しかし、どうやらネットの世界ではこうした考えは極めてKYなことらしい。う〜ん困った。

良く言われるのは、そんなこと書いたらブログが炎上するとか、一部だけが引用されてとんでもないことになるとか、親切な知人は忠告してくれるのだが。
でもそれって、かくれんぼして石を投げ合っているようなもので、卑怯じゃないのって思ってしまうのだけど・・。

実はネット上でのこうした前提は、極めて大きなハンディキャップ戦が前提になっている。つまり、mixiやアメーバなんかが顕著だけど、著名人や芸能人のようにリアルな人格としてその場にいる人達とどこのどいつか判らない、いつも石は投げることができるのにしっかり隠れ蓑を持っているネット固有の人格とが、時として同じ土俵で対峙するのはいかがなものか?
リアルな人格では逃げも隠れもできないので、時として不特定多数の得体の知れないネット専用人格者に必要以上の気遣いをしなくてはならない。一見、ファンとか支援者ぶっていても、いつ物陰に隠れて石を投げつけるか判らないわけだし、そのリスクを考えれば、無用な争いは避けざるを得ない。
そんな姿は時としてあまりに痛々しく感ずることもある。もっと自由に、もっと思うままに振る舞えないのかと思うと切なくなってしまうのだが・・

そして引用され云々の件も考えてみれば、どこかの誰かがこんなこと書いていたなんて形で流布されるので、無責任な引用が氾濫するのだと思うのだけど。明確なリアルな人格をもった引用であれば、仮に誤った引用であっても出典を遡ることによって修正できる気もするのだけれど、ネット上では非常識なのかしら。有名人のブログが炎上するときの大半も、その時点での批判的な意見というより炎上マニアというような、物陰の住人達の仕業が大半だと思う。

その意味では私はネット上であっても逃げも隠れもするつもりはない。ただ、署名記者であっても自宅や個人の電話番号などを公開していないのと同じ意味でのレベルで個人情報を制限しているだけである。
これなら、ネット上だからとか、ブログだからと言って奥歯に物が挟まったような表現をしなくても許されると思うのだけど。

例えば演劇担当記者が、公演の内容を批評したとしよう。すべてがすばらしい物とは限らない訳で、当然仕事として辛辣な批評も記事にすることもあるだろう。それを公演主やキャストのファンから批判されることを恐れて、記述内容を変えたりする方が罪深いし、何より記者としての資格はないと思う。
無論、その記者が直接的な批判を受けたとしても、それを理解した上での記事であるはずで、こちらの関係性の方が正常かと思う。

別にここでネット上の人格論を語ろうとするのではない。
今や雑誌、ラジオを抜いて第3のメディアとなったネットにおいて、そこだけのバーチャルな人格の存在が許される方が問題だと考えている。その責任において明確な存在証明が必要だと思う。
ネットのもうひとつ意味があるとすれば、権力の温床となるマスメディアに対抗して市井の市民が発信できるメディアたるネット情報の信頼性を確保するためにも(そんなに大袈裟じゃないけどね)リアルな人格としての発信を続けていきたいと考えている。

と言う意味で、私はおけいさんとまる六をこれからも心から応援していく。
えっ!?そんなこと知っているって?
そうか、でもこれからも自分で書いたことにはすべて責任を持つことを宣言して、逃げも隠れもしませんよ。ってことでお許しください。

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2008-06-30

10000

ココログはじめて1年半、
いつのまにかアクセスが10000を超えていました。
よくまあ、続いた(3日坊主の典型なので)と我ながら感心しています。
ご覧頂く方からみると、
おけいさんやまる六のコンレポばっかりかと思ったら
なんか小難しい,長ったらしい文章ばかりと
支離滅裂だと思われると思います。

一応、文章力の研鑽に努めているつもりではありますが
今後ともよろしくお願いいたします。

尚、下部にあるカウンターはまだ10000に到達していませんが、
これはカウンターを設置して以降の数ですので、よろしく。

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2008-05-24

トップセールス 崩壊する販売店ビジネスモデル1

今、土曜の夜は"トップセールス"を見ている。

ドラマとなっているのは、林文子さんの半生記のようなものだけど、時代的にはまさに団塊の世代とリンクしているのだろうか?と言うことで私よりほんの少し前の世代(と言ってもたかだか数年だが)のカーセールスの現場がある程度リアルに描かれている。
NHK的な配慮としては、林さんはホンダのディーラーだったが、実際のドラマで扱われるクルマは日産車を中心に、トヨタ車が少々と全方位だ。今後BMWへ移っていくので昨夜からはSubという外車ディーラーと言うことでさすがにクルマは大半BMW車だった。
※林さんはBMW東京の社長として有名だった。

こうしたドラマが判りにくいのは、今回の舞台になっているのは自動車の販売店=ディーラーなのだが、ことクルマに関しては一般の人にはメーカーとディーラーの関係が判りにくいことだろう。ディーラーとはあくまで販売店なのでいいものを仕入れて売るというのが基本だけど、クルマに関しては販売店側に商品を選択する自由はない。実質的にメーカーが支配する体系が出来上がっている。こうした関係って所謂ブランド品の直営店に近いけれど、実質的には今やほとんどなくなってしまった単独メーカーのものを扱う街の電気屋さんチェーンストアみたいなものだ。
ドラマでは今後の外車ディーラーに舞台が移行するが、こちらはヤナセに代表されるようにディーラー自体がある程度独立した存在ではある。例えばヤナセはその昔VWの販売店だったが、VWがトヨタと販売権を結ぶなどヤナセの独占的な権利が脅かされるとみるや一夜にして当時のライバルであるオペルに衣替したことは記憶に新しい。本来、メーカーと販売店はこうした緊張感のある関係が望ましいと思う。そう、誰もがビッグカメラやヤマダ電気が松下だけのお店になることを望んでいないと思うのだけど。
その昔流通の革命児と言われた中内功率いるダイエーが松下製品を安売することで松下側が供給をストップさせたことがあったが(建前は自社製品の品質維持ということだったが、実態はメーカーとして、自社傘下の販売チェーン<所謂ナショナルのお店>の権益保護と同時に市場における自社製品の価格決定権を保持したいというメーカーvs系列に依存しない新興流通側=価格は市場が決めるという、の綱引きではあったのだが)、その結果は今や白もの家電は大型販売店で他社製品と見比べて購入するというのが当たり前だし、その価格たるや"オープンプライス"という市場価格ということで流通側の完全勝利となっている。

この一見当たり前の結論が、ことクルマに関しては全く機能していない。過去にはこのダイエーや三越もクルマ販売に乗り出したことがあったが、今ではすべて撤退している。その理由はいろいろあるが、端的に言うとクルマ販売が商売として成り立っていない=魅力がないこと、また最近の道路特定財源ではないが、クルマ廻りにはありとあらゆる限りの利権が絡みついていることだと思う。実はこの部分だけでも本が何冊も書けるほどの問題が山積みなのだが、ここに触れていると話が全く前に進まないので、それは別の機会に。

こうして所謂流通のプロがクルマ販売に携わらなかった=メーカーがそうさせなかったことにより、現状の日本のディーラーは極めて歪な会社となってしまっている。今回のドラマの主役であるセールスウーマン(これも今は他業種のコミッションセールスと区別する意味でカーライフアドバイザーや販売スタッフなんていう耳障りのいい言葉で修飾されてはいる)が、どんなにすばらしくても極めて限定的なクルマしか販売できない世界なのである。
建前としてお客様第一と言いながらも結局、自社扱いの商品の中で一番ニーズに近いクルマを売る事が良いセールスマンと言われる訳で本当の意味でお客のことを見ている訳ではないと思う。そして何よりメーカー側は、自社製品しか売らせないにもかかわらず、その製品以外に有効な販促策を提供しない=提供できない(そう、彼らは物作りのプロかも知れないが流通、販売のプロではないのだ)。だから何十年も前から、メーカー側によって優秀として表彰されるトップセールスの大半はコツコツとお客様の情報を集め、昼夜違わずお客の要望に対応し,信頼を勝ち得ることでクルマを買って頂くという美談を推奨し続けている訳である。確かに物を売るということの基本ではあるけれど数万いる全国のカーセールスマン、ウーマンが同じことをできる訳がなく、結局できないことができるからトップセールスだと言うのには、あまりに知恵がないように思う。

何より、先述したように本当にお客のことを第一に考えるのなら、時には他社のクルマであっても勧めることができることが、本当のお客様第一主義だと思うのだが、その答えは今のスキーム下ではメーカーも販売店のトップ連中も提示することができない。
※日産、ホンダ、マツダなどではようやく全車種一販売会社で扱うようになった(あくまで売れない故の効率面からであり顧客視点とは言いがたいが)。しかしトップのトヨタでは相変わらずの4+1の5チャネル体制で、同じトヨタ車でもチャネル外の車種を扱うことはできない。

そしてもう一つの矛盾は、例えばまだ代替しなくても十分使用できるクルマであっても、新車に代替させることが一方で美徳とされていることである。無論、販売店として利潤を得るためには重要なことだが、片方で顧客の信頼を獲得しろと言いながら、その信頼を逆手に時には不必要な代替、増車を促進することがトップセールスの条件であるのも事実である。
※最近の一番ひどいCMはエコを理由に乗れるクルマを電球のように買替することを推奨しているT社のものがあるけれど、こんな下心ミエミエでそのくせいいことに見せかける(代替のために下取したクルマも中古車として売らないことには商売として成り立たないし、この当りがメーカー視点でしか見ていない典型のように思う)のは提案した代理店も含め良識を疑わざるを得ない。

問題なのはこうした構造上の矛盾を実際には末端のセールスマン個人に背負わせていることだと思う。理想を言えば、色んなメーカーのクルマを取り扱う中で、顧客のニーズに1番ふさわしい車種を勧めるというのが正にカーライフアドバイザーだし、L店で言うところのコンシェルジュ、小売りの常道だと思うのだが、成果の大半が扱えるクルマの善し悪しで決まってしまうという販売店の現実ではトップセールスという言葉が空しく感じるのは私だけだろうか?

メーカーがこうした構造上の矛盾を維持するために使う手として新車至上主義という幻想がある。メーカーとしてはこの幻想を販売店に持ち続けてもらわないと困るのだが。この幻想を支えるのが販売奨励金という制度。昨今ではその分を販売マージンに上乗せするという方向性はあるようだが、市場の状況によってはキレイ事は言っていられないのも事実だ。実はこのことがクルマ販売そのものを消費者側から見た場合の不透明さを助長し、しいては販売店そのものに対する信頼感を阻害している要因なのだ。
※家電量販店の価格はオープンプライスと言いながらも少なくともお店単位での価格はほぼ統一されている。しかしクルマに関しては表示された価格は同一でも顧客によって価格が異なる、所謂ゴネ得が氾濫する世界なのだ。

以下はあくまで判りやすくした例で真実というものではないが、当らずとも遠からずということで見て欲しい。
ある販売店がメーカーとの契約で当月1000台の新車販売が必要だとしよう。
20日すぎどう頑張っても950台しか見込みが立たないとしたとき、メーカー側からどうしても1000台売って欲しい。1000台売れたら台当り5万円の販売奨励金を出すと言われたらどうなるだろうか?
単純計算で+50台で5000万収益が増えることになる。つまり1台あたり100万円だ。100万値引きを増やしてもトントンということになる。さすがに100万値引はないけれど、販売店本部から現場の店舗へとにかくあと50台、どうやってもいいので売れという指令が出る事になる。
さて、現場ではどうだろう。昨日までマネージャーから値引きは20万までと言われていたのに、突然、値引きはいくらでもいい、値引敗戦したHOT客,車検が近い顧客を回れと指示が出る訳である。しかし考えてみて欲しい、セールスマンの心情を。懇意にしている顧客からもっと値引きできないのか?という話をなんとか説得して購入して貰ったばかりなのに、人間関係なんて関係ない、値引き=誠意だと思っている所謂買い回り客に大きな値引きをしてクルマを売る心情を。クルマが売れたという喜びの影で、自分を信頼して購入してくれた顧客を裏切っているという心情を。
こんなことの繰り返しが結局,クルマの販売そのものに対する信頼感、しいてはセールスマンの会社に対する信頼感までも喪失させているという現実。結局,メーカーは自分達が作った製品をさばくだけの場所としか販売店を見ていない状況は販売店のビジネスモデルとそこに働く者の心も崩壊させていくわけである。

余談だが、日産の場合,昔は90%、今でも70%がメーカー直営販売店である。その経営がうまく行っているという話はほとんど聞かない。また、トヨタにおいても大半は地場資本であるが、一部あるメーカー直営販売店が順調であるという話も聞いたことがない。その理由は今更言うまでもないのだが、少なくともメーカー思考での販売店のビジネスモデルが成立していない何よりの証拠だと思う。

