深夜放送
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少なくとも東京のラジオを圧倒しているTBS-Rが最近おかしい。
確かに率は取っているが、ラジオ自体が商売として成り立っているわけでなく、
人気があっても金が付かないと厳しいのは営利企業としては仕方ないが。
さすがに永さんや久米さんの番組は、彼らそのものにスポンサーがついているようなものなので、あくまで普遍だけど、
ことキラキラ関してはそろそろ金属疲労なのかその振れ幅が大きいように思う。
最近では上杉さんのポドキャストでも一悶着があったが、
問題なのはメインである小島慶子のスタンス。
もともと無頼派、あえてラジオキャスターを名乗り、一期一会、その瞬間が大事という彼女の姿勢を否定する訳ではないが、それもその瞬間が存在する場があってのことである。
幸運にも彼女は常にその場を用意した人がいて今があることを基本的に理解できていない。そう言うと、なかったらなかったでそれはそれで仕方ないと嘯くのだろうが、彼女を活かすために努力してくれた人達に想いを馳せるくらいの人としての幅はフリーとなった今だからこそ必要だと思うのだが。
フリーとか社員という次元の問題ではなく、キラキラという場、ラジオという場をどう守っていくかについては同様な責任があってもいいと思う。
確かにポドキャストの件でも問題はTBS内にあることは当然だが、だからこそのメインMCとしてどう考えるか、局側の問題だからと局員、他者を否定することしかできないとしたら,余に身勝手なような気がする
時代の寵児として、その意外性にスポットが当ったことにより、いろんなオファーが殺到している状況だから、そんな暇はないのかも知れないけれど、最近、ますます単なるナルシストにしか感じない行動や言動ばかりと思うのは私だけなのだろうか?(それを個性として否定するのではなく)
何より、永さん、久米さん、伊集院さんに感じるラジオ愛が伝わってこない。
確かにその異質感で新しいリスナーを獲得したのは事実だし、
その番組が貴重なエンタテイメントであることは否定のしようがない。
ただ、局員だった時は同局内を非難することはできて、フリーになったらその舌鋒が歪んできていると思うのは考え過ぎか?お約束の身内ネタだったとしたら、裏切られたと思うリスナーも多いのでは、と。
ラジオファンとして、しがらみがあるのならTBSの冠を降ろしてでもこのラジオという場を守ってもらいたいという願いを込めて、キラキラ頑張れとエールを送りたい。
だったら、"Tシャツあげちゃう!”
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今やラジカセの存在を知らない世代が増えているという。
言葉は知っていてもそれが何の略語か判らないらしい。確かにカセットテープもラジオも今の時代、誰でも目にできるものではなくなっていた・・
そうなるとオープンリールのデッキに至ってはもはや化石なのかも知れない。
ただ、今でも録音スタジオには大抵1器だけはDEONのオープンリールのテープレコーダが残っている。これはスポンサー(主にローカルの)には大昔に作ったCMを今でも使ったり、お尻だけ差し替えたりするので必須なのだそうだけど。
さてTEACのオープンリールにあこがれた世代としては、そうそう最初にみたコンピュータもオープンリールのテレコの親玉みたいなものだった。昔、データ会社から映画のフィルムみたいな登録データを会社のコンピュータに登録(多分、これってダビングみたいなものだったと思う)していたのを思い出す。とにかくあの時代、コンピュータルームは別世界の様にエアコンがガンガンに効いていた。暑い夏にはよく涼んでいた。
