とは言えまだ1週間ほど残しているけど、このあたりで1年をおさらいしておこう。最近LIVEネタばっかりでお休みをしていたので少し長めの独り言です。
この1年を一言で言えば、新自由主義の終焉だと思う。
日本人は"新"とか"自由"と言う言葉をポジティブにとらえるのだが、究極の性善/性悪説を持ち出すまでもなく、その前提となるのはコモンセンス=常識が共有されていることが必要である。
ベルリンの壁の崩壊であたかも資本主義が善で、共産主義が悪と定義づけられてしまったけれど、実は共産主義も資本主義も市民社会を守る思想としては不完全であることが明確になっただけで、その優劣を意味するものではなかった。しかしどの時代にも扇動者とそれに乗るハイエナのような人種は一定数いるもので、そんな奴らが打ち出の小槌のように扱った思想が新自由主義だと思う。
アメリカや他の国家のように多民族が原則となるところでは法律という明文化された投網で人々のコモンセンスの最低限を維持する必要があるが、日本のように比較的少数の民族で成立している国家、共通言語なり歴史的な共通体験を礎とした国家においては法律以前の"当たり前の常識"が人々の行動規範となっていたと思う。
そんな日本にアメリカを核とする扇動者一家の下っ端として登場したのが小泉/竹中ハイエナ軍団で"改革"とか"競争"というこれも耳触りのいい言葉を駆使してこの国に"新自由主義"思想を蔓延させた。彼らの悪行については、ここでも何度も述べてきたけど、結局彼らの浅はかさは競争の果てに何があるのかをイメージすることができなかった愚かさ、つまり彼らのいう競争は真に自由な競争ではなく、ハイエナ共に都合のいいハンディキャップ付のエセ競争であること、そしてその結末は寡占による独裁と独占で、弱者は更に切り捨てられるものであることだった。判りやすい例で言えば自ら政界を引退すると称して息子を後継者指名する愚に真の自由な競争を語る資格はない。
その結果がもたらしたものは、ホリエモン曰くの"法に触れなければ何をやっても許される"という人種の増大と市民の労働力さえもコストの一部にしか考えない企業屋どもの跋扈する日本社会だった。前にも書いたけれど、体の傷は癒すことはできるけれど痛んだ心は早計には回復しない。その意味でも小泉&ハイエナ竹中の罪は極めて重いといえる。
そんな奴らの後ろ盾だったおばかの枢軸ブッシュ政権が崩壊したのはいいNEWSであったけれど、その愚かな新自由主義のツケがサブプライムローンに端を発する世界的な金融不況である。
しかし、あえて言おう。この金融不況こそ、ベルリンの壁崩壊で壊滅した共産主義思想に続く資本主義思想の崩壊であることを。つまり、共産主義でもない資本主義でもない21世紀型の市民社会を律する新しい思想を生み出すきっかけにすべき新しい時代の幕開けと捉えるべきだと。
新自由主義、つまり金で金を作る現代の錬金術は大きな前提に成り立っていた。つまり資本主義の大原則拡大再生産が繰り返されること。しかし、地球は有限であり当然、資源のみでなくレミングのように全員で崩壊しない限り市場も有限である。
更に言えば資本主義は持つ者と持たざる者があることで成立する格差前提の思想だと思う。果たして67億の地球の市民が同等の生活水準を維持することを誰がイメージしているのだろう?もっと判りやすく言えば、13億の中国人民が1億3千万の日本国民と同等の生活をおくるとイメージすれば、それが消費するエネルギーに地球が持ちこたえるとは、よほどのオバカでも思わないと思うが・・。
これまではそれを誤摩化すために世界戦争を起こして体のいいリセットを繰り返すことで思想を長らえてきただけなのだけど。それに新自由なんてマヤカシの衣を着させてもさすがに限界がきたようだ。
結局のところ、資本主義を維持するためには持つ者と持たざる者の線引きがこれまでの国境ではなくその国内に引かれることによって、ようやく成立する思想であることを認識すべきだと思う。中国人民の生活水準がアップするのを支えるためには日本国内の格差が拡大しなくては地球規模でのバランスを取ることができないということにどうして気づかないのだろうか?