さて、あまり悲観的な話ばかりになってもしょうがないが、じゃこれからどうするかだけど、新しいビジネスモデルがないわけではない。クルマがステイタスシンボルでなく白もの家電と同様の道具として、保有から使用への発想の転換が図る事ができれば、新しい展望が開けるとは考えている。プランは一応持ってはいるけれどそれはまた次回に。

そして、ドラマのトップセールスに戻るとモデルの林さんはBMW東京の社長を経て、再建のためのダイエーの副会長となる。更には経済誌によれば、ゴーン率いる日産の執行役員になるそうである。しかもそれは本年7月の株主総会を経て,傘下の東京日産の社長就任前提のことだという。東京日産は東京都下でプリンス東京と並んで日産のビックディーラーではあるものの、メーカー資本の販売店でどこまで林流の経営手法が実践できるのかは、はなはだ疑問ではあるが(現状、東名阪の直営ディーラーは日産の常務クラスが出向/転籍とういう形で社長に就任しているが、現状うまく行っているという話は聞かない),そんな中でどこまで彼女にフリーハンドが許されるのか、不安と期待で眺めるしかないところだ。

いつか彼女の取り組みと私のプランとの比較なり、検証として新しい販売店のビジネスモデルが構築できれば、まだまだ将来の展望が無くなるわけではないが、単に話題性、お飾りとして据えられるだけだったり、メーカー思考で落ち込んだ収益を単価の高い車種で瞬間利益のみを追求する古いモデルで生き延びようとする愚だけはやめてほしいとは思う。

と言うことでこの話題については to be continue またいつかパート2を書かねばなるまい。

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2008-05-16

1972年5月15日は・・

1972年5月15日は忘れられない日なのである。
実は私はまだその時にいる。そして私の六文銭バイブルである
NHK-FM ステレオによる叙事詩 four seasonはこんな風に始まる。
※放送の一部がネット上にアップされている。
 著作権ははなはだグレーだけど(four seasonをクリック)

1972年の5月 ひとつの島がもうひとつの大きな島に統合された頃、
ひとつのフォークグループが解体した・・

冒頭のインタビューで"好きなミュージシャンは?"そして"5月15日は何してた?"と問われた当時の若者達は・・

"あの〜ボブ・ディランが好きです。5月15日ったら沖縄返還の日ですよね?・・家にいて、なんかしてたと思います。掃除とか、だったと思います。よく覚えていません"

"外国ではジョニ・ミッチェルが好きです。日本では僕です。・・15日ですか?あの〜全然何もない日は全然何もしないですからね(笑)だから特別何かしたってことはないと思います。きっと暇な日はどっか喫茶店へ行って珈琲飲んだり,僕は高円寺に住んでるから高円寺の商店街歩いたりしてるんだと思います"

"ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ビートルズ、あぅ〜んっとジルベール・ベコー・・その他諸々。ふぅ〜ん、え〜っと忘れました!"

そして間髪入れず"街と飛行船"のイントロから小室さんの若いリードヴォーカル、そして更に若いおけいさんのコーラスがかぶさっていく。拍手とともに、セカンドコーラスが過ぎたころにナレーションが加わる。

"私は31歳。つまりあまり若くはないのですが、そんな私が若者達と出会うきっかけがこの歌でした。ちょうど1年前のある日、何気なくのぞいたコンサートのステージで5人の若者達が体全体でリズムを取りながら楽しげに歌っていました。私は奇妙な感じのこの歌に興味を引かれて六文銭というグループの名を記憶したのです。グループそれはひとつのコミュ二ティ、協力してことにあたる共同体、私はコミュニティに集う若者達に軽い嫉妬を覚えながら、彼らを注目し続けました。
そしてそんな思いが高じて、私は彼らとの共同作業でひとつのメルヘンを創ってみたいと思うようになったのです。しかしそんな私の思惑にはおかまいなく、時の歩みと若者達の足取りとは常に私より数歩先行していました。
以下のお話は若者達が出会った去年の春から,再び個に帰っていった今年の春までの季節の記録のようなものです。”

そして私は、高校3年生。受験校でありながら、何故か一番自由で、2年の修学旅行で少しだけ距離を縮めた彼女のことを恋とも知らずに気になりつつ、色んな意味で社会があきらめの落ち着きに向かおうとして行く中、賢く生きていくことが、人生にとって大切になりつつある中、浅間山荘の若者達とは違う連帯をどこかに探し求めていた記憶があります。

あれから36年、相変わらず大和民族の調整弁のように、詭弁の中で真の平和と安息を経験せずに、僅かな文化面でのアイデンティティのみが存在感を示す沖縄。

私は子供達を社会人として送り出しながらも、未だに36年前の場所から離れようとはしないやんちゃな人生を送っている。
確かに六文銭は解体したけれど、私は今、その六文銭=まる六を現実の存在として感じられる幸せの中にいる。それは果てしないサークルゲームの輪の中に閉じこもっているのではなく、それこそ回りながら自分らしさを見つめ直す、もうひとつの人生を歩み続けているような気がしてならない。

一度きりの人生だからこそ、自分らしさを第一に考えるお馬鹿さんの人生の方が実は楽しい人生だと思うから。

そして番組冒頭の問いに答える若者とは20歳のおけいさん、23歳のこへさん(らしい!)、そして28歳の小室さんのものである。

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2008-04-26

誰のため? 宗教と政治と自由

今、長野では長野県警によるトーチリレーが行われている。
これほど滑稽なリレーは見た事がない。
サンフランシスコの見せないリレーもおかしいが目的と手段が主客転倒しているようで、多分最初の東京オリンピック(64年ではなく中止になった1940年の方)が仮に行われたのら、似たような様子(各地では中国侵略反対!なんていう抗議行動が起きたりしてね)になっていたのではと思わせる。

そもそも日本には変なオリンピック信仰があるのだが、今では誰もアマチュアの祭典なんて思っていないだろうに、それでもその幻影で見ているのだろうか?少なくとも一部の競技を除けば、今やオリンピックは世界最高峰の競技大会ではなくなっている。ましてや4年に1回なんて、どれほどの意味があるのだろうか?

少し、話が逸れたけど、元々オリンピックはスポーツの祭典ではなく、極めて政治的なショーであることを理解すべきだろう。言い換えれば武力を使わない国同士の戦争のようなものだ。またその開催権を獲得するのためには多大な金がIOC委員の懐に入るのは当たり前だし(彼らはスポーツ貴族、IOC貴族とも呼ばれる)、そして今回の北京開催に当っては開催国となる条件として国内の政治弾圧の緩和を付帯条項に設けているくらいだ(それで言えば今からでも開催国の権利を返上しなくてはならないと思うが)。

そして1964年の東京オリンピックもそうであったように、オリンピックは経済的にも政治的にも世界に対しての国威発揚の場であったのはまぎれもない事実である。今回のトーチリレーも中国がその近代化と世界の一流国の仲間入りを世界にアピールするために、各国の国民に開催をアピールするというよりメディアを活用してその姿をアピールすることを狙ったものであると思う。しかし皮肉にもダライ・ラマというかチベット側の方がメディア戦略にはたけていた(まあ、これも権力を持たない弱者の知恵ではあるのだけれど)。彼らはメディアの注目が集まる場所を活用して、中国のチベット弾圧を効果的にアピールしている。そして中国側が(これも中国側に知恵もないのだが),こうした動きに過敏になって留学生や在留中国人を動員してチベット支援派に対抗しようとすればするほど、更にはカルフールなど反対派に対する中国国内での馬鹿げた組織的抗議活動をすればするほど、世界の目がこの国の未熟さと不気味さを露呈していることにさえ気づいていない。

そもそもこのトーチリレー、オリンピック憲章にはなんらその規定はない。つまり、トーチリレーがなくてもオリンピック自体は何ら支障はない。そう、このリレーは中国政府のものであり、オリンピックの必須用件ではないのだ。

では、そもそもそのトーチリレーはいつからかと言うと
ご存知の方も多いと思うけれどナチ、ヒトラーの時代のベルリン大会からである。まさにナチが国威発揚とために始めたものであり、その意味では今回のそれは皮肉にも正統なトーチリレーと言えるのだが・・

そしてチベット側がこのトーチリレーに焦点を当てたもうひとつの理由は、現在の中国の最高権力者胡錦濤こそ、中国のチベット侵攻の際の責任者でもあるからだ。更に言えば、本来13億の民を持つ漢民族国家にとって、辺境の地チベットはどうでもよい地区であるはずだけれど、今や石油や地下資源の宝庫とも言われるそれが最大の狙いであることは明白であり資源のためにチベットという国、文化を弾圧しているという帝国主義そのものの行動ではあるのだ。そう、ヘタに独立されてその資源を失うよりも批判は無視して国内問題として居直る方が得策と考えているのだろう。中国側の言い訳としてチベットの開発のシンボルとしての鉄道も、実の所はその資源を中心部へ運び出すための運搬手段としてであるし、何よりチベット人同士の婚姻を制限し、民族自体を抹殺しようとする政策(漢民族化浄化策は、ナチのユダヤ人弾圧とまったく同じ構図である)は許されるものではない。特に欧米人が反応するのはこの部分であると思う。

こんな背景があるにもかかわらず、ヘラヘラとトーチランナーを勤める日本のスポーツ&エセ文化人のおつむのレベルも問題だが(一人くらい、そんなリレーには参加できないくらいの事を言う奴はいないのか?),それを何の解説もなく、やれ物を投げ込んだだの、隊列に飛び込んだなどの映像を垂れ流すだけのメディアも似たりよったりかも知れない。

少なくとも理由のひとつにチベット問題を上げて出発地を辞退した善光寺の判断の方が評価されるべきだろう。

ところで、5月にはその張本人でもある胡錦濤が奈良を訪れる。例の"セント君"で別の議論を呼んでいる(こちらも別途触れなくてはならないけど)奈良ではあるけれど、日中交流のシンボルである唐招提寺などを訪れるらしいのだが、奈良の仏教人達はこれをどう捉えているのだろうか?仏教国チベットを弾圧し続ける胡錦濤を平気な笑顔で迎えるのだろうか?
宗教人として、信教の自由を憲法にうたっている日本の仏教人としてどう対応するのかは興味深い。

最後にお気づきかと思うけれど、ここでは一切"聖火"とは言っていない。
何故って?"聖火"と言っているのは日本だけのようだ。英語では単に"the Olympic Torch"となる。確かにオリンピアで採火されるのは聖火なのかも知れないけれど、少なくともスポーツと如何にも宗教的な響き(特定の宗教ではないのかも知れないが)のある聖の字は、今となっては不似合いな気がするのだけれど如何に。

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2008-04-19

左足ブレーキング・・?

なかなかツアーの総括の筆がすすまない。まあ、自叙伝みたいな自分探しの旅みたいなものだから、少し腰を据えて書く事にしょう。と言うことで別ネタで。

小田原のおけいさんのソロでお会いした方が、実は私と同様にCGを中学時代から読まれていたとのこと。2月にはポール・フレールも亡くなったことでもあり久しぶりのクルマネタを書きたくなった。
Gsc_1005
※41年前のCGにはF1のジムクラークとザガートの美しい記事が。クルマ少年の原点がここにある。

CGと言ってもコンピュータグラフィックスの略ではない、通称カーグラは書道などの美術書出版で有名な二玄社が創刊したカー雑誌である。創刊時のメンバーは小林彰太郎さん、高島鎮雄さん、そして当時は東京新聞の写真部にいた三本和彦さんらである(創刊近くから記事を寄稿していたポールフレール氏は2月に亡くなられてしまったけれど、前述の3三方はまだまだ現役かつお元気なのは嬉しい限り。ただ彰太郎さんは酸素吸入器をつけられていて痛々しいが)。そのCGが4月で創刊45周年だそうな。私が初めてCGに出会ったのは中学の頃、恐ろしいことに1967年頃の話であるということは約41年も前ということになる。確か購入した最初が60号前後であったので計算には狂いがない。そう私はフォーク少年の前にクルマ少年であったのだ。

クルマ好きではあったものの、それほど凝った方ではなかった?が、ある事件をきっかけに田舎の本屋でCGに出会ったことで、その後の人生にも大きな影響を受けることになる。高度成長期のカー雑誌と言えば大半がメーカーのPR誌のようなものの中、今やカリスマの初代編集長、小林彰太郎さんはクルマ版”暮らしの手帳”をめざしたとおっしゃるように他誌とを一線を画す編集方針は新鮮で、所謂商品とは似ても似つかぬ広報チューン車でメーカー寄りの記事を乱造するのが(=当然雑誌にとってメーカーは大スポンサーでもあるし)当然の当時の雑誌の中で、自ら対象となるクルマを購入し、ロードテスト&ロードインプレッションなる概念を持ち込んだのもCGが最初だった。何しろ、ロードテストの為に、自動車メーカーに先駆けて5輪の計測器を小野測器と共同開発したくらい徹底していた。