いつもように寄り道したけれど、今より電離層の関係なのか、そもそも妨害する電波自体が少なかったからか。電波状態がよかったこの頃、それでも結構必死にTBSラジオをエアチェック(これも死語だなあ)していた。最初の永さんの土曜ワイド(久米さんが病み上がりのレポータだった!)も、平日の昼間も何とか"キンキンケンケンのそれ行け歌謡曲"も聴いていた。宅浪していたから時間は山ほどあったわけで、パックの延長でずっとラジオはTBSだった・・・
その深夜となればまるで地元の局のようにパックや馬場こずえさんの深夜営業、亡くなった那智さんも出てみえたラジオマンガ(水森亜土さんやナレーションは小島一慶さんだった)、中山千夏&佐藤允彦さんの"あなたまかせ”と聴いても聴いても尽きることのない、田舎住まいの宅浪生としてはテレビでは決して入手できない最新かつあまりにも刺激的なサブカルチャー情報の宝庫だった。
かの六文銭もヤングスタジオラブという月金の帯番組があって、その準レギュラーとして出発の歌以前に後にキングサーモンやメモリアルに収められた宝石のような曲を生で歌われていたのが出会いだった。
ラジオ、とりわけ何故TBSかって言えば、永さんがいて、小室さん、きたやまさん(いずれもパックをやってみえた)がいて、那智チャコパックがあって,ミドリブタやこずえさんがいたTBSに対し、ニッポン放送や文化放送はあくまでテレビの2次的な情報しか発信していなかったように思う。つまり、当時からラジオに対してひがみ根性があったこの2局に対し、TBS-Rは正に"もうひとつの別の広場"としてラジオならではの世界を見つけていたのだと思う。
さて本題に入ろう。
ラジカセがCDラジカセとなり、MD付となり、ウォークマンの登場で、もはや重くてでかいこのコンビ家電は行き場を失った。と同時にその主要音源だったラジオもレコード、CDのレンタルビジネスの隆盛を受けていつしか無用の長物となっていた。それは音楽を流すだけしかできなかったラジオの終焉でもあった。
確かにリクエストという手段でいつかかるかどうかも判らない放送を待つよりは、僅かな金額で好きなものをレンタルして録音する方がてっとり早い。
しかし、そんなレンタル自体もやがてネットの時代となり、借りるために店に出かかることまで面倒?と考えるようになり楽曲のネット配信にその座を受け渡すようになっていったのだが・・
そう、ラジオは(少なくも、音楽を垂れ流すだけの)過去のメディアとなり、それを支える広告収入もネットに抜かれて媒体価値がどんどん低下していく。
しかし、こうした媒体としての地盤沈下とは別に、少なくとも一部ではラジオが新しい鉱脈を見つけ出していた。というか、正にもうひとつの別の広場が広がっていただけなのかも知れない。
音楽を流すだけの箱としての価値は薄れてしまったけれど、ラジオとしてのもうひとつの特性がラジオ再生の重要なポイントだった。
それはパーソナルメディアとでも言おうか、発信者と受け手であるリスナーがテレビのそれとは違いマンツーマンの関係で成り立っていること。つまり不特定多数に対し、その最大公約数でしか発信できないテレビに対し、ラジオは広場に集っているひとりひとりに発信している。極めてパーソナルな内容であっても広場に集っている人は共感、あるいは反論というカタチでかかわり合っていけるメディアであることがラジオならではの特徴であることを・・
ただそれを実現するためには、リスナーとの同時性、仮に擬似的であっても双方向性が担保される必要があり、そのためには所謂生ワイドというか生放送でかつパーソナリティの力量がなくてはならないのは言うまでもない。