日本人の好きな言葉である"グローバル化"とは実はこのことであることに、そろそろ気がついてもいいと思うけど。
そして新自由主義にほだされた日本の企業屋連中が何をやってきたのか?企業としての収益のためにコスト優先というお題目で日本国内から仕事を奪い中国などコストパフォーマンスのある国へ仕事を移管しつづけた。更に言えば、元々派遣労働者とは労働者側が自ら持つ能力を提供するという労働者側にイニシアティブのある労働形態なのに、アメリカの犬どもは製造業にまでその範囲を意図的に拡大してきた。その結果は今吹き荒れているような派遣切り=つまり市民を原材料の一部のようにより安く入手できる手法、最適調達で切り捨てる状況である。その企業屋(あえて家とは言わない)は企業防衛、未曾有の危機に対処するためと嘯くけれど、雇用を市民を切り捨てて何のための会社なのか?裏返すと企業防衛のためには顧客さえも騙すと聴こえるのは私だけだろうか?
そんな企業に限って過去何年間は過去最大の収益とか栄華を誇っていたところばかりである。そのくせ内部留保とやらでその収益を正規社員にすら還元はしていない。そして派遣社員を切る片方の手で配当は増やしたりしている訳だから、こんな企業屋、その大半が経団連の正副会長経験者の企業ときているわけだから、企業屋の心までも新自由主義が浸食しているのだろう。
多分、彼らはグローバル企業として当然のことだと居直るかも知れない。しかしそんな彼らの作り出す製品を購入するのもその市民だということを忘れているのだろうか?
クルマ好きとして、少しクルマに焦点を合わせてみれば、正にこの当たり前のコモンセンスを忘れた結果が、一見超優良企業T社の現実である。その優良を支えていたのは、確かに日本企業ならではの技術の蓄積と勤勉さにあったことは否定しない。しかし、日本にはあるはずもない富裕層(確かに成金は山ほどいるけれど)とやらに焦点を当てたレクサスブランドを立ち上げ、そうグローバル化による敗者ではない勝者向けのビジネスの立ち上げである、サブプライムバブルに踊る北米市場偏重政策である。まるで総中流思想の恩恵で自らの企業体を拡大してきたことを忘れたかのように、バブリーな北米市場と格差肯定の富裕層ビジネスで更なる高みを目指したツケが今の実態だと思う。更には、新自由主義のもうひとつの犯罪である投機資金による原油高騰を逆手にハイブリット車で一儲けをたくらんだ結果が、投機バブルの崩壊で1/3になった原油価格がその足を更に引っぱっているという皮肉が、6000億の営業利益から半年余で1500億の営業赤字への急降下の要因だと思う。
しかし、事態はもっと深刻な状況だと思う。つまりこの会社(無論、他メーカーも大同小異だが)を支えてきたのが総中流意識のあすなろ族であったのだが、その過程である面、不要なほど購買意欲をそそり、日本の車検制度にも助けられ代替促進を計ることで企業規模を拡大してきたのだけど、一連の原油高騰と未曾有の景気後退により、そんな市民がそれほどクルマを保有すること、あるいは必要以上の頻度でクルマを代替することの無意味さに冷静さの中で気づいてしまったことだと思う。皮肉にもエコ替と称して低次元のCMを垂れ流すことによって、市民が何が本当のエコか気づかせてしまった。つまり、今後景気が回復してもクルマとしての市場の回復が極めて困難な状況だと思う。更にはそれ以上に北米市場が深刻であることは明確だから、単にエアポケットのような落ち込みでないことを自らが一番理解しているはずだ。
もともとの田舎企業、ましてや大政奉還が迫っている現実を考えると必要以上に引き締めたい気持ちはわからないではない。しかし彼らが真のグローバル企業を標榜するのであれば、こんな時こそ打つべき手だてはあるのだけれど。
20兆円もの内部留保を投機筋の配当、否自己株を買いあさっているので結局自分への配当を増やすことに当てるくらいなら、10年後、20年後のクルマ社会を見据えて、例えば非接触式の走行中充電機能の実験道路を作るとか、内燃機関に変わるパーソナルユースの移動デバイスの開発に大型投資を発表するような、企業として夢を語るような事業を宣言すべきであろう。自らがフロントランナーである自覚を持つべきで先頭をきって穴にうずくまる愚こそ、これまでその拡大に貢献してきた市民に対する背任行為だと思うのだがいかに。今のままじゃ、また景気がよくなれば儲けさせてもらいますという陰気な越後屋みたいなものじゃないですかね。
そう、物事考え方だと思う。しかし、だからこそ新しい未来、あり方をこういう時期だからこそ真摯に考えるべきで、1企業の存続/繁栄のみに想いを馳せるだけではあまりになさけない。でもこの会社には無理かも知れない。
さて、話をもどして、市民のための新しい思想とは?