勿論、こうした優れたバイヤーズガイドの側面(当然ながら当時の私はクルマの購入なんてまだまだ先の年齢だし)だけでなく、カーデザイン(ピニンファリーナやベルトーネ、ザガードなどのカロッツェリアの紹介など)やクラシックカー、F1などのモータースポーツなどをすばらしいカメラ&グラフィックスで魅せてくれたことが、その後の私にどれほど影響を与えたことか。(何しろ当時のCGは編集部員と同数くらいのエディトリアルデザイナーが誌面作りをしていた。その中には羽原肅郎さんというこの分野の第一人者もいたのだから)

余談だけど、CGのすごいところは、その後のカージャーナリズムの世界に幅広く人材を提供したことだろう。大川悠、熊倉重治、吉田匠、下野康史はいずれもCG,NAVI出身者だし、カメラマンの畑野進や内山勇、小林稔もCG出身である。(敬称略)こんなCGだからポールフレールをはじめ世界の著名なジャーナリストも貴重な記事を寄せていたのだと思う。大げさでなく、この雑誌のお陰で日本車のレベルが数段上がったし、その進歩の歩みも早まったのも事実だと思う。今や常識のディスクブレーキやハロゲンヘッド、ABSなどの効用を先進のヨーロッパ車との比較において日本車に檄を与え続けたのはCGだと言える。今や常識のボディ剛性などという単語もCGが最初に使ったと記憶している。少なくともアメ車でなく、ベンツに代表されるヨーロッパ車を手本にすべきといい続けた功績には、トヨタを初め日本のメーカーは感謝すべきだろう。

さて、前置?がいつものように長くなってしまったけれど、そんなCGから多くの影響を受けた私は、その後の30年のサラリーマン人生も結局のところその影響を受けたものをなぞるようなものだった。なんだかんだと言って直接、間接的にクルマ関係の仕事を続けてきたことになる。しかもその大半がクルマの販促に関することだったので、門前の小僧ではないけれどCGによって養われた目というか批判精神、文体や美的審美眼的なものは知らず知らずのうちに役立っていたのだと思う。(無論、ある面それが碌を食んでいた会社側にとって都合のよくない面も多く、場合によっては相容れないものが多かったのも事実だけれど、幸運にも当初は上司に恵まれトップにも知己を得て若い頃には随分自由に羽ばたくことができた。しかし上司なり会社側がまともである方が少ないのは世の常なので、合併や転職による環境の変化に連れては尊敬すべき人に出会うことのない恵まれない?会社人生ではあったけれど・・)

さて、4月に新しい歳を重ねる前、従って道東ツアーに出かける前になるが、免許の更新に出かけた。幸い過去3年間は官憲に見つかることなく過ごしたので、晴れてゴールド免許を取得することができた。自称国際G級ライセンス(Gとは自己)の私は、それなりに運転には自信がある(笑)。ポールフレール先生の著書にもある"ハイスピードドライビング"を実践してきた(暴走という意ではなく、安全に速くの意味)。ぶつけられたことは数度あるが、自損以外で他車にぶつかったことは皆無である。クルマの運転ってある面予測&想像力が大きな要素だと思っている。
 Gsc_1004※ブガッティを知ったころ
例えば対向車を見る時もクルマだけでなく運転者の表情を見る。四つ角も漫然と通るだけでなく建物のガラスを使って死角方向に注意を払う、あるいは万一の飛び出しに備え、その際はやや中央寄りに進路を変えるなんてことを無意識に行うことで事故を防ぐことができるのだと思う。こうして書くと私があたかも冷静沈着だと誤解を受けそうだけど、そこが私の駄目なところで,自損事故の大半は駐車場でのバック時、ちゃんとクルマなり柱なりがあることを確認しているのに、よそ事を考えててガチャ〜ンなんですよね(泣)

仕事からみで追浜や栃木のテストコースを走ったこともあるけど、道路が広すぎたりすると結局自分が今どこにいるかがわからなくなっちゃうし、バンクなどはハンドルを切らなくても曲がれるけれど、その為には設計上のスピードを維持しなくちゃならないという意味で、全く一般道路の走行には繋がらなかったと思う。それより走りだす前のハンドルの持ち方,ハンドルの切り方、何よりドライビングポジションの取り方なんかは、確かに役立ったとは思うけど。

そしてもうひとつ、彰太郎さんから紙面を通じて得たテクニックとして"左足プレーキング"がある。そう、クルマのブレーキを左足で踏む事である。今や90%以上の乗用車がAT化された中、元々クラッチを踏むためにあった左足は手持ち、否足持ち不足?でフットレストに置かれたままになっている。そこで空いた左足でブレーキを踏んだ方が合理的っていうことだけではない。そもそもはヒール&トウなど高速ドライビングテクニックにおいて、右足の踏み替えによるブレーキングのタイムロスを防ぐための有効な手法として活用されていたものだ。

私もかれこれ20年近く、この左足ブレーキングを実践しているが、慣れるまではついついカックンブレーキになって、つんのめって止まることがよくあった。左足で微妙なブレーキを操作するのには少し時間はかかるが、慣れるとこれほど便利なものはないと思った。何よりそれだけで、運転がうまくなった感じがするから不思議だ。そして何より運転そのものより両足をうまくコントロール(ついつい利き足ばかり使うと万一の脳卒中になってから苦労しますよ!?)することが心地いい。無理にとは言わないけれど、AT車しか乗られない方にはおすすめしたい。

左足ブレーキング。人間の体ってホントに不思議だと思う。使ってないとどんどん退化するくせに、使い出すとちゃんと使えるようになる。年齢も関係ないみたい。細胞レベルでは常に入れ替わっているわけだから、当然かも知れないけれど、まだまだ使いきっていない部分もあるかも知れないから、まだ進歩する余地が残っているかも知れないと思うと楽しくなってきた。
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※1967年と2008年の45年目のCG、もう41年かあ

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2008-03-20

悲劇のRD A301

最近の話題?はブルーレイ vs HD DVD 戦争の決着である。
興味ない方には頓珍漢かも知れないけれど、2011年問題前で未だに録画がビデオテープ中心の方には"何のこっちゃ"かも知れないけれど世のデジタルおたくにとっては大事な問題だった。
しかし、遥か昔のβ vs VHSのビデオテープ規格戦争に例えられるこの戦い、実はもう少し奥深い問題が隠されていた。休日のこの日、興味や知識のない方のために少し解説を加えることにしよう。

●すべては2011年問題
 この戦いの根源には日本では2011年のテレビの地デジ化が影響している。
あえて日本ではと書いたのは日本の地デジ化はイコールCPRM化+映像規格のハイビジョン化(勿論、再放送素材は画質は従来どおりだけど信号のみハイビジョン化となる)になって個人であっても、これまでのように自由にテレビ番組を録画して友達に渡したりすることができなくなることになる。このあたりについては前の記事をご参照頂きたい。

●本質と異なる戦い
 こうした背景の中、高画質ということは情報量が膨大ということになります。例えばビデオテープでも画質によって録画時間が違うのと同じことです。しかもハイビジョンとなるとその情報量は通常画質の何倍にもなるということです。よくハードディスクレコーダだと300GBとか600GBだかカタログに書かれていますが、これは録画記録するハードディスクの容量で、例えば300GBだとハイビジョン映像は39時間しか記録できないのに対し、通常画質だと最長532時間!も録画できる(実に13倍の情報量)くらいの差があります。

当然録画したものをハードディスク内に留めておけば問題ないのですが、これがいっぱいになると録画できなくなるのでDVDなどにダビング(CPRMだとムーブ)することになります。DVDは一般的には4.7GBなのでハイビジョン画質だと物理的に録画できるのは30分弱ということになる。ただ実質的には録画フォーマットが異なるので通常ハイビジョン放送は通常のDVDには録画することはできないが・・。そこで15GBや20GBのディスクが開発され同時に記録方式も新規のものが開発されたわけです。では何故この容量かと言えば、正に今回の戦いに終止符を打つきっかけとなったハリウッド映画の一般的な作品がハイビジョンで記録できる、つまり約2時間のハイビジョン記録ができる容量という訳です。

少しだけ解説するとこの開発には特許戦争でも有名な青色レーザ光線を使用します。HD DVDは既存のDVDと製造工程等で互換性の高い方式で低コストでの展開が可能ということで当初は価格面でアメリカでは優位に立っていました。容量は片面で1層15GB、2層で30GB、これに対しブルーレイはより短い波長で記録できるため片面1層で25GB、2層で50GBとより大きな容量です。
その上でノートパソコンやデジタル技術で定評のある東芝とNECが中心となって(これにあのマイクロソフトも加わって)HD DVDの推進をはかり、これに対しパナソニックやSONYを中心とする家電メーカーがブルーレイを推進する形でDVD以降の覇権争いを実施したという訳です。面白い?のはその昔、βとVHSで覇権を争ったパナソニック(松下)とSONYが手を組んだということでしょうか。しかし実際にはHD DVDがデジタルIT先進企業が推進し、ブルーレイが白もの家電Gが推進し、その戦いだったと言えるわけです。ああ、時代は変わった!

そして大市場のアメリカではテレビを録画して見るというより映画などのソフトを再生するためのDVDプレーヤーが中心(最早アメリカでは劇場で映画を見るよりDVDソフトとして大画面TVで見る方が主体というのも時代の流れではあります)で、ブルーレイとHD DVDの戦いもハードとしての善し悪しではなく、各映画会社がどちらの方式のディスクを使用したソフトを発売するかにかかっていたわけです。従ってこの戦いもどちらがより多くの映画配給会社を囲いこむかということになりました。
そして2月のあの日、HD DVDを支持していたアメリカNo.1のDVDソフト提供会社であるワーナーブラザースが一転ブルーレイ陣営に寝返ったため、その事業収益性に限界を感じた東芝(HD DVD推進の中心会社)が事業展開中止を決定したと言う訳です。

果たしてハードとしての優劣については正確には言えません。ただ、先ほどの事業主体の観点からみるとデジタル/IT陣営から見ればHD DVDにしろブルーレイにしろ記録媒体としてみれば過度的なものでしかないと思います。今や小指の先ほどのメモリーカードに何GBもの容量のものが普通となっています。あるいは書き出し/読み込み方式にしてもお皿をまわす大きな機構(ドライブ)がなくても端子に差し込むだけでデータの読み書きが可能になっています。つまりHD DVDにしろブルーレイにしろパソコンの世界ではいずれ無用の長物になることは明らかで、それに膨大なコストをかけたくないと思っても不思議ではありません。これに対しブルーレイ陣営のメーカーは家庭用の家電メーカーが中心でビデオテープやDVD/HDDレコーダに変わる商品としてある程度息の長い商品を目指していた訳で(しかも2011年問題で一気に買い替え需要が期待できる=日本独自の事情ですが)もともと意気込みに違いがあったのかもしれません。


●切り札だったRD A30120278010372
 まあ、今となっては後の祭りですが、そんな戦争のさなか2007年12月に東芝はHD DVD対応の重要なモデルを発売しました。それがRD A301です。何が重要かと言うと、これまで書いてきたものをくつがえす機構が搭載されています。つまり、普通(但しCPRM対応ですが)のDVDにハイビジョン画質のままで約2時間の記録ができるHD Rec機構です。目から鱗のようにやれHD DVDだとかブルーレイだとが騒がなくても普通のDVDにハイビジョン画質で2時間記録できるのなら、それでいいじゃんということになります。(勿論、物理的には2時間ですが、多分満足できるレベルは1時間強かも知れませんが)何よりメディアが安いのが一番です。1枚100円以下のDVD-Rならある程度何でも残しておこうって思いますが、1枚1000円以上もするHD DVDやブルーレイディスクはいくら多く記録できると言ってもそうはいきません。かく言う私も本当はハイビジョン画質で記録したいのですが、コピーワンス(CPRM)とDVDの限界で画質を落として記録してきました。今考えるとせっかくハイビジョンでまる六の映像があったのに画質を落としてしまったというのは悔しくてしょうがありません。

ちょっと話がそれました。そうこのRD A301って当時のHD DVDレコーダのトップモデル(と言っても3種だけですが)として、HD DVDの切り札として登場したわけです。(因みにブルーレイ陣営ではパナソニックのDIGAのBWシリーズのみが方式は異なりますが普通のDVDに記録できます)更にはこのA301は東芝お得意のパソコンや同一LAN内の機器との連携が図れるレグザリンクなるものを備えており、セミプロユーザーにはとにかく触手が伸びる機種でした。

ところがです。あの撤退と同時にこのA301が全国の家電量販店の店頭からいっせいに姿を消してしまったのでした。店舗側が売れないから返品したのならともかく、聞くところによると東芝側が強制的に撤去したという話なのです。正直、ああこれで安くなったら買おうって思っていたのに・・。気がついたらどこにもありません。確かにHD DVDディスクの供給不安はありますが、はなからディスク目当てではなくHD Rec目当てだったのでそんなのは本当に"関係ねぇ"のに。この素早さの裏に何があるんだろうって思ってしまいます。

何よりその後の東芝側のリリースによるとブルーレイ対応機は今後も出す予定はないと言っています。つまり今後は永遠にHD Recは世に出ないということです。ネットに掲載されたこんな記事は我々ヘビーユーザーの共通の思いだったのに。

ご参考までに、こんなことを考えたのは私だけでないという証拠ですが、価格.comによると撤退直後価格が大幅にダウンしたA301がここのところ品薄ということで値段がどんどん上がっている。ヤフオクでも落札価格も上がっているという珍現象になっています。とにかく、勝ったはずのブルーレイよりも高い価格で取引されているっていうのって不思議ですよね。

東芝さん、どうです普通のDVD+HD Rec機構付きのHDDレコーダーをお安く発売したらどうですか?
※困難なのは解っています。HD RecってHD DVDあっての機構ですものね。解っちゃいるんですが・・・。

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2008-03-10

上海バンスキング 再見 今度は80年代を総括かな?