もうお気づきの方が見えると思うけど、この構成ってまさに深夜放送そのものである。あの深夜放送のスタイルがラジオ再生のキーとなっている。実は深夜放送のフォーマットこそラジオの特性を最大限に活かしたフォーマットなのだと思う。言うまでもなくラジオは音だけと言う事で同時に別のことができる。深夜放送が受験勉強の友だったのと同様に運転をしながらとか作業をしながらといった聴取形態が可能なメディアであること。視覚まで奪われるテレビはそうはいかない。
そして当時よりタイムラグはあったもののハガキ職人に代表されるように、放送の主要コンテンツは実は聴取者であるリスナーが担っていたこと、つまり双方向性が担保されたメディアである。リクエストに対して曲を"かけてやる"と言うDJスタイルではないフォーマットこそが重要なのだと思う。
そして忘れていけないのは、現在のヘビーリスナーがこの深夜放送を体験した世代が中心であること。彼らにとってはこのフォーマットは体に染み付いたものであり、メディア自体にシンパシーを、無論それを伝えるパーソナリティの魅力があってこそだけど、抱きやすい。結果、テレビと異なってより主体的に接しているように思う。
更には、この古くて新しいフォーマットこそ今のネット時代に実は非常にフィットしていることだ。ハガキと異なりタイムラグもなく、FAXという専用の機器がなくとも仕事で使っているPCやケータイから簡単に番組に参画できる。そしてテレビと違って双方向性を想定している番組は参画に障壁はより低く設定されている。
これらの特性が循環する中で、既製品ではない、パーソナルメイドのメディアとして存在しているように思う。
何より、その司令塔とも言うべきMC=パーソナリティも、がんじがらめに秒に追われて進行するだけのテレビと違って正にパーソナリティとしての個性、自分らしさを表現できるラジオに魅力を感じている人が多いのも忘れてならない。
ラジオをあえて中心に置いて活動する永さんは当然のこととして、再びそのフィールドに戻ってきた久米さん、ラジオならではと活き活きとしている安住君や伊集院さん、フリー宣言の際、あえてラジオパーソナリティを宣言した小島慶子さん、あえてラジオしか出ない小島さんの後輩、外山恵理さんもラジオの魅力を理解しているひとりだ。
大竹まことさんにしても月金のラジオで魅せる姿こそが本当の姿だと実感できるし、多分、ラジオだとすべての虚飾が脱ぎ捨てられ生身の姿がリスナーにも伝わるからなのだろうか?
そう、ラジオって実は一番古くて一番新しいメディアなのだと思う。
参考までTBSラジオの平日編成表をご案内しよう。56回連続で聴取率トップを誇るTBSの理由の一旦が、編成上の生番組の多さだと思う。平日は22時間以上が生ワイドとなっている!
<平日TBS-Rの生ワイド番組>
5:00~ 6:30 生島ヒロシ おはよう一直線
6:30~ 8:30 森本毅郎 TBSラジオスタンバイ
8:30~13:00 大沢悠里ゆうゆうワイド
13:00~15:30 小島慶子キラキラ
15:30~17:50 荒川強啓デイキャッチ
18:00~21:00 カキーン(12/31は特番)
22:00~ 1:00 Dig
1:00~ 3:00 JUNK
※つまり24時間中22時間が生ワイド番組というラジオの特性を活かした編成。
これらの番組の多くが番組内でメールを受け付けており、極めてタイムリーにその内容が紹介される構成になっている。こうしてみるとラジオとインターネットの親和性の高さが際立ってくる。ラジオを営業的には第4メディアに追いやったインターネットがこうしてラジオの救世主になるとは,皮肉と言えば皮肉だが、逆の見方をすれば両者の根っこが同じだからこそ救世主になり得たとも言える。
そして正式にはこの12月、ラジオはそのネットとの親和性を一段とすすめた。
実際には3月から実施しているradikoの登場である。
東京圏、関西圏以外の方がリンクすると多分こんな画面になる