今後、違う星なり地底なりに新しい拡大余力が見つかればともかく、現状67億の民が仮に100億になっても、市民としての最低限の生存を維持するためにはどうすべきかを真剣に考える時期にきていると思うのだが。
アメリカの新自由主義、ネオコンと呼ばれる連中がいかにハイエナかと呼ばれる事実をひとつ紹介しよう。結局大義がないことを認めたけれど、イラク国内をめちゃくちゃにした侵攻で、イラク復興支援とかいって実際にはアメリカの民間企業が営利としてそれを請け負っている事実をご存知だろうか?しかもその企業とはチェイニー(副大統領)やラムズフェルト(元国防長官)が経営に関与するハリバートンであるのだから。意味もなく破壊し、それをネタに金儲けをするのが同じ人間が裏で糸を引いている、これが新自由主義の本質である。オバカなブッシュはお飾りでしかないことは判るけど、だからイラク人に靴を投げられるのは必然であったのかも知れない。しかしそれにしても、そんなアメリカにペコペコ尻尾を振っている我が国の政府というのも情けない以上にやるせなくなる。
21世紀の市民のための思想とは?人間はこれまでいろんな思想を生み出してきたけど、それは政治屋や権力者のためのものではなく市民のものでなくてはならない。ところがそんな思想の性でどれだけ多くの市民が犠牲になったことか。同時に思想の変形でもある宗教でも同様である。本来市民の心の平安や生き方の指針となるべきもので、何故人が人を殺戮しなくてはならないのか?その意味では宗教家は大反省しなくてはならない。そもそも他者を否定しなくては存在できない宗教なんて存在意義はない。
そんな思想や宗教を越えて、世界中が熱病のように冒された過剰流動性の金融バブルを見ると人の幸せとは結局金だけだったのかと暗澹たる気持ちになる。そう、偉そうなこと言っても結局金なのかということ。しかしその実態は1年間で世界の株式市場で消えた金が30兆ドル(3000兆円)、日本のGDPで6年分ということを考えるととてつもなく大きな金だけど、生活が苦しくなったとは言え、商店のものが半分になったわけでもないし、ビルの街並が半分に減ったわけでもない。つまりはバブル、あぶく銭だったわけで、それを前提としていた世界の方が異常だったのだと思う。
原油も150ドル近くに上がったけれど今や40〜45ドルレベル、しかしそれで産油国が破産したとは誰も思っていない。一応35ドルが損益分岐点と言われているわけで、その差額がまさにバブルだったと言える。
ところが世の為政者達ときたら、彼らの打つ施策は金利を極限まで下げたり、金を市場に放出したりとまたぞろ過剰流動の方に戻そうとするものばかりだ。カンフル注射が必要なことは判るが、結局のところ人間という動物は、金を理性でコントロールできないことは今回明確に判ったわけだから、もっと違う視点での政策が必要だと思うのに、本当に視野が狭い。結局萎んだ風船に空気を入れる政策しか打てないのなら為政者としては失格だと思うがいかに。
その中で、全体像ははっきりしないけどオバマが雇用政策を全面に出していることは、ワークシェアまで意識しているかどうかまでは判らないけれど、多少の救いだ。JOBがなければ、市場を拡大する消費も生まれないわけで、単純な緊急避難的施策よりは足は長いが展望性はあると思う。
日本はどうだって?残念ながら、株主からも役員/従業員からも見捨てられているのに創業者ずらだけして社長の椅子にしがみつこことしかない総理大臣では評価以前の問題である。間接民主主義の日本ではまどろっこしいけれど、大前提として国のリーダーたる者、直近の民意を反映したものでない限りは、基本的な政策など何も打てないし、実効はあがらない。漢字より、こんな単純な理屈すら理解できない者は総理どころか政治家の資格すらないことを、その内思い知るだろうと思う。
確かに出口のない年末だけど、少なくともマンガ太郎以外の膿みは出尽くした感がある。昨日までのトップ企業が実はバブルや世襲でしか生き残れない情けない存在であることが判ったように、新しい年は真の思想、政治、企業を市民視点で再構築を始める年にしなくてはと思った。
その意味で2009年から、本当の意味での新世紀が始まると考えれば、希望の光は見えてくると思う。
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