考えてみると不思議な体験である。
NHK-BSで昭和演劇大全集を見た。何が不思議って、この番組は昭和に放送されたNHKの演劇ライブラリーの中から、よりすぐり作品を渡辺保と高泉淳子の解説を加えて(実にこの部分だけで30分あった)放送するというものだけど、そもそも本来なら生の舞台を見られればいいのに地方にあってはそれもままならず(丁度生の六文銭を見られなかった感覚に近い),それでもサブカルチャーの代表のような当時の小演劇の中から選択されたそれを、そう25年近く前にテレビで見たものを再び、生でなくまたまたテレビで偶然見たというのは、初代テレビッ子としては喜ぶべきことかも知れない。
同じ舞台を再び25年ぶりに見るだけでレアだろうに、レアな舞台を25年前にテレビで見て再び25年後、偶然またその舞台中継の放送をまた見るというのは・・。
いろんなものを結果,生ではなく、テレビで吸収しかつサブカルチャーにあこがれながらも地方にへばりついていた身としては、その事自体にも、そう若き頃に飛び立つことを躊躇った自らの80年代の思い出として、総括するべきことかも知れない。

当時上海バンスキングという面白い演劇があることは知っていた。初代不思議女優の代表のような吉田日出子さん以外には知った役者さんはいなかったが、これもテレビのNEWSで役者さん達がこの舞台のためにジャズバンドを組んでプロ並の腕前で話題になっていると言うものだ。そもそも100人程度の小劇場(初演は78、9年の六本木自由劇場とか,テレビはある程度評判になってからの82年博品館劇場での収録)でスタートした演劇でそこまでするかというのが気になり(まあ上野樹里のスィングガールズは軽〜いパクリの雰囲気だが)それが放送されると聞いて、見逃すまいとテレビを見た記憶がある。
そして家のどこかに、βテープに録画した記憶もあるので、最近のブルーレイ&HD DVDの戦いもあり、ふと、VHS vs βの確執が思い出される(私は当然画質優先でβ派だったけど見事に裏目に、新しいもの好きが祟って一時β、VHS、8mmビデオ等々で8台位のビデオデッキがあったっけ!?)。
肝心のステージは噂に違わず面白い舞台であった。ここで初めて笹野高史さんも知ったし、余貴美子さんも認知した。正直、大学は東京へ行きたいと思ったことはなかったけれど、東京にいるとこんなにいろんなものに出会えるっていうのは正直衝撃的でもあった。
(資料によればオンシアター自由劇場は串田孫一の子でもある串田和美が佐藤信、斉藤憐、吉田日出子という淙々たるメンバーで1966年に旗揚げされた。所謂老舗の劇団から独立して新しい演劇を目指したものであるが上海バンスキングは劇団としてもその地位を不動したもののひとつと言える。まあ、こんな経緯自体80年代らしい、時代の空気を感じさせるものだと思った)

ON AIRではステージそのものだけでなく、博品館劇場の楽屋やロビー風景も映し出されていた。そこには82年当時の風景が、それもあこがれのサブカルチャーに極自然に関わっていられる人々の風景が、そして何より番組にナレーションを入れているのは中西龍アナウンサー。勿論、若い吉田日出子さんや藤川延也,笹野高史,余貴美子さんの若々しい姿もある。不思議なもので、彼らの姿に見ている自分のその時代に戻っていることに気づく。

自由を求めた上海で、時代の流れ、戦争に翻弄されるジャズメン達の姿は、多分演劇そのものとしては特別なものではなかったのだと思う。しかし、それを圧倒する演奏、うまく言えないけれど、ステージ全体の存在感で何かを伝えようとする力が当時の新しい演劇活動のマグマとして伝わってくる感じだろうか?
オンシアター自由劇場。その名前自体にも、自由という言葉に意味もなく引かれていたのかも知れない。やはりこれも80年代の個人的な総括と言える。

さて、昨日は70年代、そして今日は80年代、実はこの82年、個人的にはもうひとつの別の広場であるパックインミュージックがその15年の歴史に幕を降ろしている。時代がバブルに向かう中、新しい時代のはじまりの中で、もうひとつの別の広場が無くなろうとしていた。それは深夜という特別な時間が無くなると同時に、この時代アングラと呼ばれたものの多くが(まあ、フォーク歌謡みたいなもんか!?)あるものは地上に現れ、あるいは更に地中深く潜航することになった時代なのかも知れない。

全然関係ない?話だけれど、最近の話題でES細胞があるが、再生医療によって寿命の意味がなくなってくるっていう話。アクセスで分子生物学者の福岡伸一さんの話で(彼の著書としては"生物と無生物のあいだが有名),この話題になった時、果たして20歳で亡くなった人と120歳まで生きた人の記憶、思い出に優劣があるかという話があった。つまり長く生きたからその人自体の価値があがるわけでないということを言いたかったようだけど、その中で思い出っていうのは時間軸に関係なく存在するという話をしていた。つまり楽しい思い出っていうのはその大小では存在するけれど、それを時間軸の中で人は記憶(記録)していないと言うのだ。確かに。やはり人は何年生きたかではなくてどう生きたかだとつくづく考えた次第、同時にもう50を過ぎたなんていうのも、実はナンセンスで、生きている限りすべての可能性があるということだと思う。その意味でも懐かしんでなんていられない。少しでも多く、いいものとの出会いを実現しなくてはと思った。若い頃に躊躇して触れる機会を逸していた分、今、頑張らねば。

またまたそんなことを書いていたら、広川太一郎さんの訃報が届いた。
69歳。無論、病に倒れられたのだけれど、あの若々しいナレーションがもう聞けないのかと思うと・・。那智ちゃんや羽佐間道夫さん、そして路線は違うけれど槙大輔さん、テレビッ子としては忘れられない声優さん達だけでなく、同世代には私にとって大切な人々があまりにも多いし、余計、最早、時を躊躇することは許されないと考えた。
これで総括になっているわけでなく、まだ総括する時ではないと言うことか。

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2008-03-07

コールドケース まる六 連合赤軍・・72年の総括

偶然だけどAXNでコールドケースを見始めた頃、三浦事件が復活した。
噂によると今、サイパンでこの事件を追いかけている記者連中は"疑惑の銃弾"自体をよく知らずに取材(事件を一夜漬けで頭に入れて)をしているそうである。

1981年ってそんなに昔なのだろうか?ジミー佐古田や某女優、フルハムロード、スワッピングパーティ当時の週刊誌、ワイドショーのために存在した事件だった。こうなると"ジェスチャー"の"ターキーさんこと水の江滝子"さんなんて博物館行きなのだろうか?彼は彼女の甥っ子として話題にもなり、それをきっかけでテレビ界から姿を消している。とは言え訃報は聞かないものの90歳くらいになられているはずだけど・・。

文春の"疑惑の銃弾"って言うのはとにかく衝撃的だった。悲劇のヒーローから一転世紀の極悪人に変遷する過程を、衆人監視のもとですべて白日のもとに曝されたというのは、見せ物としても戦後最大のものであったと思う。無論、彼の特異すぎる人間性がこの見せ物を更に大仕掛けにしたのは言うまでもない。

さて、本題のコールドケース。アメリカには殺人など重要事件には時効がない。時効がないということは結果迷宮事件も多いということになる。まあ、シャレが効いているというかこうした迷宮入り事件をコールドケースと呼ぶらしい。ロスの事件がどうか知らないが、彼の地にオダギリジョー(時効警察)はともかく、専任でそんな事件ばかり追いかけているわけではないと思う。多分、関係者が亡くなったり、あるいはしがらみが消えて新たな証言者が現れたり、当時は証拠になりえなかったDNAなどの科学の進歩で真犯人があぶりだされるようになったのだろう。つまり、執念深く追いかける老刑事なんていうのではなく、ある日突然解決の糸口が見つかるっていうものだと思う。

その点でもロス事件って不思議な展開だと思う。なんか日本なんかに任せておけないのか、あるいは何やら政治的意図でもあるのかいなと思っていたら、おいおい死んだはずの共謀罪かよっていう展開が見えてきた。
おばかな晋ちゃんの沈没で、それこそ氷漬けになったと思われた悪法案がこの事件でまた陽の目を見させようということらしい。しかも、法相はアルカイダのお友達にして、六法も読めないのかと疑うような言語的センスのない悪人面のハトポッポである。今更頓珍漢なことを言ってもこちらが麻痺しているので、その隙にと思われたらたまったもんじゃない。
実はこれと良く似た構造のトリックが最近もあった。例の漁船沈没事件、その直前の状況を考えてみて頂きたい。沖縄の米兵の破廉恥事件が大問題になっていたのをお忘れか?しかも事件を起こした米兵は基地内ではなく基地外に住居を所有している。これはあまり大きく扱われていないが、奴はパスポートももたず主権国の地に税金も払わず生活をしていたことになる。それを許す独立国なんて世界中を見ても日本だけだろう。そして奴は海兵隊員。海兵隊とは敵国への上陸を最大の任務とした部隊である。なぜ先守防衛、自衛のために駐留をお願いしている?のならこんな部隊が必要なのか?でも、あの事故ですっかり世間の関心は移ってしまい、どさくさまぎれに訴えを下ろしたということで釈放までされているのだ。それを狙ってイージス艦がぶつかったとは思いたくないけれど、少なくとも誰かはほくそ笑んでいるはずである。

三浦事件の本質がどこにあるのか?全く無関係に思われる事象が実は緻密に計算された企みの上であることを我々は決して見逃してはならないと思う。

さてこんなことを書いていたら、凄い話題の映画があるそうである。
若松孝二監督作品"実録・連合赤軍 あさま山荘への道程"三浦事件の約10年前、違う意味で日本中をテレビに釘付けにした事件である。そこに至る学生運動の純化した軌跡がそこにある。そこにオウムを見るか、あるいは日和見の中で不完全燃焼した青春そのものを見るかは、人それぞれであろう。ナンセンスと総括が飛び交った時代。遅れて来た全共闘世代の私は、そのものではないかわりにそれ以後の金満世代とも隔絶された中途半端な世代だけれど、引き戻される恐怖とそれでも理解不能な感覚のズレにどこまでも落ち込みそうな気配がある。その事件は1972年2月・・

そう、最後の六文銭が、おけいさんが輝いたあの1年である。
いろんな意味で、体中、頭の中の永久凍土となっていたものが、溶け出す気配がするのは私だけだろうか?
そんな中で北海道に自分探しのまる六おっかけツアーを敢行するのも、何かの縁、意味があるように思う。

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2008-02-26

ロス疑惑からオールナイトニッポン

何やら無理矢理25年以上前に引き戻される週末だった。
御三家?の内、唯一現役の深夜放送枠オールナイトニッポンの40周年ということで歴代のパーソナリティがリレー方式で2日間に渡り放送をした(らしい)。当地はCBC-Rがネットしてはいるがさすがに40時間をLFに売り渡すことはできず、雑音なしで聞けたのはレギュラー時間である深夜1時(曜日は異なるが)ナインティナイン(現役のパーソナリティ)だけだったが・・。
※99は今でも聞いているANN唯一のプログラムである。岡村君は十分に賢いし、話芸を持っていると思う。パック崩れとしては爆笑問題と伊集院のTBSだけは聞かない訳にはいかないが。