しかし、東京圏ではこんな画面になってネット上で放送がダイレクトに楽しむ事ができる。
しかもこの放送は他のインターネット放送と異なって音楽やCMもそのまま流れるサイマル放送だ。更にはFM放送以上の音質で雑音とは無縁の放送を楽しむことができる。
残念ながらこれの運営主体が電通ということで建前はエリア内の難聴取対応ということで、本音はリーチが少ないということでCM営業が苦しくなってきたのを何とかしたいということなので、本来の放送免許エリア外ではネットでの聴取ができなくなっている。これについてはいろいろ言いたいことがあるが、それは別の機会にするが、とにかくラジオが新しい世界に踏み入れたことは確かである。
その意味でも地デジ以上に2011年は新しいラジオのスタートとも言える。
何故radikoなのかと言えば、従来のradioがラジ男なら、新しい放送はradiko,
つまりラジ子という訳だ。
まだお気づきでない方は是非、その世界に踏み入れて頂きたいと思うのが2010年最後の日記となった。
では皆様より良いお年をお迎えください。
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今日の土曜日(11/27日)夜8時から、TBSラジオで緊急特番が行われる。
タイトルは「野沢那智さん、ラジオでお別れ会」。そう、先日亡くなった野沢那智さんを偲ぶ番組だ。
ここでも何度も取り上げているパックインミュージック。1982年まで15年続いたそれには永さん、きたやまおさむさん、小室さんと私自身が大きく影響を受けた方が揃ってパーソナリティとして参加されている。15年の中には、特に後半は、何故この人がっていうのも混じっていた、だからパックが終わったとも言えるのだが、そんなパックに最初から最後まで出演していたのが那智チャコこと野沢那智さんと白石冬美さんのコンビだった。
余談だけど、スタート当初は1時から3時までは1部、3時から5時までは2部という4時間ワイドで、冠スポンサーは日産だった。因みにその那智チャコパックの2部を勤めたのが久米さん(但し5週のみ)、それを引き継いだのがミドリブタこと林美雄さんだった。
パックがパックであった所以は、やはり"もうひとつに別の広場"としての存在だったと思う。深夜というONとは違うOFFの世界、広場が存在した時代だからこそ,成立していたように思う。深夜が深夜でなく、単なる夜の続きとなったことで別に広場ではなくなった。
しかし、今のネット時代の中に身を置いていると、実はそのもうひとつの別の広場がネット世界とシンクロしているように思えてならない。
唯一の違いはアバターの如く、パックの時代の別の広場に集っていたのは自分自身、ONの世界でつい見失い勝ちな自分を感じられる場として存在していたのに対し、ネットの世界にいるのは分身は分身でも仮の自分、自分自身を隠しての存在でしかないことか?
しかし、少なくとも私自身は今の時代の"もうひとつの別の広場"として自分自身を発信する場所として考えている。
さて、土曜日のこの番組、願うことなら単なる懐古的なものではなく、時代に先駆けて存在した真の”もうひとつの別の広場"の先駆者でもあったパックに再評価、こんな時代だからこそ、必要なものとして確認できることになればと思う。
それこそが那智さんへの最大の弔いになると思うのだが・・・。
最後にパックインミュージック(初期だけど)のオープニングメッセージ。
※参考までにPUCKとはシェークスピアの真夏の夜の夢に登場する妖精のこと
ボクはパックだ!君がどんなに高くまで昇っても、あの星をつかみ取る事は出来ない、でも今夜ボクくといっしょに夜の中を歩きまわっているうち、君はあの星を両手にちゃんと握っている事に気づくよ、さあでかけよう!スタート!!