世間一般では私のマイミクさんも日記に書いているが,久しぶりにメディアの前に現れた"かの人"が話題だが、彼はパックもセイヤングも制覇しているので,まあ何かのタイミングが良かったのだろう。実はオールナイトニッポンには恨みとまではいかないが、その昔熟知たる思いを抱いていた。いくらクロスネットとは言え本来ならLF(ニッポン放送)のANN(オールナイトニッポン)はCBCではなく、SF(東海ラジオ)でネットするのが普通なのだが、ローカル局でありながら"ミッドナイト東海"が人気で、結局SFではなくCBC-Rでネットすることになった。(当時のCBCもしばらくは自社アナで深夜放送にチャレンジしていたが、SFの成功とは無縁でネットへの切り替えを画策していた)てっきりパックインミュージックがネットされると思っていた期待は裏切られ、いとしのパックはずっと雑音の彼方で聞くことをしいられたという次第。

因みにミッドナイト東海が人気だった理由は、若かりし頃の森本レオや鶴瓶がパーソナリティをつとめており、深夜という中波が遠くまで届くという特性もあってローカルを超えた人気を博していたことによる(らしい)

らしいと書いたのは、ずっと名古屋在住にもかかわらず、サムパックや小室パック、ミドリブタパック、そしてもちろんナチチャコパックと深夜放送はTBSのパックインミュージックしか聞かなかったので、そしてパック以外にも六文銭がレギュラーだったヤングスタジオラブや馬場こずえの深夜営業など今に通じる趣味の世界のほとんどはTBS-R発ではあった。従ってTBS以外の特に深夜放送については論評するほどの知識がないのだ。

LFがなぜこの時期に40時間ものANNを放送したのかは知らないが、最近の団塊世代狙いであるのは明白で、懐かしフォーク同様にこんなものまで"懐かしの"対象になったのかと思うと愕然としてしまう。深夜放送なんて、そしてそれを支えるリスナーなり、パーソナリティもこうした"懐かし症候群"とは無縁の存在として(そんなありきたりの価値観を嫌って、深夜にもうひとつの別の広場をそのすみかとして生き抜いて来たのだろうに)"懐かしさ"という感情はうわばみのように普通の時間、思い出としてすべてを飲み込んでしまうのだろうか?その意味でも、そんな思惑まるけのプログラムに"かの人"にはのこのこ出て行って欲しくはなかったのだが、否、彼はもう何十年も前ににぎやかな楽園である対岸に渡った住人だったのかも知れないな・・・。

なんてことを考えていたら突然の"ロス疑惑"である。
うまく表現できないが、メディア全般の(まるで漁船の悲劇などなかったかのように)予定調和的な取り上げ方には、少なからず違和感を覚える。ロス市警がまるでテレビドラマそのもののようなコールドケースよろしく昔の事件を粘り強く追いかけていたと言えば聞こえはいい。しかし、これには無罪にはなったものの、国民の大半が実はクロ(ただ証拠がないだけで本当はクロだという認識)という共通認識を持っているからこその取り上げ方だと思うけど、別の視点で見ればおよそ司法権を日本に委譲しながら、この機になって最高裁で無罪を勝ち得た被告を再逮捕するというのは、あまりに異質ではないだろうか?これがM氏以外の事件だったら、同じようなとり上げ方をするのだろうか?全く違う犯罪での逮捕ならともかくも、それほど日本の最高裁の判断とは軽いものなのだろうか?これでは仮に無実ながらも最高裁で死刑判決を受けた者にとってはやりきれないだろうに、自分の命がそんなに軽いものだったのかと。そして、あなたが、アメリカでなんの心あたりもない事件に巻き込まれて犯罪者に仕立て上げられたとしよう。苦労に苦労を重ね、日本へ戻っての裁判で何とか無罪を勝ち取ったとしてそれをまた旅行に行ったアメリカで突然警察が、"日本では無罪でも関係ない"って突然投獄されたとしたら・・

少なくとも、日本国の政府は自らの顔に泥を塗られたのも同然だし、独立国の裁判制度を蔑ろにされたわけだし、それ以上に自国民の自由と権利を守る義務があるのだから、こうした逮捕に値する決定的な事実なり、証拠の有無を求めるくらいのことをしてもいいのではないか?それとも裁判自体がアメリカの属国レベルの意味しかないことを認めているのだろうか?
そして今回のことを是とするのなら、沖縄で犯罪を犯しながら基地内に逃げ込んで起訴さえしていない連中を基地の中、アメリカまで追いかけてどんどん逮捕すべきだろうに。

私自身もM氏の潔白を信じてはいない部類の人間だけど、それとこれとは次元が違う話だし、国とは何かと考えた場合、日本って本当の独立国なのかしらと心配になってきてしまう。倖田來未やイラクの人質事件の例を上げるまでもなく付和雷同的にバッシングを煽動するメディアの姿勢も困ったものだし、30%以下の支持率でもまるで人ごとのようにへらへらしている日本国の首相も、独立国とは何ぞやと今一度考えるべきだろうに。(まあ、逮捕された国がロシアなり韓国であれば、違った対応であるのは明らかだが)

懐かしさに流されるのは心情以外にはさしたる罪はないけれど、雰囲気、共通認識に流されるままに大切なものを見失うのはなんとも情けないと思った週末でもあった。

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2008-02-23

何かがおかしい・・壊れて行く恐怖

いつからだろうか?以前はどんなにおかしなことでも見方を変えれば何とか立場によっては、わからないでもないということがあった。ところが、最近起きることときたら、そんな理解を超えている。

例としては適当でないことを承知でいえば、"禁じ手"が"禁じ手"でなくなってしまったようだ。
世の中は本音と建前があるのは常識としても、およそ立場ある者の出所進退は建前論で評価されるものであった。仮に本音では”そこまでしなくても"と思われることでも建前に則って判断することによって、その立場の権威というか、一般庶民から尊敬なり、敬意を評されるものとしてコンセンサスを得ていたのだと思う。
こう考えると"小泉"という男の罪深さがますます大きくなっている。彼の居直り、すり替えは一見本音を全面に出したわかりやすさを演出することにより、大衆受けを狙ったのではあろうが、結局のところ自分の趣味/信条(信条というと聞こえはいいが、アメリカのご機嫌取りのための郵政民営化だったことは今後ますます明らかになっていくだろう)だけで、政局をおもちゃにしたあげく、実態のない2/3の議席で勝手にフリーハンドを得たのごとくやりたい放題を繰り返した。
更には、元文部科学大臣、大蔵出身の与党幹事長が何の臆面もなく、禁じ手法案を出すきっかけすら与えてしまったことは、ロストジェネレーションどころか、ロスト政治にしてしまった罪はあまりに大きい。そして、こんな禁じ手がさしたる非難を受けないと、官僚や政治屋連中に気づかせてしまったことが実は一番大きな罪かも知れない。

社保庁の例を出すまでもなく、官僚という生物は基本臆病であるにもかかわらず、目に着かないことに気づくかあるいは本音ですり替えればいいとわかると、その知恵を最大限に使う連中である。そのへりくつの付け方は天才的で、ましてや居直りやすり替えまで許されるとわかれば常人では太刀打ちできないであろう。

今、話題の道路特定財源のでたらめな使い方にしても、アロマキャンドルやカラオケセットを買う事が問題ではなく、税金という人様のお金をそんな感覚で使うという心根の問題である。その感覚で評価された建設見積なんて信用できるだろうか?ましてや会計監査院の目の届かない特定財源である、へりくつをへりくつで監査したってどんな意味があるのかと思う。ただでさえ人の金である。そして一旦自分の懐に入った金は絶対に手放さない。そんな官僚におんぶにだっこの与党は、その矛盾にさえ目をむけようとはしない。(わずかな救いは定期的な政権交代を望む世論が6割を超えたことだろうか、この場でも何度も言っているけど、権力は必ず腐敗するののだ、だからこそのリセットであり、この国を不幸にしたのはこのリセット無しに60年も来たことだろう)

それにしても恥知らずなのは、ガソリン税を下げると環境汚染が増えるとのたまった首相と官房長官である。そのガソリン税でクルマが走るために道路を作ろうとしているのに、これも小泉流のすり替え、居直りの論理なのかしら。ほんと恥を知らない政治屋ほど質が悪いものはいないと思う。

そして、もはや言い尽くしたけれど、アフガンの山岳ゲリラ(そうアフガンには海がない)掃討のためにインド洋でガソリンスタンドをするという発想!そんな海自だからこそ、再び起きた漁船への体当たりである。この一見関係のないように見えることでも、事実を隠蔽する体質は共通である。嘘に嘘を重ねたあげく、給油記録を改ざんしたり紛失したと嘘をつくことを許して再開した、ガソリンスタンドにそもそも国民の生命と財産を守る自衛隊であるという本質は忘れてしまっているのだろう。

テレビで顔が売れれば、その本質に問題があろうが簡単に首長にしてしまう愚を繰り返す国民も偉そうなことは言えないが、あご足付きで駐留頂く米軍のために、市役所建設をストップさせ、あげくは謀略メモまでバラまいて米軍受け入れ派を市長に送り込む国の横暴は、どこの国の政府かと言わざるを得ない。これも市政に介入する国の禁じ手か!?

そして未だ植民地のような沖縄で、再び起きた米軍兵士による犯罪。その内容についてはどうかな?って思う点もないではないが、数年前の米軍ヘリが大学に落ちても手も足も非難すら明確にしようとしなかった属国意識の我政府を信用しろというのに無理があると思う。屈辱的な地位協定という植民地憲法を当たり前のように受け入れている政府は、その全容を国民の前に明らかにする義務があると思う。私が知る限り、世界中に駐留する米軍との協定でこれほどアメリカに都合のいい協定は存在しない。それほどまでしないといけない理由があるのなら、国民に知らせる義務があると思うのだが。

中東の笛が大きな話題になったが、これもスポーツの世界では禁じ手だけど、果たして日本国の政治屋や官僚連中は、自国に有利な判定を繰り替えさせルールまで変えようとするクェートの王族を非難することができるのかしら?その本質は同じのように思えるのは私だけなのかな?

昔見たサムペキンパーの"わらの犬",筋は覚えていないけれどとにかく怖い映画だった。
何が怖いって、例えば夜戸締まりするとしても、扉や窓ごとぶっ壊して入ろうとするものには無力だよね。変な言い方だけど、夜の戸締まりって泥棒さんとの一定の信頼感で成り立っているんだよね。それが通用しない、つまり"禁じ手"を使って入ってくるようになったら、こんな恐ろしいことはないと思いませんか?だから、"禁じ手"を当たり前にしてしまったことは、開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまったように罪深いことなのだと思う。

壊れて行く恐怖。実は当たり前のことが当たり前でなくなることほど、怖いことはないと思った次第。

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2008-01-01

08年雪の元旦に思う

Gsc_0472(雪=よく見えない,の中の山茶花もいいもんです)


天気予報どおり年末からの寒波は予想通り,晴れ間もありながら冷たい空気が支配した08年のはじまりだった。

新春最初のNEWSが槍ヶ岳での雪崩遭難というのも・・。
槍ヶ岳ってほんとの最後の最後だけぽっかり峰があるだけだから,雪崩というとまだ尾根下あたりなのだろうか?状況は判らないが,冬山に入るだけの経験がある方達だったのかが気にかかる。
そして平地でも午後から雪が舞ってきた。積もるほどではないけど雪の元旦って何年ぶりだろうな。
30日のサンマのテレビで元名古屋大学教授,今は退官して別の大学にいる武田教授が宮崎哲弥と一緒に,環境に関する常識が間違いだらけだということを話されていた。
曰く,ゴミの分別は無意味,燃やしてできるダイオキシンなんて無害みたいなもの,温暖化なんて怖くない=地球はこれを繰り返してきただけ,割り箸はもっと使おう=間伐材を使わなくなって日本の林業は衰退,結果山が荒れ水害や土砂崩れが起きている,ゴアは自分の説に異論を唱える科学者を陰謀で追放した最悪の政治家=ゴアのバックには環境技術産業がついていることは有名な話だ等々この件については随分前の日記に書いたのだけど,ノーベル賞受賞のゴアの映画が如何に嘘まるけかということを同時に認識した方がいいようだ。(こうした科学の常識がファッショみたいなメディアとそれを悪用しようとする政治屋の思惑で偏向させられることには,もう少し注意を払った方がいいと思う)
たまたま環境の話だけれど,記者倶楽部が牛耳る大本営発表体質しかない日本のメディアは,郵政選挙の例でも判るけど尻馬にのって煽ることはあっても,本質を冷静に分析することはしない。そのくせブームが終わると途端に前から判っていたみたいな自己責任放棄を平気でする奴らだから・・

おっと新年早々話が横道に逸れてしまった。冬は寒いに越したことはない。所謂自然に対し畏敬の念を払わない連中が増えてきたのは悲しいことだ。そんな奴らが流行のように言う温暖化なんて,良くみてかないと本質と違うことにのせられることがあるから,どんなに良く聞こえる,どちらかというと耳障りのいい表現には,自分自身の智慧を最大限に活かして自らの判断をしなくてはならないと思う。

山岳ゲリラの海洋封鎖とか,そもそも厚生官僚の天下り先を確保する理由で始めた年金制度とか(これは50年前の公式文書に時の厚生官僚が堂々と記載している内容=元の意識がこれだから国民のことなんてはなから考えるはずもない),旧細菌兵器部隊の残党が始めたミドリ十字という製薬会社を野放しにした結果が血液製剤による悲劇の繰り返しになっていること,実は国の借金がどんどん減っていることをひた隠す財務省,その他防衛省の悪態ぶりまで実はすべて前から判っていたことなのに,記者倶楽部は何も書かないんだよね。何故って,連中は選民意識が強くあわよくば自分も政治に関わりたいとか,情報を小出しにもらうためには都合の悪い事を書いて睨まれたくないみたいに,向いている方向が全く違うんだよね。

多分,年内には間違いなく選挙がある08年,垂れ流される情報に流されるのではなく自分自身で真実を追究しようと思う気概がないとどんどん,騙され流されていくのは目に見えている。国民が賢くなれば,それに伴って国自体の政府や政治もレベルが上がるはずだと思う。

せっかくネットで色んな情報にアクセスできるのだから,ひとりひとりがほんの少しずつでもいいから進歩しなくちゃね。
風に舞う雪を見ながら,元旦に考えてみた。

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2007-11-26

キングコーン 懲りないアメリカ

悲しいけれど世界はアメリカという国を中心に廻っている。
かの国はテロとの戦いといって,どんどん世界中に戦争と不安をまき散らしている。
100歩譲って,その存在価値はロシアや中国など大国の覇権主義の台頭に対する
僅かな牽制くらいしかないと思うのだが・・
情けないのはそんなレベルの国の思惑に,金魚のふんのごとく何の意志もなくついていくしか
できない,外交にも値しない日本国の政府であろう。

これが地球の規模に関係のない小国での話なら,哀れみの眼差しで眺めるだけでよいのだが
こんな国が世界の中心というところに問題の深さがある。

今,原油高,ドル安,株安の元凶でもあるサブプライムローン。グリーンスパンの食い逃げみたいな
施策で,見せかけの成長率を維持するために貧乏人に超低金利で金を貸し,不相応な住宅をどんどん建てさせて住宅産業というか全体での景気を維持しようとしたもので,その債権を金融商品として全世界にバラまいた結果が,今のサブプライムローン問題である。とにかく何がめちゃくちゃかと言えば,年収200万円程度の貧困層にプール付の住宅を建てさせるような政策で,破綻するのは目に見えている。そのつけで誰も金利が払えなくなって,貧乏人は家を追い出され,金融商品を取り扱う一部ファンドだけが泡銭でボロも儲けし,不良債権を掴まされた世界の銀行がババを掴んだという話である。

では,何故アメリカがこんなバカな政策を維持できたかと言えば赤字国債をどんどん発行して,それを日本に買わせて自転車操業を繰り返してきたと言えるのだ。(最近では中国にも買わせているとの話だが)。こうして不良債権をバラまいて得た資金で日本の企業や資産をアメリカの企業が買いまくっているというのも,ふざけた話だが,おばかな日本の国粋主義者が,アメリカなんて日本が金を引き上げればすぐ潰れてしまうと嘯くけれど,話は逆で,潰れてしまうとその国の債券をしこため掴まされている日本が逆に潰れるという構図である。

つまり日本はアメリカの自転車操業につき合わざるを得ない状況に自ら墓穴を掘り進んでしまったという訳である。会社でも同じだが,潰れてしまえば,その会社への貸付金は戻ってこない訳だから,仕方なく追加融資をせざるを得ないという,バブル時代の銀行みたいなものだ。本質的な解決策を取らないわけだからそのリスクもどんどん膨らんでいく。

どう考えてもいつか破綻するのは,余程のバカでも無い限り判るはずで,その意味でもアメリカは確信犯のような気がする。うがった見方をすれば,アメリカの発想でいけばその帳尻合わせのために戦争でも起こしかねないのではと思う。この点でいえば,アメリカの方がアルカイダよりも質が数段悪いと言わざるを得ない。そう,アメリカの顔色を窺っての給油法案どころの騒ぎではないはずなのに・・。

とまあ経済面だけでもとんでもない国なのに,次は食料の話である。
アメリカで公開されている映画に「キングコーン」という映画がある。
この映画,内容を聴けば聴く程恐ろしくなる話の連続である。しかもサブプライムローン同様,
アメリカだけの問題に留まらないのが問題である。アメリカが執拗に牛肉の輸入制限の撤廃を迫る理由も透けてくる感じだ。
映画の内容は農業の経験が全くないエール大卒の二人が1エーカーの土地にトウモロコシを作って,それを追いかける映画なのだが,食物連鎖というかアメリカという国の本質みたいなものが見えてくる映画である。詳しくはアメリカ在住のコラムニスト町山智浩さんのサイトとTBSラジオのポッドキャストでストリームの町山さんのコーナーで確認して欲しい。

まず,アメリカのトウモロコシの作付面積は日本列島の広さとほぼ同じ!
日本の米作よりも補助金まみれで,トウモロコシを作れば喰いっぱぐれはない!
そのかわり収穫されるトウモロコシは驚くほど安い!
収穫するのみ手間は全くかからない。何故なら遺伝子組換で気候にも害虫にも強い品種なのだ。
収穫されるトウモロコシは澱粉質以外なく,まずくて食用にはならない!
60%は家畜の飼料に,残りはコーンシロップ,コーン油,コースターチ,バーボンになる。

アメリカの牛は牧草でなくコーン飼料に育つ。結果,狭い牛舎で効率的に飼育できる。動きまわらないので脂肪が多く柔らかくなる=吉野家がアメリカ牛肉に拘る訳だ!。しかし,元々牛は消化しにくい牧草を食べるために反芻するようにできている。と同時に消化するための強い胃酸がある。ところが,消化しやすいコーン飼料ばかり食べるので胃酸により,胃だけでなく体自体も胃酸で溶かすようになってしまった。それを防ぐために胃薬や抗生物質を大量に摂取させられると言う訳だ。

一見安くておいしい牛肉になったものの(そのお陰で1ドルマックや100円マックになるのだが),薬付けの牛肉を大量に食べることになっているのだ。

更にキューバ危機以降,砂糖からコーンシロップへの転換が進み,結果,肥満や糖尿病が大幅に増加しているとも言われている。考えてみると,マックへ行ってハンバーガーにコーン油で揚げたポテトとコーンシロップ入のコーラを食べるとすると,体内には大量にコーン成分を取り入れていることになるのだが・・。これでバーボンでも呑むにとになれば,何をか言わんやである。

アメリカらしく単純と言えば単純だけど,ここに来て更に恐ろしい動きがある。
そう,バイオエタノールである。この原料もトウモロコシである。単純に更に多くのトウモロコシ畑が広がるのか,はたまたアメリカの食を支えるコーンとのせめぎ合いがはじまるのか,アメリカ内の食料危機で収まるはずもなく,結果地球規模で弱者が食を失う事態が予想される。こうした貧富の差がテロを生む土壌になることをアメリカは理解しているのだろうか?

そして最初の話題。本来なら経済破綻しているアメリカに資源を買いまくる金はないはずだけど,現にアメリカは毎年100兆規模の赤字だと言われているが,そんな国の国債を律儀に買いまくっている国がいる。どんなにひどい債務国であっても流動性資金が廻っているうちは倒産はない。というより倒産させれない。そしてこの国はこうした泡銭で戦争ごっこや見かけ資金で架空取引のようなバーチャル資産を増やしている。何しろ貧乏人にローンで家を無理矢理作らせ,そのローンを債券化して金融商品としてまたぞろ別の金儲けにしようとする国だ。その結果は貧乏人はいよいよ破産して,家を追い出され,その家を叩き売られて一部の金持ちが更に資産を増やしていくという格差が広がっていく。その作られた格差が日本など周辺にも広がっていくという構図だ。

懲りないアメリカ。この21世紀のモンスターに鈴をつけることはできるのだろうか?

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2007-04-29

たくみの評論 07.04

激動というほどではないけれど、この4月は後で振り返るとあのことが・・っていう事が多い月でもあった。

統一地方選。無理矢理作られた2大政党と言いながら、無所属という政党?を主張する首長候補が当然のように多数当選した。まあこれも見方を替えれば政党隠しにすぎないけれど。

戦略的なじらし作戦で結果墓穴を掘った形の浅野は善戦にはほど遠い成果しか上げられなかった。予想されたとは言え当選するや本音の傲慢さが復活し た石原との違いは何かと云えば、本当にやりたかったかどうかの差ではなかったのか? 石原は負けるかも知れないと思えば、平気で爪を隠し頭も下げるように なった。これを都民が騙されたと見るのか、そこまでして知事を続けたかったと見るかは微妙だろう。浅野が本当に知事になりたかったのかどうか、主義・思想 を越えて本気度を都民が感じとってしまったのだと思う。

そして後半にはテロまで起きた。単なる跳ね返りの暴挙と見る人は少ないだろう。金の呪縛から逃れるための隠れ蓑とも取れるが、一部週刊誌に犯人と いうか背後組織と安倍の関係を取り上げたものがあったが、急にトーンダウンしたのは何か意味があるのだろうか?本当に関係があったのなら大スキャンダルだ が、週刊朝日よ、まさか君まで東京スポーツ並の飛ばし記事じゃないだろうね?
この真相にもう少し突っ込まないと事件直後の安倍の意味不明なコメントや当然当選すると思われた娘婿があっさり市職員に負けた理由も裏がありそうに思えてくるのだが?こちらはさすがに情報が少なくてこれ以上は語れない。

そしてこうした事は予想されたことだけど、人として多少なりともの後ろめたさがあるとできてもやらないという知恵が働いたものだが、この男にはこうした常識さえ通用しないようだ。
国民投票法案があっさり成立した。国民投票自体否定するものではないが、その意味についてどれだけ真摯に考えたのだろう。小選挙区制により中間的 な意見が反映されにくい政治の中で、更に少数の意見でも全体の意見として通用してしまう制度に走るのだろうか?民主主義っていうのはまどろっこしく手間が かかる制度であることを理解しなくては。だからこそ白か黒かと言い切れない政治の世界で現状一番進んだ制度として機能しているのに、はっきりさせることだ けに血道を上げるのは本末転倒だと思う。その点ではせっかく国民投票するなら、せめて有権者の過半数以上の賛成がないと成立しないくらいのバーにしないと 直接?民主主義にする意味がないと思うのだが。

更に今度は集団的自衛権の判断方法の見直しときた。しかも姑息にもお抱え学者&エセ文化人を集めて諮問会議ときた。結論の決まっている諮 問なんて体のいい騙しではないのか?しかも何が怖いのか大新聞連中も正面切って批判しようとすらしない。週刊朝日の記事といい、何か見えない所でプレッ シャーをかけるシステムが出来上がっているのだろうか?

そして2チャンネル。背景は不明だが都知事選、沖縄の補選に向けて中傷書き込みが集団的に行われたそうだ。都知事で2万件、沖縄では8万件が行わ れたそうだが硬直化するネット右翼のなれの果てとは思うが匿名性のある言葉の暴力は今後益々増加しそうで嫌悪感を感じる。背後組織があるとも云えるが、そ れに政治家が関わっていないことを、これは祈るのみである。

続いてタミフルの処方制限も理解しにくい話だ。副作用がないと言い切るなら制限自体無意味だが、果たしてあるのに隠蔽していたとなれば犯罪以上 だ。この製薬会社の影のオーナーがラムズフェルドで、全世界の7割のタミフルを日本が保有と聞くとジグソーパズルのような闇を感じるのはたくみだけだろう か?

アメリカではアジア人による大量虐殺事件が起きた。きれいごとを云うつもりはないが、人の人智を越えた武器は凶器にしかなりえないことを再認識す べきだろう。しかし視点を変えると32人の殺戮は数というより1人1人の命の問題であって、人数だけにスポットを当てるのは間違いだと思う。しかし同じ 頃、イラクで100人以上の死者が出たテロが起こっているにも関わらず、この事件に比べ極めて扱いが小さいのは人の価値に差でもあるというのか?このテロ の遠因自体もアメリカが関連しているのだから、負の連鎖の中心にあるアメリカとは・・

スポーツに目を移すと西武のアマを巻き込んだ裏金疑惑。しかしこの疑惑、誰も驚かない疑惑?ということが一番の疑惑だ。見せかけのドラフト制度の 陰で金にあかせて選手を自由枠としてきたのは誰でも知っているはずなのに、よってたかって驚いてみせるという仕掛けはいかがなものか?
あげくのはてに高校野球の特待生まで憲章違反だと言い出した。高校野球で金儲けをしてきた朝日,毎日新聞社が今更なにを・・。本当に知らなかったとしたら、貴方達本当のおばかさんですよ。記事なんて書けっこないですよ。
笑えるのは何故裏金が判ったかというと、西武では堤王国だったので1銭の金まで報告しなくてはならず、そのための記録が残っていたというわけだ。 そう、少なくとも西武では裏金は存在しなかった。すべて表の金として処理された訳だ。堤さんもひとつくらいはいいこと?をしていた訳だ。
いずれにしても本音建前の日本を象徴する話だと思う。

建前ついでに今日の話題。あるイラン人家族がイランへ強制送還された。確かに17年も不法滞在していたのだが、日本の法律では日本で生まれ日本語 しか話せない家族の子どもまで強制送還の対象だという。借地借家法でも一定の期間住んでいれば所有権が認められるというのに、この家族を無理矢理イランに 返す日本の国というのは、野球の裏金同様にご都合主義の建前国家だと思う。このレベルの国境なんて誰が望むのだろう?