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いろんな訃報があるけど・・
戸田恵子さんの活躍が,連想ゲームのように、薔薇座、アップルツリー、そして
パックインミュージック、金パ・・野沢那智さん。
あれだけ煙草がお好きで、
だから、だとは思えないけど、肺がんのため死去。72歳。
ナチチャコパックは六文銭とともに私が私らしく生きた時代の記念碑だった。
1982年、最後の金パの最後のお題。実はこれはずっと心に残っている。
六文銭の解散から10年後だった。
深夜放送への、ナッチャンからの弔辞のように・・
以下はそのお題を書きおこしたもの、あらためてその想いに触れてみたくなった。
1982.7月金パ最終回 最後のお題。
深夜放送とは、深夜に放送されて初めて価値をもつ番組のことをそう呼ぶ訳でその意味で昼間番組の延長線にある価値のない偽深夜放送にあぐらをかいていつにまにか鼻歌を歌うようになってしまった我々は、深夜放送の大罪人でありましょう。
我々の世代は今、もう子供のように、その日その日をただありのままに過ごしていくわけにはいかない。しかし、また世の大人たちほど現実の厳しさに、自分の理想を傷つけられ、可能性が擦り減らされているわけでもありません。
だから我々は子供とも話さないし、大人とも話をしない、本質的に両者とは相入れないからです。
子供は我々との間に言葉をもたず、大人はそれをすでに忘れてしまっている。今、我々は他のいかなる世代とも深い谷によってわかたれてしまっている、言わば隔絶の世代に位置しているのかも知れません。
しかし、我々はそれを自覚し、自分を保とうと懸命になる一方で、やはり一人では寂しいのです。
人はひとりではやるせない、だから我々は悲しみも喜びもお互いに分かち合い、分かち合える我々自身の世代に共通の広場を求める、そして、そんな広場は広ければ広いほど、我々にとって魅力的なものになる。
傷ついた時、悔しかった時、落ち込んだ時、頭にきた時、言いたいことを言ってやりたい時、あっと驚かせてやりたい時、そして大笑いしたい時、我々は自然に同じ広場に集う、そんな広場にはもうただいるだけでたまらなく底抜けに楽しいものです。
そしてそんな広場、ナチチャコパック我々、隔絶の世代にふさわしい深夜という、極めて非日常的な時間帯に電波という魔法の広がりを持って、今日まで多くの青春世代を暖かく向い入れてくれたのでした。
その意味で金パは人が必ず一度は通らねばはならない、自立好きで、それでいて寂しがり屋の青春世代の若者が集う、ひとつの世代文化の牙城であった。時代は移り、そして人も変わる。10年前のパックメイトはもうすでに金パを巣立ってしまったであろうし、いずれは我々も大人になります。しかし、金パに注ぎ込まれる隔絶された若者の、青春世代の爆発的なエネルギーには絶対に変化があってはならない。
金パは次代へ、夢は次の世代へ受け継がれなくてはならない。
若者の無限の可能性を孕んだ深夜放送は聴視者によって、我々の手によって作られなくてはならない。ボタンひとつですべてが消し飛んでしまうような、こんな不合理な世の中にあって、人間でいることが段々難しくなってきたこんな不自然な世の中にあって、より強力に機能されるべきこの金パという我々にとって、最も大切な発言の場が、皮肉にも我々自身の手によって葬りさられたということは、本当に悲しい。
我々現在の隔絶の世代は、もはやそれ自体で独立を保つことが難しくなり、一部は他の世代へ後退し、あるいは先行し、ついには世代間のバランスが崩れつつあるように見える。だが我々はまだまだ深夜の聖域を諦めはしない。必ずパックのような手作りの深夜放送を蘇えらせるべく立ち上がる日が来るに違いない。 パックは金パはいつの時代にも変わらない、青春世代の自分自身の姿の投影なのだから。
検索していたらネットで見つけました。
こちらはパックとしての最終回特番のエンディング。野沢那智さんの肉声です。
金パと同じようにシバの女王が流れています。MCはもっと早く逝ったミドリブタこと林美雄さん。あらためてお二人のご冥福をお祈りします。
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ラジオCM・・・通常は20秒(因みにテレビは15秒)で表現されるコマーシャルメッセージ。