まだまだ多くの事件というか出来事があったが、この1ヶ月だけでも矛盾だらけのすり替えや理解しがたいことのオンパレードだった。筑紫哲也じゃないけど、この国の行方、人の愚かさに悩みはつきない。

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2007-04-21

歌の鮮度 宝物の歌

Guest言うまでもなく大好きなことと言えば、まる六、おけいさんのこととなる。何故ファンなのかを語り出すとそれだけで一冊の本が出来上がってしまいそうなので、これまでの色んな所で書いてきた歌の鮮度を中心にまとめてみよう。

信じられないが六文銭が解散したのは、今から35年前の1972年である。どれくらい前かと言えば、私が高校生だったと言ってもイメージがわかな いので、あの沖縄がアメリカから返還された直後、すでに他界されたがグァム島で横井昭一さんが見つかったころと言えばどれくらい前か判って頂けるだろう か?六文銭に関して言えば、いまや教科書にも載っている?出発の歌が世界歌謡祭という(今思えば結構うさん臭そうな番組だが)イベントでグランプリを取っ た翌年でもある。音楽的に言えば、今やメジャーレーベルになったフォーライフレコードの誕生は3年後の1975年であった。

つまり相当昔ということである。当時はまたフォークソングブームの中心というか、フォークソングという名称より意味不明のニューミュージックというジャンルが大きくなり出した頃でもあった。

客観的に見れば六文銭というグループが解散する理由はおけいさんの結婚以外は見当たらないくらい順調な活動具合だったし、もっともっと素敵なメロ ディがどんどん生まれてきそうな感覚があった。しかし、もともと六文銭というグループ自体がグループでないと活動できないというより、メンバーは個々で活 動しながら、必要な時に集まれば個では表現できない別の個性が発揮できるという希有なグループだったので、解散という表現が不似合いだし、グループとして の活動をしばらく休止したという表現の方が正しかったと思う。

だからだろうか28年後、こへさんのコンサートにゲストとして集まった小室さんとおけいさんが一緒になって当時の歌を歌ってもなんの違和感もなく自然に歌えたのだと思う。見る側に違和感がない以上に多分,歌われたご本人達が最も違和感を感じなかったのだと思う。

もちろん、小室さんとこへさんはその間も歌い続けてこられたのだけど、おけいさんは28年間は全く歌い手としての活動はして見えなかった。つまり、六文銭としての歌は(中にはソロで歌われるものもあったけど)永い間、レコード、CD以外では封印されていたことになる。

少し話が逸れるけれど、歌って結局のところ人間が認識できる音の順列組み合わせにテンポを加えて構成されているものだと言えるが、その組み合わせ 方やテンポの加減によって人にとって心地よいというかスイートスポット自体は無限ではないように思う。そしてこの組み合わせ自体にジャンルは存在しないわ けだから、クラシックから民族音楽までの中で、基本となる組み合わせ及びテンポ等に関しては出尽くしているのかな?とも思う。昔のように海外のヒット曲を 誰もが瞬時に情報をえることができなかった時代には、高名な作曲家先生があたかも自分のオリジナルのような顔をしてコード進行やメロディをつまみ食いして 自分のヒット曲にしていたのは有名な話だし、今でも意識的かどうかは知らないけれどミスチルの曲の多くはビートルズのコード進行に類似している。

昔と異なり、すべての情報がアーカイブ化され誰でも簡単に検索できるようになると新たな曲を作る場合にも、目的に合った良いと思われるコード進行 なり、メロディラインなどの情報を打ち込みあたかもオリジナルのごとく状況で商品として大量生産されるようになると、ましてやタイアップやCMのように一 定の箇所だけを繰り返し聞かされるようになると曲、歌としての鮮度は急速に落ちていくように感じられる。但し、これは歌に限定したものではなく、例えば映 画のシナリオ作りなども同様にヒットする条件として、核となる設定を打ち込めばなんとなくストーリーが出来上がってくるという時代である。リメークと正直 にうたっているのはまだ良心的なほうで、おいしいところのつまみ食いみたいな映画が増えたことが、ある面ハリウッドの衰退にも繋がっていると言える。

少しと言いながらいつもの癖で長くなってしまったが、この時代、真のオリジナル曲っていうのが生まれにくい環境であることは確かだと思う。意識、 無意識に関わらず生まれた頃から多くの音楽に接している訳だし、音楽を目指すのであれば尚更である。その中で曲作りをするにあたり、聞いた曲,好きな曲に 似たものが生まれるのは当然と言えば当然である。そのせいか、一瞬いい曲だと思っても、そして大抵がタイアップやCMのようにおいしい所だけを繰り返し使 用されるわけだから、あきが早いというか、同じように作られた曲の中に埋没してしまうような気がする。更に言えば使用されるサビの部分と全体の曲とがとて も同じ人が作った曲とは思えないバランスの悪い曲も多い。まあ、こんなことばかりしてきたためか最近のCMはオリジナル回帰というか、"聴いたような気が する曲"よりその元の曲を使った方がいいという発想に変わってきたのかも知れない。

そしてそのオリジナルと言われるものの多くが70年代のフォーク/ニューミュージック系に多いというのも、単純に団塊の世代向けというだけではな いと思う。その時代の歌の多くは、それまでの一部のプロの作曲家からシンガーソングライターという感じで非常に幅広く,多くの作者が所謂”おいしい旋律" を消費した時代だったのかも知れない。(う〜ん、大分近づいて来たぞ!?)

そこで六文銭である。六文銭にスポットライトが当たったのは実質71〜72年の約1年である。勿論それ以前にも多くの名曲があるのだが、多くは小 室さんの個人の歌だったり、劇中歌だったりしたし、贔屓目でなくてもグループとしてのバランスが一番良かった(言い方を替えれば小室さんが突出していな い) のはこの時代の六文銭だと思う。本当にこへさんと小室さんの組み合わせで紬出されるこの時代の曲は何か魔法のようにすばらしい曲が溢れ出てくるような感じ だった。幸か不幸かそのすばらしい曲の多くがグループとしてより輝きを増す曲だったし、名曲であるにも関わらず活動期間が短かったために露出そのものが少 なかった。つまり72年の時点で多くの名曲が事実上封印されていたことになる。

だからこそ2001年にまる六として復活した時は、まるで28年振りに埋蔵金を掘り返したように新鮮な歌として蘇ったと思う。35年前の歌なのに鮮度が全く落ちていないというか、前述のような時代だった故に懐かしいけれど新しい歌として蘇ったと思う。

更に奇跡的なのは、小室さん、こへさん、そしておけいさんのハーモニーはその歌われる宝物の歌同様に全く色あせることなく、それどころか洗練さを 増して復活した。さすがにおけいさんの声が二十歳の頃と同じという訳ではないけれど、その癒しの魅力と透明感を増した歌声はかけ値なしに魅力を増大させた と思う。 

歌の鮮度 何者にも代え難いオリジナルの響きをもった六文銭、まる六の歌は、こんな時代だからこそ、より魅力を増しているのだと思う。これら宝物 の歌、そして新しく生まれる歌達を35年前と同じように、無理することなく、大切にそして楽しく歌われていくことを願うばかりである。

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2007-03-17

判っているけど

父は現在79歳。しかし現役の地方議員ということもあり老人は老人ではあるが、年相応とはとても言えないくらい、まあ同居する身からすると鬱陶しいくらいの元気さであった。そんな父が突然倒れた。幸い倒れたこと自体は瞬間、あせりはしたが決定的な状況には至らず済んだのだが、その原因というかベースの体調は、やはり年相応にかなり痛んでいたことが明確になった。

こうなると、これまで元気だった分の反動というか、事体調に関してはマイナスにマイナスに作用しているようだ。まるで動いていることで均衡がとれていたものが、そのバランスを失ったように(多分,そのことを一番感じているのが本人だと思うが)隠れていた病原が次から次へと頭をもたげてくる。現代の医学は、いくら進歩したとは言え、こう守勢に回るとモグラたたきのように叩いても叩いても違うところから病原が頭をもたげてくるようだ。

多分に心理的にも弱気の虫が出てくるとこうした病原どもは益々勢いづくようで手に終えない。いつの間にかとても79歳には思えなかった元気な父が、所謂80歳の病弱な老人に変容していくのが手にとるように判る。病は気からという言葉のままにどんどん弱っていくのが判っていても、どうすることもできないもどかしさが見守る側にも無力感を増大させていく。

判っていたこととは言え、まぎれもなく目の前の父は80歳の病弱な老人であり、昨日のような79歳には見えない元気な父には戻れない。せめてずる賢い病原どもの先回りをするような治療が成功し、普通の80歳の老人レベルには戻れることを信じて、ベッドの上の父を眺めるのみである。

判っているけど、もう一度あの鬱陶しい父で(家族以外にとってはとても頼りになる人間ではあるが)いいから、1日でも早く戻って欲しいと願うばかりである。

3/17 20:48 たくみ

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2007-03-03

正しいことは

最近聞いた中で、目から鱗というか常識と思っていたことが非常識だったということがあった。聞きようによっては御用学者の戯言と取られかねないが、さらにこの話を否定できる話があれば、是非聞かして頂きたいものだ。
メディア受けや社会正義ぶる偽善者たちの反論を待っている。

およそ聴取率とは無縁の番組でNHKですらどうかというものがある。私自身もネットされていない地域であることからPodcastによる視聴であるが、実は番組名からしても理屈には合っているようだ。Science Xitalk 科学好きのたくみが見つけたこの番組、すべてがすべてという訳でないが、今回ご紹介する内容に関してはこれまでの自分の考えが偽善者のそれであると反省させられた内容である。見方によってはアルゴアの不都合な真実こそ、まさに真実を隠蔽していることになりかねないのかも知れないと・・。

以下キーワードはどのように感じられるであろうか?
●リサイクルこそ環境破壊の元凶である
●紙のリサイクルと森林破壊は無関係
●京都議定書に関してのみはブッシュは誠実な大統領だった

どうだろう進歩的な文化人達がぶっ飛びそうな内容ばかりだが、以下をご覧あるいは以下にリンクする内容をお聞き頂ければ我々がいかに巧妙に思想操作をされているかが解ってくる。

以下の内容は名古屋大学教授 資源材料学の武田邦彦氏の話をもとに記載している、直接聞きたい場合はこちらから

人は誰でも全能の神でない以上与えられた情報によって自らの判断を下さなければならない。しかしその情報自体がフィルターのかかった、あるいは一定の意図を持ったものだとしても、その内容自体が耳ざわりのよいものであったとしたら、我々は何の疑いもなく、真実と思い込むだろう。

今、国是のように資源リサイクルが歌われ、それこそが地球にやさしく進歩した考えのように思われている。だからこそリサイクルこそ環境破壊の元凶なんていわれると心ある人は目を向いてしまうだろう。しかし資源リサイクルが言い出されたころ環境団体はむしろ消費が拡大すると反対し、生産側のメーカーが賛成したという事実がある。今やコンビニのゴミ箱ですら当たり前のように可燃物、非可燃物の仕分けがされている。更に言えばリサイクルの代表選手のように言われているペットボトルも専用の仕分け箱があるのが普通だ。人は誰しもゴミを仕分けして出した時点で環境にやさしく社会に貢献したように錯覚する。

ではこうして仕分けされたペットボトルの再生率が何%かご存知だろうか?なんと3%にすぎない。うちのカミさんもせっせと出しているプラスチックのトレーなどについては1%だという。つまり仕分けされたゴミも仕分けされないゴミもそのほとんどが焼却されているのだ。(誰でも、じゃあ何のための分別かと思うが、少なくともリサイクルの観点では、ほとんどが意味のない分別であることが明らかになってくる)

更に言えばペットボトルを再生してペットポトルを作ろうとすると新品をつくるより3.5倍のエネルギーを消費する。経済性のみでなく環境的にもまったく逆行した理屈であることは誰であっても理解できる。そして先ほどの話ではないがほとんどリサイクルされていないにもかかわらずペットボトルの生産量は10年前15万tだったものが51万tに増加している。再生率を考えるとリサイクルが叫ばれて以降燃やされるペットボトルが35万tも増加したことになるがいかがだろうか?

当たり前だがだからどんどん新品のペットボトルを作れと言っているのではない。リサイクルという免罪符を与えるだけで、ペットボトル増加を押さえるという意識すら失うことになってはいないのかということ。

我々は陶器やガラスの器は当然のように洗って再利用しているのにペットボトル等プラスチック製品は見せかけのリサイクルで使い捨て&環境破壊を繰り返しているという事実を忘れてはいけないと思う。万一、ここに記したことが嘘だと思われる方が見えたら行政でもどこでも聞いてみればいい。期待する回答は絶対帰ってこない。それより分別収集なり処分なりの過程に環境保護とは無縁のヤミのような利権構造が見えてくるはずだ。

続いて紙のリサイクルと森林破壊は無関係。実はこれはもっと理解されやすい。地球温暖化の元凶として森林破壊によるCO2の処理能力の減少も理由のひとつとされているが、ここまでは事実である。では森林破壊の状況でいえば、要因の大半は途上国における市街地化であり農地化、焼き畑農業によるものである。

では紙の生産に必要なパルプとはこれらとは無縁の北方の針葉樹林帯が中心である。そしてこの針葉樹林帯に限れば逆に3%ほど増加しているのである。そう誰かが紙の消費と森林破壊を無理矢理くっつけて論じてきたことになる。この間違った論理の浸透はペットボトルよりも深刻で紙のリサイクル率は今や40%と言われているが、元々紙は太陽エネルギーで育った樹木を材料とする点では環境に優しくて、逆に再生紙を作るためには結果として大量の石油エネルギーを消費することになるのだが、どちらが環境に優しくエコなのかは言うまでもない。

それ以上に新紙の需要が落ち込んでパルプを廃棄しなくてはならない状況に至っていることを考えると、この間違った論理は犯罪的と言える。こちらも同じく、だから紙をどんどん消費しろというのではなく、例えばチラシの裏面等を再利用することより廃品回収で紙をリサイクルに廻す方が美徳という風潮は改めるべきだということだ。

そして最後のテーマ、京都議定書に関してのみはブッシュは誠実な大統領だった”。この議定書を批准していないアメリカ=ブッシュはけしからんという論調が、ゴアの映画を引き合いに出すまでもなく世界の一致した見方だと思う。たくみのブッシュ嫌いからすれば当然のことではあるが、そもそも京都議定書とは何かといえば今後のCO2の排出量を低減させようというものである。実は別の場面でたくみはこのことを否定的に論じたことがあって、地球上の多大な貧富の差がある中で富の固定を意味するやり方には問題有りとしてきた。

つまりCO2の増大は文明の発展、経済の発展のバロメータでもあるからだ。すでに富を得ている国の論理で発展途上国の経済成長を封じ込めるような政策はフェアではないと。ロシアのプーチンは批准しているが、堂々と批准した理由を自国の発展の状況を考えた場合、日本や西欧諸国に排出権(1〜2兆円といわれる)を売れると判断したあくまで経済的な理由だと述べている。日本にしても現実には全く減少はさせないくせに批准して、不足分は買えばいいという発想である。

つまり極めて偽善的な判断だ。それに対しアメリカが批准しない理由は自国民に対し、経済を衰退させるようなものを国を守るべき立場の人間として批准することはできないという極めて正直な理由をのべている。それをロシアや日本の国民は本気で自国のエゴだとか、身勝手だと言い切れるのだろうか?それこそ天に唾することになると思う。そして残念ながらこれについての答はまだ見つかっていない。

しかし、これまで述べた中でエココンシャスと思い込んでいたことが実はより大きな石油エネルギーを消費している矛盾の実体もある。精神的な京都議定書にこだわる前に、実利的なところから始めることが重要ではないだろうか?

以上常識の嘘、何が本当に正しいかを考えるためにはきっかけになる放送だと考えた次第。2007/03/3 たくみ

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2007-02-17

島宇宙論

最近、podcastでアクセスLife を良く聞く。

アクセスは全国ネットなのでわざわざpodcastで聞く必要もないし、配信されるのは一部だからラジオで直接でもいいのだが、時々podcast専用の配信もあるのとわざわざ録音してまでということもありpodcastで聞く場合が多い。

G_chgimg08_2 G_chgimg07_1 MCは月-木が渡辺真理 (実は山本モナの代役でもあった)、金は麻木久仁子が担当だが、日替わりゲストが多彩なのと、podcast専用で配信されるM2スペシャルは社会評論/分析としても秀逸だと思う。何しろNHK以外で宮台真司の生トークが聞けるのは他に多くはあるまい。ましてや宮崎哲弥とのダブルトークだから。
年末年始にかけて約3時間の対談を5回に分けて配信されている。(これは前にもかいたっけ)。宮台用語の島宇宙、死にオチ、メタファ、痛みは中々聞きごたえがあります。

そしてもうひとつのlifeはサブタイトル文科系トークラジオとなっており、30代の男が色んなテーマでトークを繰り広げるというか、部活の世間話という感じで、こちらも社会学者?鈴木謙介がメインパーソナリティをつとめている。
Pix_charlie
世代的にはアクセスにシンパシーを感じるのだが、アクセスがポスト全共闘世代なら、lifeは言葉の定義に議論は別れるものの"ロストジェネレーション"世代でもある。いずれも一定の喪失感のもとにある世代ではあるが、lifeには宮台言う所の島宇宙を感じてしまうのは単なるジェネレーションギャップなのだろうか?

いい意味での個人主義に関しては違和感は感じないものの、個人の宇宙の中での保守化は気になる。私はこの世の中に右翼も左翼もなく、保守と革新というか、権力と反権力しかなく、次世代へのエネルギーは良くも悪くも反権力=現状への不満というか物足りなさがあって、生まれてくるものと考えている。島宇宙での満足感が高いのは構わないがその宇宙の塊である銀河にも関心を持つべきものと考えるが、lifeを聞いていると、時々島宇宙で物事を完結している場面に出会うことがあるのだ。

反権力をイデオロギーに重ね合わせて定義することに嫌悪感を感じることには同意はするが、権力/既成なものに対して鈍感になるのは、結局のところ反権力の動きに対してネット右翼的に攻撃を加えたり、やたら権力側にすり寄った付和雷同的な世論形成と無縁ではないように思うのだが・・。

変に物わかりのいい世代は権力者にしてみれば、極めて御しやすいし、カルトにとってもほんの少しの工夫で陥落させられる都合のいい世代なのかもしれない。実はこの世代間にも一つの世代が存在するのだが、肝心の顔が見えないのは辛いところだ。(単純に言えばバブル世代か?)

いずれにしてもこの国の行く末については世代間論争は必須と、ふたつの番組を聞きながら考えた次第。 2007.2.17

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2007-02-06

再び珈琲の話

考えてみると珈琲を飲み始めてかれこれ40年以上たつ。
私が生まれてから住み続けるこの地には、いわゆるモーニングサービスで有名な
喫茶店(方言的に言えばキッチャテン)が沢山あるが、これが原因で
珈琲を飲み始めた訳ではないようだ。

庭師だった祖父は、結構な趣味人で家には祖父が集めた掛け軸や茶器が多くある。
その趣味の起源は知る由もないが、想像するに一応高名な庭師だった祖父が
出入りする家は所謂お大尽で、当然趣味人も多かったように思われる。
門前の小僧ではあるまいが、仕事の中で、家人よりあれこれ趣味の話を
聞かされたのは容易に想像をつく。その中で祖父自身がこうした世界に興味を
持つのは当然のこととして、そして何より祖父の仕事は茶の湯の世界には
ふさわしい日本庭園を創り維持することだから。

そんな祖父のお気にいりだった私は、記憶にある限りでは3歳頃には
祖父の立てる抹茶を飲んでいた記憶がある。祖父自身は私が7、8歳の頃には
他界しているが、今の私の成り立ちには随分影響を与えているように最近益々
感じている次第。(ひょっとすると父親以上かも知れない)

まあ、3歳から抹茶を毎日飲んでおれば、珈琲などは刺激物でもなんでもなく
自然に飲むようになった記憶がある。珈琲自体は瞬間、ネッスルのインスタントの
時代もあったが、多分中学の頃からは、原則引いた豆でのレギュラー珈琲だった。
これは、父親が早朝会と言って毎朝7時頃から仕事前に寄る(と言っても会社のすぐ裏だが)喫茶店のママから、お店用の豆を分けて頂いていたのが始まりだと思う。
このお店では、ネルドリップが基本で、当時我が家にも金魚救いの親玉みたいな
ネルドリップがいくつかあった。そしていつしか、我が家で珈琲を立てる役目は
私のものになっていった。(自慢じゃないけど、私の立てた珈琲が一番おいしかったからだが)

珈琲の入れ方には、サイフォン、水だし、ネルドリップ、ペーパードリップにエスプレッソマシンによるもの等色々あるが、やはりネルドリップが基本中の基本だと思う。確かにサイフォンをいくつか並べた絵は喫茶店にはふさわしいが、何故か関心の珈琲を抽出する瞬間が、器械まかせというか誰が立てても同じだが、ネルドリップは立て方により味が確実に変わり、いかにもプロがたてる珈琲という感じがする。極細のお湯さしでドーム状に珈琲を蒸らし、その後一気に抽出する様は、職人の技というか、誰でも彼でもできるというものでなく、喫茶=プロならではの味を楽しめる、そう子どもの頃感じた茶筅の華麗な動きで立てられる抹茶に通ずる味わいが何より楽しい。

と言う訳でその後の珈琲も、もっぱら土地柄のサービスメニューに走ることなく、プロの味、プロの技を目指して喫茶店巡りをするに至った次第。正直、珈琲を味わうことも大切だが、それを立てるプロの様を眺めるのも中々楽しい。その点では以前紹介したことのあるびぎんはこの二つの楽しみを同時に味わえる数少ないお店のひとつではある。

茶の湯に通ずる珈琲道。私なりの珈琲の楽しみ方ではある。

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2007-02-03

生きるということ

朝起きたら、大杉君枝さん飛び降り自殺の報。
大杉君枝?ひょっとして鈴木さんのこと?
出産後の体調不良が原因?本当のことは判らない。
別に近親者でも何でもないが、
日テレでは好きなアナウンサーだった。
新聞では初代アイドルアナとか書いてるけど、
なんでもかんでも類別化するなよ。
彼女しか判らない痛みがあったのだろうけど
大抵の場合、死や悲しみと対極の人ほど
その死は突然やってくるような気がする。

高校卒業後、数年した頃、中学時代一番元気だった
友人が自殺したと聞いた。
誰もが信じられなかったけど、やはり本人しか
判らない痛みが存在したのだろう。
死なないに越したことはないけど
うかつに理由も判らずに"死ぬ事なんてないのに"とは
言えない。
死ぬ事の方が生きているより苦痛なことってあるはずだし
私が死なないのは、単に恐がりだけなのかも知れないから。

今日、眼鏡を新調した。
1月に夫婦で受けた人間ドックで、若干メタボ気味のカミサンと異なり
どこにも異常がなかったが(まあ、こんなことで見つかるはずもないが)
何故か左目だけ視力が大幅に落ちていた。
社会人になるまで、目がいいことだけが取り柄だったのに
パソコン導入直後に担当になったのが災いしたのか
1.5の視力が1年足らずで0.1程度まで悪くなってしまった。
今では眼鏡をかけて0.8程度なのだが、左目だけ眼鏡をかけても
0.4しかないとのご託宣だったのだ。
左右のバランスが悪いと疲れることもあり購入することにした。
形状記憶のチタンフレーム&流行のスクエアレンズだが
まあ、かける本人が流行もんでないので・・・。

最近、父親とはほとんど会話がない。
まあ、土日しか接点はないが、父は8時頃から6時頃まで
大抵、近所の知人たちと離れで麻雀をしているので
土日でも時間を共有できるのは夕食時の10数分しかない。
気の毒と思う反面、父自ら蒔いた種でもあり
会話は息子である私ではなくカミサンとの二言三言だけである。
父にとっての孫たちもほとんど(私より)避けている
雰囲気が伝わってくる。
まあ、60年程の年齢差があるから仕方がないが・・。
父の経済力で救われていたことも事実であり
感謝していない訳ではないが、近親者故の蟠りもあると思う。
多分、外から見れば親子3代がなに不自由なく生活しているのは
羨ましく思われているのだろうと想像できるが
やはり、当事者にしか判らない痛みというものは存在する。

すべてが見かけによらないとは余りに単純な話だが
やたらと定義したり、類別したがるこの時代
同じ枠内やよりどころがあることに汲々としているが
やはり、ひとりひとりが生きている中には本人にしかわからない
痛みが存在しているは忘れてはならないと思う。

2007.2.3 PM9:36 takumi

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