ラジオ自体を過去の媒体なんて思っている人には理解できないだろうけど
またラジオを聴かない人には無縁だけど、ことばに拘る私としては視覚に誤摩化されない、それでいて確実にメッセージを伝えなくてはならないという点でまさの聴きのがせない存在である。
ここでもラジオについてはいろんな記事を書いてきたけど、
rajiko以降、最も古くてもっとも新しい媒体として注目度も上がってきた。
何よりネットとの親和性も高く、きたやまさんの授業じゃないけど、マスコミュニケーションの体裁をとりながら,唯一パーソナルコミュニケーションを図れる媒体なのだと思う。見えないものを想像する、真の意味に想いを馳せることができるという意味でも・・
だがらきたやまさんはラジオだけはずっと接点を持ってみえたように思う。
余談だが、フジの女子アナとTBSの女子アナの違いは、写っているだけでいいフジと違いTBSはラジオもあるので基本的なアナウンス力は数段上である。キラキラの小島慶子さんのようにフリーになってラジオパーソナリティだと言い切る人がいるくらいだから。次代は外山恵理さん(でも小島さんとそれほど歳はかわらない)か、小島さんもかわいがっている水野真裕美さんかなあ?(恵理さんは今やラジオオンリーみたい。毎週10時間以上生ワイドを続けているし、水野さんはDigで新境地開拓中)
話がそれたけど、そんなラジオのCMの最近の傑作はカルピスのものだと思う。同じように思う人が多いみたいで検索すると結構ヒットするけど、その多くは60秒のロングバージョン、コント風のCMで、それはそれで面白いけどそれだけの長さがあれば面白くて当たり前かも知れない。
やはり時間制限のある中で、聴取者を音だけで引き込み印象を残すものでなくては本当の意味での真のラジオCMとは言えないと思う。
因みにカルピスのロングバーションはこちらで聴ける。
“味だけじゃない”篇
“小さなおなかに”篇
“最初はうすめに”篇
そして、最近の私のお気に入りは・・
●早く(速く)いいなさいよ篇
母: さやか 行くわよ
さやか:ママ~お店に帽子忘れちゃったぁ
母: それ早くいいなさいよ~
さやか:(早口で)ママ帽子忘れちゃった
(SE氷の音+ M)
良い子の健やかな毎日に カルピス
●ドーナツ篇
男の子:さやかちゃん、ドーナツ食べてよ~
さやか:ありがとう~でもね~ドーナツはこの穴が嫌いなの
男の子:じゃさあ、穴だけ残せばいいよ
(SE氷の音+ M)
良い子の健やかな毎日に カルピス
●電話篇SE氷の音+ M)
(SE 電話の呼び出し音)
母 : もしもし~
あぁ さやかちゃん ママよ~
さやか: うん
母 : あのね~パパいる?
さやか:ぅ~ん・・いらない!
(SE氷の音+ M)
良い子の健やかな毎日に カルピス
●AMラジオ篇
(SE ラジオのチューニング音)
男の子:ママ~ このラジオ壊れている!
(ラジオ放送音声で)
"え~時刻は3時を回りました。ここでラジオショッピングです"
母 : はぁん、ちゃんと聴こえているじゃない。
男の子:だって、AMラジオなのに,午後になっても鳴ってる
(SE氷の音+ M)
良い子の健やかな毎日に カルピス
●教室で古い人類篇
(SE 教室のチャイム音)
先生 :は~い、昨日の復習からいきます。
一番古い人類は? はい、わかる人!?
(生徒の声)エ~
先生 :じゃ、加藤君!
加藤君:・・ひいばあちゃん?
(SE氷の音+ M)
良い子の健やかな毎日に カルピス
●教室でしっとり篇
(SE 教室のチャイム音)
先生 :は~い、今日はしっとりということばを
使って文章をつくりましょう!
できましたか!?
(生徒の声)は~い
先生 :じゃ、佐藤君!
佐藤君:クワガタの捕まる場所、しっとりますか?
(SE氷の音+ M)
良い子の健やかな毎日に カルピス
思わずにんまり。職業柄うまいって思ってしまう。
何より子供の声を本物の子供が演じているのがいいなって。
何故か安住君の日曜天国でしか聴く事できないけど、ブラック安住君にぴったりのCMだと思う。
健やかな日曜の朝に、ついつい聴いてしまう。
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